史料 広部鉱業の川尻坑
『日本炭礦行脚』より
広部鉱業川尻坑
広部鉱業川尻坑は、茨城県多賀郡櫛形村と黒前村(いずれも現在日立市十王地区)にまたがる鉱区約51万坪(鉱区登録番号59と60)をもつ炭礦で、常磐地方としても小規模な部類に属する。公式には広部炭礦といい、東京の広部鉱業株式会社が経営する。
広部鉱業が59と60の二つの鉱業権をもつようになるのは1918年(大正7)ごろだが、その2年前の1917年には炭礦の名称が「日ノ出」から「広部」に変更されていることから、17年には広部鉱業が経営に参画をはじめたことがうかがえる。
この鉱区は常磐地方の小規模炭礦の例にもれず、鉱業権者・経営者はしばしば交代し、出炭量も不安定である(末尾に「広部炭礦の鉱区変遷表」に掲出したので、参照されたい)。
広部炭礦は『日本炭礦行脚』の著者が訪れた1918年には年間1万2805トンを産出し、準重要鉱山と位置づけられた。まさに第一次世界大戦の好況にわいた。しかし2年後の1920年1月に戦後の不況によって休業してしまう(1920年5月26日付『いはらき』新聞)。
史料について
- ◦書名:日本炭礦行脚 角書:黄金時代之各炭礦
- ◦著者:帝国新報記者 里見敬二・清宮一郎
- ◦発行所:帝国新報社出版部
- ◦発行年:1919年(大正8)7月8日 『帝国新報』に2年間にわたって連載したものを一書にまとめたもの。国内の主要炭鉱を網羅している。
- ◦国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で読むことができる。
凡例
- ◦縦書きを横書きに改めた。
- ◦漢字は常用漢字があるものは常用漢字に改め、ないものはそのままとした。
- ◦仮名遣いはそのままとし、原文に句読点と改行を追加した。
- ◦ルビと[ ]は制作者による。
[本文]
輸送問題
降雨覆盆どころでない。疾走の汽車が得進めぬほどの大雨だ、今日の常磐炭礦行脚は雨にたゝられた。此れでは明日の視察も何うかと危ぶまれた。夜中の十一時過ぎ水戸駅に着いた。駅構内の車夫、盛に乗車を勧めるから水戸には木賃宿がないか、若しあつたら案内を。と云ふと、車夫はスツカリ怒って、水戸様のお膝元には木賃宿などありやしない。と記者の方に尻を向けて、他の乗客を勧めたは一興、駅前の旅館に投じて明日天気を祈つた。甲斐あつてか翌朝は夜来の雨歇みて、空の一隅には碧天さへ見えた。
先づ広部鉱業株式会社の川尻鉱業所に赴くべく、川尻駅で汽車を捨てた。駅前の運輸事務所には、勿来や川尻鉱業所の事務所長を兼ねた青山氏が居る。貨車配給問題に就て、青山氏の曰く無煙炭の貨車配給問題も隨分困りましたよ。最初私は貨車の配給の悪い時代に水戸運輸事務所に行つて貨車を廻して呉れないから常磐方面の各炭礦では貯炭を実数より多く報告してゐる。詰り筆の先で炭を掘つてゐる。此れは何うにかして呉れないと困る』と火を付けた。其後有煙側の方の人も其麼事を云つて行つたさうです。事実其の当時は斯様な不正確な貯炭高で貨車を配給したのですからね。私等の方の貯炭は約半減の査定にされましたよ。けれども貨車の配給は改正前よりも幾分数を増した。』と更に話は他に移つた。
旺盛の炭礦熱
昨今の炭価好況時代が何時まで続くものやらと云ふことになつた。そして曰く昨今常磐方面に新設会社が沢山出来るが、将来何うだらう。大体今の炭礦業者は、来るべき反動機を知らないから困りますネ。此の川尻附近にも随分沢山の鉱区を持つてゐる人がありますよ。兎に角川尻駅の附近からズツト向ふの山までも皆な鉱区の持主があるのですよ。そして昨今は炭価好況時代に向つたので採掘しやうと云ふ計画の人が沢山ある、此の駅の附近の鉱区は松平家の家扶の何とか云ふ人が持つてゐるので、此れも近く駅附近に開坑しやうと云ふ計画なそうな。私の方の川尻鉱区は最初埼玉県の加藤某[1]が持つてゐて、駅の積込場には、魚屋の流し場のやうな小さな板を並べ、其上に粉炭を置いてあつたが、私の方でやるやうになつて、其の所を見たら、粉炭の上に草が蓬々と生へてゐるのです。会社となつたのは一昨年の七月頃[2]でせう、今の鉱区は恰度私の方で六代目を勤めたのです。
[註]
