櫛形・東新・川尻・黒磯炭礦
『昭和十三年版 常磐炭礦概要』より
1938年(昭和13)当時、茨城県多賀郡櫛形村・黒前村(日立市十王町)に所在した四つの炭礦について紹介する。
史料について
- ◦書 名:昭和十三年版 常磐炭礦概要
- ◦編 者:清宮一郎(常磐石炭鉱業会常務理事)
- ◦発行所:常磐石炭鉱業会
- ◦発行年:1938年(昭和13)4月28日
- ◦判型等:22.1×14.7cm 130ページ
この『常磐炭礦概要』は常磐地区の大手石炭会社5社が組織した団体が発行したもので、会員炭礦のくわしい紹介と会員外炭礦51社の概要を石炭積出駅ごとに紹介している。この時期の炭礦を網羅しておりすぐれた記録である。
本項で紹介する日立市域の4炭礦はいずれも会員外で、常磐線川尻駅(十王駅)から積出している。
なお、末尾に斤先掘と採炭法などについて簡単な解説をふした。
炭礦の名称について
採掘鉱区を設定する際に、鉱業権者は鉱山名をつける。地名からとる場合が多い。経営組織あるいは経営者の名称を登録することもある。それらを国(当時なら鉱山監督局)に届ける。採掘していないときにはつけない。となりの鉱区と一体となって採掘している場合は、主たる鉱区につけ、二次的な鉱区にはつけない。これらは公式の鉱山名である。
このほかに炭礦名と言ったとき、経営体の名称(企業名)がある。そのほか鉱業権者から鉱区の一部あるいは全部を借りて採掘する斤先掘の場合、公式の炭礦名のほかに斤先経営者が呼びならわす炭礦名がある。地名をとったり、経営者名をとったり。
このように炭礦名は一様ではない。新聞記事や役場の記録などでは、読者にわかりやすいように炭礦名が使用される。本ページが紹介する『常磐炭礦概要』においても、当時の読者である炭鉱会社や関係者が理解できればよいとして(たぶん)、さまざまに用いている。
目次
- 櫛形炭礦
- 東新炭礦
- 川尻炭礦
- 黒磯炭礦
- その他の炭礦
- 三峰炭礦
- 茨城地区常磐石炭鉱業会員外の炭礦年産額
- 常磐石炭鉱業会員炭礦の年産額
- 斤先掘
- 石炭の質と用途
- 採炭機械の導入
- 選炭機械設備の導入
櫛形炭礦(企業中)
鑛業権者 | 櫛形炭礦株式会社 | ||||
代表取締役 | 中塚光五郎 | ||||
本 社 | 東京市麹町區丸ノ内2ノ18、昭和ビル内 | ||||
資本金 | 550,000圓 | ||||
創 立 | 昭和12年7月 | ||||
礦業所 | 茨城縣多賀郡櫛形村友部 | ||||
鑛 區 | 茨採94外1(1,364,730坪) 茨試1,698外1(1,261,700坪) | ||||
坑 名 | 櫛形坑(15度、2500尺掘進中)9月着炭豫定 | ||||
採 炭 | 長壁法。廣部層(4尺)、千代田層(16尺) | ||||
選 炭 | 手選 | ||||
運 搬 | 専用線建設豫定(0.9粁) | ||||
従業員(人) | 技術員 2 | 事務員 2 | 鑛夫 37 | 合計 41 |
鉱業権者の変遷 鉱区番号「茨採94」の鉱区が『鉱区一覧』に初めて現れるのは、1921年(大正10)である。鉱業権者は石井留蔵(東京府北豊島郡南千住町)。鉱区は櫛形村(日立市十王町)と松原町(高萩市)にまたがり、面積70万6525坪の鉱区である。採掘されていない。1933年(昭和8)まで大きな変化はないが、37年に鉱業権者が(株)櫛形鑛業所(東京市渋谷区原宿)、鉱区面積69万1832坪とかわる。翌38年鉱業権者は櫛形炭礦株式会社(東京市麹町区丸ノ内)にかわる。42年8月東邦炭礦(株)、45年5月高萩炭礦(株)とうつり、以後73年の閉山まで高萩炭礦(株)が鉱業権をもつ(史料 櫛形炭鉱概況)。
なお鉱業権者の変遷は、東京鉱山監督局編『鉱区一覧』(明治45年〜昭和15年版)による(以下同様)。
東新炭礦
鉱業権者 | 東新炭礦株式会社 | ||||
代表取締役 | 上野 信孝 | ||||
本社及礦業所 | 茨城県多賀郡櫛形村友部 | ||||
資本金 | 1,000,000円 | ||||
創 立 | 昭和10年12月 | ||||
鉱 区 | 茨採100(229,800坪) | ||||
坑 名 | 東新炭坑(15度、780尺)電力捲 | ||||
採 炭 | 手掘。上層(2.5尺)、本層採炭計画中 | ||||
選 炭 | 手選 | ||||
運 搬 | 貨物自働車(2キロメートル) | ||||
送炭高 | 昭和8年 | 昭和9年 | 昭和10年 | 昭和11年 | 昭和12年 |
単位:トン | — | — | — | — | 6,502 |
従業員(人) | 技術員 — | 事務員 7 | 鉱夫 60 | 合計 67 |
鉱業権者の変遷 鉱区登録番号「茨採100」の鉱区は、1912年(大正元年)段階においては長沢鯛三(東京市芝区)が所有する登録番号60であった。当時清水炭礦といい、となりあっていた田子炭礦(登録番号59)と一体となって操業していた。13年名称は田子炭礦に統一され、さらに14年鉱区所有が加藤多作(埼玉県入間郡高階村)に移り日ノ出炭礦と名称を変え、16年には広部鉱業(株)が経営に参加するようになってから広部炭礦と称した。18年鉱区は広部鉱業(株)の名義となる。この広部炭礦の鉱区の鉱業権者の変遷については、史料 広部鉱業の川尻坑 を参照。20年になって登録番号60の鉱区は、100と101に分割された。
広部炭礦は戦後不況により24年からは休山となり、1929年(昭和4年)末以降、番号100のこの鉱区は広部鉱業から仁熊伊之助、元川金次・岡野勇(共有)、岡野勇、岡野有佐と個人を転々とし、採掘されることはなかった。
1936年(昭和11)に東新炭礦(株)に譲渡され、翌37年から大黒炭礦と名づけられて採掘が再開される(鉱区一覧)。1947年に川尻炭礦(株)の所有鉱区となり、川尻炭礦と改称された。56年4月俵炭鉱(株)が租鉱権をえて採掘(高木家文書)。61年十王炭礦と名称を変え(経営体不明)、62年7月閉山。
川尻炭礦
鉱業権者 | 仁熊伊之助 | ||||
斤先経営者 | 作山 翠 | ||||
創 立 | 昭和12年2月 | ||||
資本金 | 200,000円 | ||||
本社及鉱業所 | 茨城県多賀郡川尻駅前 | ||||
鉱 区 | 茨採101(190,000坪) | ||||
坑 名 | 第1坑(25度、192尺)電力捲 | ||||
採 炭 | 手掘。本層(3尺) | ||||
選 炭 | 手選 | ||||
運 搬 | 貨物自動車(3キロメートル) | ||||
送炭高 | 昭和8年 | 昭和9年 | 昭和10年 | 昭和11年 | 昭和12年 |
単位:トン | — | — | — | — | 1,143 |
従業員(人) | 技術員 1 | 事務員 1 | 鉱夫 15 | 合計 17 |
鉱業権者の変遷 採掘鉱区101の面積が19万坪とあるが、当時の東京鉱山監督局編『鉱区一覧』には5万7155坪とある。また鉱業権者は仁熊伊之助ではなく新田法教(東京市淀橋区戸塚町)である。仁熊伊之助(東京府豊多摩郡戸塚町)が鉱業権者であったのは1928年(昭和3)から36年まで。『常磐炭礦概要』の記述は『鉱区一覧』と違いすぎる。
『鉱区一覧』によって鉱区101の変遷をたどってみる。番号60の鉱区が1920年(大正9)に100と101に分割されたことは、上の東新炭礦の項で説明した。21年に広部鉱業は101の鉱区(6.1万坪)を59の鉱区(20.8万坪)とともに村山丑松(櫛形村友部)に手ばなし、採掘は中断する。その後101と59は24年に常磐炭礦株式会社(東京市麹町区永田町)、28年(昭和3)仁熊、37年杉浦英一(岡崎市康生)、翌38年新田法教に移った。59の鉱区は37年には広部炭礦から三峰炭礦へと炭礦名称が変わるが、101は無名のままである。新田は40年までこの二つの鉱区59と101の鉱業権者である(41年以後は史料欠)。そして40年に101にも「三峰炭礦」と名づけた。