- [1]加藤某:加藤多作。埼玉県入間郡高階村。巻末「広部炭礦の鉱区変遷表」参照
- [2]会社となったのは一昨年の七月頃:著者が広部炭礦を訪れたのは1918年。2年前なら1916年(大正5)の7月。このとき鉱業権者は加藤のまま鉱山名が「日ノ出」から「広部」に変わっている。これを指すのだろう。
[山元から川尻駅までは馬車輸送]
駅から炭山迄十八町[約2km]の間の運炭は馬力です、馬が車に積んで運ぶのです、馬も農繁期でないと、最つと運べるのですが、何しろ農繁期で馬を田圃に使ふので、日に十円やると云つても、彼等は一年中の食料を作るのが大切だから来ない。為に現在では一日六十噸ほどしか駅に出ない。
[周辺の鉱区]
私の方の鉱区を取捲いてゐる鉱区を云ふと、桑田知明、立花敏、鈴木某、松平家家扶の諸氏です。何れも莫大なものですが其内に有望な鉱区は僅々二三に過ぎないで、後はゼロです。常磐方面の炭礦に古い方は、今でこそ常磐方面に余り関係はないが、阪市太郎さん、其他大日本炭礦の桑田さん、千代田炭礦所長の市村さんなどです。此人等が、此の鉱区は必ず将来嘱すべきものだと云つたら必ずよいのですと。
炭山の方の主任だと云ふ牧氏が運輸事務所に来た。未だ若い人で昨年迄九州の本場に居た人、愛嬌の微笑を洩らして此れから私が山の方を案内しましやうと云ふ。
交 通
炭山は今日は会憎休日であるが、それでも大体は見ることは出来るでせうと云はれる。駅から炭山の間十八町[約2km]は徒歩である。馬力が通るから極めて道が悪い。少し歩くと村落がある。十王川と云ふ清澄な流れに沿ふて其の村落には坑夫連中或は土地の若い衆連中の消費機関とも云ふべき、薄汚い旅館兼料理屋が十数間もあり、其処には浅草式の濃厚な白粉臭ひ首をしたのが、ウヨウヨしてゐる。
構内外施設
川尻駅の附近にある鉱区は、炭田のあらん限り既に其の全部は試掘権のあるものばかり。そして現在採掘に従事して居るのは、広部鉱業の川尻坑と、大日本炭礦の秋山坑[1]だけ。他は未だボーリングもやつて見ないものであるが、此辺り評判では桑田氏の鉱区と松平氏の鉱区と其他一二鉱区が見込があると云ふ事だ。
広部鉱業の川尻坑は全鉱区面積五十一万六千坪、県道が中央に堺して、鉱区は左右に分れ、目下は県道の向つて右方に坑口を開いて炭を出して居る。其の右方の鉱区の最下端の方は、断層か何かの関係で、現在の坑道から炭を出すことが出来ないので別に其方に坑口を開くことにし、目下ボーリング最中である。五本のボーリングで、其一は二百四十五尺で着炭し、一は三百三十七尺、一は百四十四尺、一は三百二十七尺で何れも地表から四尺層に着炭してゐる。
炭山から駅迄の小運送は十九台の馬力で一車千百斤[約660kg]を一回に運んで、一日六十噸を搬出することが出来る。そして現今では貯炭は五百噸(駅構内)と七百噸(炭山)と二ケ所にある。と牧主任の極めて懇切な説明が終つて、今度は坑内外を視察することになつた。
小さな掘つ立て小舎のやうな事務所[2]を出て、ボタ捨場に出た。此のボタ戦前には捨て場に困つたが、昨今会社では万斤[約6トン]二円に売る。それを所謂石炭商人が奪ひ合ひのやうに買つて行く。石炭商人はボタを買ふと直ぐ其処で選炭して、川尻駅迄出して、隅田川[3]迄運び其処で六円位の生産費になる。それを需要者に売るには何うしても十円や十五円乃至四五十円になるのだからボロイ。炭価好況時代は是等の人々に神様のやうに思はれる。
ボタ捨場の傍が選炭場である。恰度公休日で選炭夫は見えなかつたが昨今は挿秧[4]の時節だから選炭夫は大抵其方に行く。
其横が坑口の運搬坑。斜坑で傾斜二十度の急坂を五十尺下ると其処で着炭してゐる。本線の延びは一千三百五十尺だと云ふから約四町はある。本線は左方は未だ三坑道しかない。右方は四坑道、各坑道とも五百尺位宛延びてゐる。此外本線の最下端に斜の坑道を一つ作つてある。
此処の炭層は本層と称して採掘してゐるものゝの厚さは三尺、炭質は無煙の極上等、中に薄いセール[5]が挟まつてゐる。採掘の方法は長壁式[6]でそして其の挟まつてゐるセールを充塡材料としてドシドシ掘つて炭は出す、セールは詰め込むと云ふことにしてゐる。