この川尻炭礦は幽霊のようだ。『常磐炭礦概要』の材料は斤先経営者の作山が提出しているはずだから、それを念頭において、項目にそって推測してみる。
鉱業権者について、この時点(『常磐炭礦概要』出版時期の1938年)での仁熊は誤り、当時は杉浦英一。しかし斤先契約時点の36年あるいは37年のはじめは仁熊だった。作山が本格的な採掘をはじめたのは、37年2月から。鉱区は茨採59と101の二つ(合計25万余坪のうち19万坪を借区)。坑名以下の項目はそのまま受けとってよい。ただ『鉱区一覧』に59の鉱区において36年に出炭高37トンの記載があるが、これは作山の創業準備段階における採掘だと考えたい。
このようなことが起るのは、しばしば鉱業権者がかわるからである。投機目的の鉱業権の移動が頻繁に行われていたことをうかがわせる。
『常磐炭礦概要』が紹介するこの川尻炭礦は、三峰炭礦を斤先掘りする作山の経営体の名称であると考える。上記東新炭礦の後身である川尻炭礦と異なり、関連性もないものと考えられる。1941年以降の事歴は不明。
黒磯炭礦
鉱業権者 | 大日本炭礦株式会社 | ||||
斤先経営者 | 谷口 源五郎 | ||||
礦業所 | 茨城県多賀郡川尻* | ||||
鉱 区 | 茨採53ノ内 | ||||
坑 名 | 黒磯坑(15度、260尺) | ||||
採 炭 | 手掘。残柱式、上層(2.5尺) | ||||
選 炭 | 手選 | ||||
運 搬 | 貨物自動車(3キロメートル) | ||||
送炭高 | 昭和8年 | 昭和9年 | 昭和10年 | 昭和11年 | 昭和12年 |
単位:トン | — | — | — | 1,717 | 1,213 |
従業員(人) | 技術員 1 | 事務員 — | 鉱夫 7 | 合計 8 |
*この時期に多賀郡川尻という町村名はない。川尻駅の近くにあるという意味であろう。
鉱業権者の変遷 1912年(大正元)の『鉱区一覧』によれば「茨採53」は黒前村(日立市十王町)にひろがる56万7045坪の鉱区で、清水炭礦として登録され、鉱区56万7045坪、鉱業権者は桑田知明(東京市赤坂区檜町)。この鉱区はとなりの秋山炭礦(登録番号27)と合併施業しており、出炭量は不明である。14年に古賀春一(長崎市上西山町)に移り、15年には古賀が設立した茨城炭礦株式会社(東京市神田区仲町)に移ると同時に秋山炭礦と改称、さらに18年、古賀が設立した大日本炭礦株式会社(東京市麹町区永楽町)に移り、高萩炭礦と改称。32年(昭和7)に他の鉱区(27・65・76)と合併施業。40年に他の鉱区とともに高萩炭礦株式会社(東京市京橋区入舟町)に移り、67年に閉山。
この53番の鉱区の一部を谷口源五郎が斤先経営をしている「黒磯炭礦」という名称は、斤先掘炭礦の名称であろう。1939年以降の事歴は不明。44年からの茨城炭礦会の出炭量の記録(炭礦の社会史研究会『聞きがたり 茨城の炭礦に生きた人たち』付表)にその名はない。
その他の炭礦
以上四つの炭礦の外に、『十王町史 通史編』(十王町史編さん調査会編 2011年)は、この時期の炭礦として、大高康の山部炭礦(斤先経営 1935年開始、47年閉山)、寺沢慶作の寺沢炭礦(1942年鉱区取得)、東石炭株式会社の東炭礦、土井利孝の三峰炭礦(斤先経営 1937年開始)の四つをあげる。
1937年日中戦争がはじまり、石炭の増産が求められた。休眠状態にあった鉱区が投機の対象となり、さまざまに譲渡が行われ、採掘の準備に入る企業もあり、あるいは個人名義により鉱区を借りて行う斤先掘りもはじまる。上記4炭礦のなかでも規模の大きい東新炭礦でさえ、送炭量6500トン、従業員数70人に満たない小規模経営体である。戦後になって経営者をかえながらも継続されてゆく炭礦は、この東新炭礦と企業(起業)中の櫛形炭礦のみである。
三峰炭礦
三峰炭礦は、前出『十王町史』は1937年に土井利孝が元広部鉱業所有の鉱区を仁熊伊之助より譲り受けて開業、資本金20万、37年度に377トンを出炭したというが、翌38年の新聞記事に次のようにある。
土井子爵が 石炭發掘開始 三峯炭礦會社を設立
東京市淀橋區下落合二ノ六〇土井利孝子爵は、多賀北部炭田の石炭採掘を計畫し調査中の處、いよいよ資本金廿萬圓を以て三峯炭礦株式会社を設立して、櫛形村友部川上地内に礦業所を建設するに決定、目下敷地として附近山林一反當り四百圓より七百圓前後にて買収中である、礦區は四十二萬坪に達し、作業開始の暁には月二千トン出炭する見込みであり、このため同地方の發展に期待をかけられてゐる
『いはらき』新聞 1938年6月24日付
『新聞記事にみる茨城地域の炭礦と社会 昭和編1』所収
新聞記事は予告記事だが順調にすすめば1938年からの採掘、出炭ということになる。『十王町史』とは1年ちがいになるが、出典が示されていないので、確定は今後に待ちたい。
茨城地区常磐石炭鉱業会員外の炭礦年産額
日立市域旧十王地区での炭礦経営はいずれも小規模であるといったが、比較のため茨城地区会員外炭礦と常磐石炭鉱業会員5社の生産高をつぎに示す。いわき、茨城そして十王地区の規模のちがいは明瞭である。送炭高の単位はトン
◎川尻駅積出炭礦 | |||||
鉱山名 | 昭和8年 | 昭和9年 | 昭和10年 | 昭和11年 | 昭和12年 |
櫛形炭礦(起業中) | — | — | — | — | — |
東新炭礦 | — | — | — | — | 6,502 |
川尻炭礦 | — | — | — | — | 1,143 |
黒磯炭礦 | — | — | — | 1,717 | 1,213 |
◎高萩駅積出炭礦 | |||||
鉱山名 | 昭和8年 | 昭和9年 | 昭和10年 | 昭和11年 | 昭和12年 |
千代田炭礦[1] | 42,091 | 45,844 | 28,074 | 20,307 | 27,055 |
秋山炭礦[2] | — | — | — | 16,841 | 57,454 |
北方炭礦[3] | 10,084 | 9,486 | 11,606 | 17,458 | 23,854 |
手綱炭礦[4] | — | — | 15,135 | 32,296 | 43,519 |
[註]
- [1]鉱業権者:磐城炭礦株式会社 斤先:渡邊りよ 所在地:多賀郡松岡町上手綱
- [2]鉱業権者:大日本炭礦株式会社 斤先:上田長一 所在地:多賀郡高萩町
- [3]鉱業権者:大日本炭礦株式会社 斤先:常磐合同炭礦株式会社 所在地:高萩町
- [4]壽炭礦とも 鉱業権者:鉱業権者:大日本炭礦株式会社 斤先:水野壽一 所在地:高萩町
◎磯原駅積出炭礦 | |||||
鉱山名 | 昭和8年 | 昭和9年 | 昭和10年 | 昭和11年 | 昭和12年 |
丸真炭礦[5] | — | — | — | 8,239 | 21,476 |
芳ノ目炭礦[6] | 2,323 | 8,820 | 11,009 | 12,658 | 14,117 |
山口炭礦[7] | 19,746 | 30,212 | 33,555 | 38,489 | 45,257 |
華川炭礦[8] | — | 13,951 | 7,179 | 32,408 | 32,758 |
長谷川炭礦[9] | 12,899 | 13,951 | 7,179 | 9,093 | 10,393 |
- [5]鉱業権者:大日本炭礦株式会社 斤先:渡邊真 所在地:多賀郡華川村上小津田
- [6]鉱業権者:入山採炭株式会社 斤先:川波芳太郎 所在地:華川村小豆畑
- [7]鉱業権者:株式会社山口炭礦 直営 所在地:多賀郡磯原町
- [8]鉱業権者:常磐合同株式会社 直営 所在地:磯原町
- [9]鉱業権者:茨城無煙炭礦株式会社 直営 所在地:華川村上小津田
常磐石炭鉱業会員炭礦の年産額
出炭高 単位:トン
会社名 | 昭和8年 | 昭和9年 | 昭和10年 | 昭和11年 | 昭和12年 |