坑内は自然通風によつて充分。水量は五立方位だ。よつてポンプは僅にオーピントンが二台、ノールツ十吋が一台あるのみ。其の斜坑口上方に捲揚機がある。三十七馬力のと、八馬力のとあつて三十七馬力のは目下据付中である。坑内から捲機によつて八百斤[480㎏]炭車が一度に三四車も連結して搬出され、それが直に選炭場の方に行くやうになつてゐる。
捲機の箇処は此処の炭山の絶頂であるから周囲が皆な見える田植期[季]節だから田植女が、坑内節を唄つてゐる。大方選炭夫でゞもあらう、坑夫の長屋が彼方此方に点々として散在してゐる。然も茅屋根の純百姓家のやうな家が。牧主任は長屋の点々たるものはよくないと云はれたやうだが、記者は百姓家の中に点々たる坑夫長屋のあるのは、兎角ナマケ勝ちな坑夫等は、百姓の其の不撓の努力に感化されるだらうから、却つてよいと思ふ。
機関の据付けてある所は運搬坑口から二三十間距ってゐる。コルニツシユ式[7]の径五尺長さ二十四間尺のと、径五尺長さ二十尺のとが二つ据付けてある。公休日の当日で特に釜を沸かして坑内のスチームパイプを修繕してゐる。機関場のスグ横が、入気坑である。
[註]
- [1]秋山坑:松原町と黒前村にまたがる鉱区に当時大日本炭礦が経営する高萩炭礦があり、松原町大字秋山に坑口があったので、秋山坑と言った
- [2]事務所:広部炭礦の位置を言うとき、鉱区を示すなら広すぎる。坑口を言うなら複数の坑口をもつ炭礦の場合困る。とすると事務所の位置を示すのが適当かと考える。『行脚』の記述から推測すると、事務所は、現在の県道10号線日立いわき線を十王駅(川尻駅)の北西700メートルにある法鷲院前から十王川に沿って西に約1.4キロメートルほど進み北に折れる。十王川を渡り約300メートル進むと東側に数戸の住宅がある。そのあたりが事務所、つまり広部炭礦の位置ではないか。
- [3]隅田川:常磐線や東北線の貨物専用駅
- [4]挿秧:そうおう。田植え
- [5]セール:シェール、頁岩のことか
- [6]長壁式:採掘の区画を大きくとり、その100メートル以上の長い炭壁面に沿って採掘する方法
- [7]コルニッシュ式:丸ボイラー(鋼鉄製の水を満たした缶を主体としたボイラー)の一種。水缶内に炉筒(円筒形の燃焼室)が一本のもの
[労働者の住居・風俗・募集]
牧主任は其処で語つた。労働者の数は全部で百七十名居る。其の労働者の住居として八棟の家があるが、此れで全く労働者の居住は足れるのではない。足らないから、自分の家から通つてゐる者が沢山ある。其他に役員の舎宅は一棟ある。用度部で米を除く他の、味噌醤油を始め、通俗的の日常品を賣つてゐる。
此処の坑夫の風俗はと云ふと、最近九州方面の炭礦の本場から来た坑夫などが悪い風儀の種を蒔いて困る。私も昨年九州から来たのですが九州の本場の坑夫などが此辺に来ると其の良い所はやらないで、悪い所ばかりをやつて幅を利かすから堪らない。けれどもそれはホンの一二ケ月丈け、大体が此辺の労働者は一般附近の百姓で、根が温和しいのであるから、九州の坑夫などが一人や二入来たとて、其の来た者が此辺の労働者に感化されるから良い。
杭木ですか、杭木などは私自らが、附近の山林へ買ひに行きます。時によつて商賣人よりもズツト安いこともあり、或は四五十円位しか安くない時もある。それで現在では一万斤の石炭に対する杭木の費用は二円七八十銭、一ケ月に五百円ソコソコです。一万斤に対する全部の生産費ですか、それは時と場合によつて違ふが、大体に於て川尻駅迄出して二十三円から二十六七円見当、本社の方々は技術の方よりも、何でも炭山の方の費用が安ければよいのだから、其の方針で万事やって行きます。
けれども為さねばならね仕事は何うしてもやつて行きますよ、即ち事務所の改築、貯炭場の拡張、選炭場の増設、更に出炭の増加を図るべく大島方面の約八万坪許りの所へ斜坑を開く計画も立てゝゐますと。