磐城炭礦(株)[10] | 900,696 | 988,741 | 936,700 | 989,482 | 824,149 |
入山採炭(株)[11] | 381,695 | 442,237 | 485,107 | 515,869 | 571,601 |
古河石炭鉱業(株)[12] | 202,435 | 230307 | 264,566 | 295,279 | 310,270 |
大日本炭礦(株)[13] | 212,415 | 242,217 | 274,453 | 311,421 | 329,989 |
第二磐城炭礦(株)[14] | — | — | 6,850 | 39,100 | 77,450 |
- [10]磐城炭礦(株):内郷炭礦(直営 石城郡内郷村)・小野田炭礦(斤先 石城郡磐崎村)・重内炭礦(斤先 多賀郡磯原町)・千代田炭礦(斤先 多賀郡松岡町)からなる
- [11]入山採炭(株):入山炭礦(直営 石城郡湯本町)・中郷無煙炭礦(斤先 多賀郡南中郷村)の2礦からなる
- [12]古河石炭鉱業(株):好間炭礦(直営 石城郡好間村)
- [13]大日本炭礦(株):勿来炭礦(直営 石城郡勿来町)・磯原炭礦(企業中 多賀郡華川村)・高萩炭礦(直営 多賀郡高萩町)の3礦を経営
- [14]第二磐城炭礦(株):長倉坑(直営 石城郡磐崎村)を経営
- 上記5炭礦会社の本社はいずれも東京市に所在する。 太字は茨城地区の炭礦
斤先掘
鉱業権をもたない者が、契約により鉱業権者の鉱区で鉱物を採掘し、その他事業を営むことを斤先掘という。当時の鉱業法では違反だが、慣行的に行われた。1950年の鉱業法改正で、租鉱権として認められた。
あらためて茨城地区の斤先掘炭礦を書きだしてみよう。川尻・黒磯(以上、川尻駅積出)、千代田・秋山・北方・手綱(高萩駅)、中郷無煙(南中郷駅)、丸真・芳ノ目・重内(磯原駅)の各礦が斤先掘である。茨城地区の炭礦14のうち10礦(71%)が斤先掘なのである。いわき地区の32%に比して多い。その理由、意味するところについては、後日にゆずります。
石炭の質と用途
常磐炭礦(株)はいわき地区と茨城地区にそれぞれ2炭礦をもつ。「炭質及用途」でそれぞれの地区の炭質と用途について次のように述べられている([ ]は引用者)。
内郷炭礦及小野田炭礦[いわき地区]産出炭は不粘結性にて發熱量高きを以て一般汽罐焚料、セメント工業に好適し、鐡道省各官廳其他奥羽、關東、信越、東海道方面の諸工業用として汎く販賣し、重内坑及千代田坑[茨城地区]産出炭は共に薄煙炭にして硫黄分少なく家庭用の優良炭として京濱方面に愛好せらる
発熱量の高いいわき地区の石炭は産業用であり、煙の少ない茨城地区の石炭は家庭用が主だと言っている。茨城地区の2炭礦は斤先掘に委ねていることと関係あるのかないのか。ともかく家庭用というのは重内・千代田炭礦にかぎらず茨城地区に共通する要素である。
採炭機械の導入
石炭を掘りだす際に、機械を使用するか、鶴嘴をふるって手で掘りだすか。そのちがいについていわき地区の大手3礦、十王地区の4礦、そして茨城地区では大手に属する山口炭礦をとりあげてみる。
常磐炭礦 | 入山採炭 | 大日本炭礦 勿来礦 |
櫛形炭礦 | 東新炭礦 | 川尻炭礦 | 黒磯炭礦 | 山口炭礦 |
機械掘 | 機械掘 | 機械掘 | — | 手掘 | 手掘 | 手掘 | 手掘 |
常磐炭礦や入山採炭には、コールカッターやジャックハンマーが導入されている。それら機械は圧搾空気によって動く。そのためには大型のコンプレッサー(圧縮機)を備え、切羽まで配管しなければならない。多額の資金を必要とする。
選炭機械設備の導入
常磐炭礦 | 入山採炭 | 大日本炭礦 勿来礦 |
櫛形炭礦 | 東新炭礦 | 川尻炭礦 | 黒磯炭礦 | 山口炭礦 |
機械 | 機械 | 機械 | — | 手選 | 手選 | 手選 | 手選 |
選炭方法についても、大手炭礦は機械を導入しているが、中小では人の手による選別を行っている。詳細が本書『常磐炭礦概要』に掲載されている。