此方の質問が前後したが、此辺の殊に此処の炭礦の坑夫などは、昨今の労働者払底で、争奪戦をやつてゐるにも拘はらず、多くの坑夫などに移動はない。偶他の炭山に行く者があつても、此方に永く住み馴れて、他へ行くと淋しいか、或は住み馴れた所が恋しいか、再び立戻つて来る。従つて労働者の募集費用などは使つたことはないと云ふことだ。経費を使つて労働者を募集して賃銀が安かつたら其の移動は烈しからう。之に反し、募集経費をそれだけ労働者賃銀に頭割にしたら、何れ丈け労働者に取つて為になることだか。広部鉱業の此のやり方は、他でも試みてゐるが確かに好成績を挙げて行く。只此れには労働者自身が覚醒しなければならないことがある。即ち他から募集人が入り込んで、甘言に乗ぜられない事である。
最後に広部鉱業の川尻坑の炭山を一人で切り廻してゐる牧主任は将来益其の多年の九州本場の経験を発揮せんことを祈る。川尻坑其者も、之を支配する牧主任も、共に今は壮年時代であるから。
参考 広部炭礦鉱区(登録番号59・60)変遷表
東京鉱務署・東京鉱山監督局編 各年『鉱区一覧』より
編者の手元にあるコピーから拾いました
年次 | 番号 | 面積(坪) | 鉱山名 | 鉱業権者・所在地 | 前年鉱産額 (トン) |
|
---|---|---|---|---|---|---|
1912 大正元 |
59 | 207,500 | 田子 | 長沢鯛蔵 東京市芝区高輪町 | 約927 | |
60 | 305,530 | 清水 | 長沢鯛蔵 | 59と合併施業 | ||
1913 | 59 | 207,500 | 田子 | 富士治左衛門 東京市日本橋区小網町 |
約1,004 | |
60 | 305,530 | 田子 | 富士治左衛門 | 59と合併施業 | ||
1914 | 59 | 207,500 | 日ノ出 | 加藤多作 埼玉県入間郡高階村 | 約49 | |
60 | 305,530 | 日ノ出 | 加藤多作 | 59と合併施業 | ||
1915 | 59 | 207,500 | 日ノ出 | 加藤多作 | 約1,626 | |
60 | 305,530 | 日ノ出 | 加藤多作 | 59と合併施業 | ||
1916 | 59 | 207,500 | 広部 | 加藤多作 | 約658 | |
60 | 305,530 | 広部 | 加藤多作 | 59と合併施業 | ||
1917 | 59 | 207,500 | 広部 | 加藤多作 | 1,972 | |
60 | 305,530 | 広部 | 加藤多作 | 59と合併施業 | ||
1918 | 59 | 207,500 | 広部 | 広部鉱業株式会社 東京市日本橋区本町 |
9,018 | |
60 | 305,530 | 広部 | 広部鉱業株式会社 | 59と合併施業 | ||
1919 | 59 | 207,500 | 広部 | 広部鉱業株式会社 | 12,805 | |
60 | 305,530 | 広部 | 広部鉱業株式会社 | 59と合併施業 | ||
1920 | 100 | 244,230 | — | 1920年10月、広部鉱業株式会社は鉱区60を分割し設定* | ||
1921 | 59 | 207,500 | 広部 | 村山丑松 多賀郡櫛形村大字友部 | — | |
60 | 100と101に分割され、消失 | |||||
100 | 244,230 | — | 広部鉱業株式会社 | 303 | ||
101 | 61,300 | — | 村山丑松 | — | ||
1922 | 史料欠 | |||||
1923 | 史料欠 | |||||
1924 | 59 | 207,500 | 広部 | 常磐炭鉱株式会社 東京市麹町区永田町 |
684 | |
100 | 244,230 | — | 広部鉱業株式会社 | — | ||
101 | 61,300 | — | 常磐炭鉱株式会社 | — | ||
1925 | 史料欠 | |||||
1926 | 59 | 207,500 | 広部 | 常磐炭礦株式会社 東京市麹町区永田町 |
— | |
100 | 244,230 | — | 広部鉱業株式会社 | — | ||
101 | 61,300 | — | 常磐炭礦株式会社 | — | ||
1927 | 59 | 207,500 | 広部 | 常磐炭礦株式会社 | — | |
100 | 244,230 | — | 広部鉱業株式会社 | — | ||
101 | 61,300 | — | 常磐炭礦株式会社 | — | ||
1928 | 59 | 207,500 | 広部 | 仁熊伊之助 東京府豊多摩郡戸塚町 |
— | |
100 | 244,230 | — | 広部鉱業株式会社 | — | ||
101 | 61,300 | — | 仁熊伊之助 | — | ||
1929 | 59 | 207,500 | 広部 | 仁熊伊之助 | — | |
100 | 244,230 | — | 広部鉱業株式会社 | — | ||
1929年12月、広部鉱業から元川金次と岡野勇へ譲渡* | ||||||
101 | 61,300 | — | 仁熊伊之助 | — | ||
1930 | 59 | 207,500 | 広部 | 仁熊伊之助 | — | |
100 | 244,230 | — | 元川金次他1名 多賀郡松原町大字島名 |
— | ||
101 | 61,300 | — | 仁熊伊之助 | — | ||
1931 | 59 | 207,500 | 広部 | 仁熊伊之助 | — | |
100 | 244,230 | — | 岡野 勇 多賀郡松岡町大字上手綱 |
— | ||
101 | 57,155 | — | 仁熊伊之助 | — | ||
1932 | 59 | 207,500 | 広部 | 仁熊伊之助 | — | |
100 | 244,230 | — | 岡野 勇 | — | ||
101 | 57,155 | — | 仁熊伊之助 | — | ||
1933 | 59 | 207,500 | 広部 | 仁熊伊之助 | — | |
100 | 244,230 | — | 岡野 勇 | — | ||
101 | 57,155 | — | 仁熊伊之助 | — | ||
1934 | 100 | 1934年4月、岡野有佐へ相続* | ||||
1935 | 史料欠 | |||||
1936 | 100 | 1936年9月、譲渡により東新炭礦株式会社(東京市大森区)取得* | ||||
1937 | 59 | 199,633 | 三峰 | 杉浦英一 岡崎市康生町 | 37 | |
100 | 229,800 | 大黒 | 東新炭礦株式会社 多賀郡櫛形村大字友部1866 |
— | ||
101 | 57,155 | — | 杉浦英一 | — | ||
1938 | 59 | 199,633 | 三峰 | 新田法教 東京市淀橋区戸塚町 | 項目なし | |
100 | 229,800 | 東新 | 東新炭礦株式会社 | 〃 | ||
101 | 57,155 | — | 新田法教 | 〃 | ||
1939 | 59 | 199,633 | 三峰 | 新田法教 | 項目なし | |
100 | 229,800 | 東新 | 東新炭礦株式会社 | 〃 | ||
101 | 57,155 | — | 新田法教 | 〃 | ||
1940 | 59 | 199,633 | 三峰 | 新田法教 | 項目なし | |
100 | 229,800 | 東新 | 東新炭礦株式会社 | 〃 | ||
101 | 57,155 | 三峰 | 新田法教 | 〃 | ||
1947 | 100 | 1947年8月、譲渡により川尻炭礦株式会社(櫛形村友部1866)取得* |
附 1918年の茨城地区主要炭礦
東京鉱山監督局編『鉱区一覧』より(1919年)
[記載は 炭礦名・所在地・年間出炭量・鉱業権者 の順]
- 高萩炭礦 松原町(高萩市) 出炭量:82,905トン 鉱業権者:大日本炭礦株式会社
- 茨城採炭第二礦 松岡町(高萩市)・南中郷村(北茨城市) 69,951トン 茨城採炭株式会社
- 千代田炭礦 松岡町・南中郷村 158,213トン 千代田炭礦株式会社
- 山口無煙炭礦 北中郷村(北茨城市) 63,538トン 山口無煙炭礦合資会社
- 重内炭礦 北中郷・華川村(北茨城市) 76,974トン 茨城採炭株式会社
- 磯原炭礦 華川村 131,041トン 大日本炭礦株式会社
- 茨城無煙炭礦 南中郷・北中郷・華川村 226,248トン 茨城無煙炭礦株式会社