佐藤敬忠

山野邊氏の家臣を受け入れる

明治初年、学制改革にともない地方の村々に学校をおくことになった。そのおり学区取締*として助川・宮田・滑川・田尻・折笠村の小学校を管轄していた人物に佐藤敬忠がいる。佐藤の管轄村はあわせて5ヵ村であったが、その4ヵ村に山野邊の家臣を迎え入れたのである。宮田村の該博舎(宮田小学校)は斎藤維民、滑川村の石井磊三、田尻村の発蒙舎(田尻小学校)は安達勝功を教師として、明治6年7月に開校している。この3人の教師は助川海防城主山野邊氏の家臣であった。助川小学校では第3代校長に山野邊氏の家老であった寒河江勝永の子八十八郎と第4代に石井磊三が就任している。

佐藤敬忠は天保7年(1836)5月10日久慈郡中深荻村の會澤家に生まれる。通称啓介、會澤彦大夫の3男で、兄は彦左衛門という。この父と兄は中深荻村の庄屋をつとめ、ともに水戸藩主徳川斉昭の改革派に属する。敬忠は宮田村の佐藤家の養子となり、元治元年(1864)天狗諸生の乱に天狗派として参加する。那珂湊の戦いのあと助川館(助川海防城)にたてこもる。「助川村エ進ミ、旧館主山野邊主水正ニ属シ数日防戦スト雖モ利アラズ遂ニ瓦解シテ奥州ニ潜ム」。助川館が落ちた後、奥州に逃れる。その後天狗派として京都にのぼり、再び水戸に戻り諸生派と戦う(明治7年「佐藤敬忠事蹟書上」)。

敬忠は明治2年(1869)以降、水戸藩の石炭掛、小木津村兼帯庄屋、明治6年多賀郡第16大区3ノ小区(助川村以北折笠村までの7ヶ村)区長、明治6年には中学区第16大区(水木村から里川新田までの34ヶ村)の学区取締などをつとめ、明治8年改正大区小区制により第三大区一ノ小区(水木以北田尻村までの15ヶ村)の副区長(区長が置かれなかったため実質上区長)、この地域の政治的リーダーとして存在した。

学区取締:担当学区内の就学の督励、学校の設立・保護、経費のことなど学事に関するいっさいの事務を担任する。

鉱毒水反対運動のリーダー

赤沢銅山鉱毒水問題

17世紀後半から赤沢銅山の開発が進展する。まず甲斐国黒川衆で黒川金山をはじめ諸国の鉱山を採掘した永田勘衛門にはじまり、江戸資本をバックに水戸金町元衛門、元禄時代の豪商である紀伊国屋文左衛門、江戸石沢六右衛門らが銅の採掘を試みる。しかし18世紀にはいると採掘を示す記録はなくなる。

明治にはいると、6年(1873)佐賀県士族副田欣一、明治15年埼玉県荒井常蔵、茨城県山中芳兵衛、明治25年栃木県平野良三、熊本県高橋元長、明治33年横浜の松村常蔵、翌34年横浜のボイエス商会と次々に鉱業権は移る。ボイエス商会は赤沢鉱業合資会社を設立し、近代的生産設備を整え、ようやく赤沢銅山の本格的採掘と精練がはじまる。しかしその前に立ちはだかったのが、鉱毒水問題である。明治37年日立村宮田の人々は農商務大臣あてて「鉱業中止之儀願」を提出した。除害方法のすみやかな実施と飲料水用の井戸を掘ること、それら工事が完成するまでは、「鉱業中止」するよう求めたのである。

江戸時代から明治にはいってからもとぎれとぎれとなる鉱山事業の原因は、第一に鉱毒水問題への対応に失敗したからであった。水戸藩や明治政府は、銅の生産による利益よりも村の農業生産による利益と農民たちの声を優先したのである(『鉱山と市民』)

日立鉱山の久原房之助がまず地域との関係で解決しなければならなかったのは、煙害よりも鉱毒水問題であった。

鉱毒水問題を解決に導く

そして、明治期の赤沢銅山の鉱毒水問題に、農民の立場からこの問題を主導していったのは、佐藤敬忠であった。明治37年(1904)に佐藤たちは赤沢銅山の鉱業中止と赤沢官有林の禁伐を求める請願を県と国にあてて提出していたが、39年6月「昨三十八年末同所鉱業権ハ久原某(房之介)譲受ケ、爾来村方トモ充分意思疎通シ、将来水源ヲ涸渇セシムル等ノ憂モ有之間敷ト存候」として請願の廃棄=取り下げを求めた。事情は次の通りである。

右ハ鉱主久原房之介〈助〉ヨリ根本竜四郎ヲ以テ、前鉱主〈大橋真六〉ガ当大字〈宮田〉へ対シ不感情ヲ惹起シ置タルヲ焦慮シ、相互ノ利益ヲ謀リ将来親密ノ交際ヲ為シ度旨ヲ以テ、明治三十九年六月六日同人ヨリ申入ニ依リ、評議員廿名ヲ会同シ協議ノ結果、該条件トシテ本年ヨリ毎年旱損予備費トシテ弐百円宛ヲ寄贈スルコト、尚赤沢川流ヲ従来飲用ニ供シタル字々へ井戸拾五個所ヲ穿ツ為メ其費用トシテ参百円ヲ支出スルコトニ妥協成立〈以下略〉

明治39年6月6日「(鉱業中止及び赤沢官有林禁伐請願に付)上申書」

日立に先行して足尾銅山では明治23年(1890)以降鉱毒事件が大問題となっており、明治34年(1901)には、田中正造が天皇への直訴を行い、世論は鉱毒事件で沸騰していた時期である。佐藤たちと久原たちは、この事件を知らないはずはない。

敬忠たちにとって、久原との「親密ノ交際」を裏付けるものは、旱損予備費と井戸鑿井費用という補償金の確約であった。

明治40年(1907)3月、敬忠は体調がすぐれないとして鉱毒除害請願期成同盟会の会長をしりぞく。同時に敬忠は鉱毒水との闘いを記した「赤沢銅山沿革誌」を8月にまとめ終えると、翌41年に没する。享年73。

鉱毒水問題はこののち伏流していくが、ともかくこの時期における敬忠たちの鉱毒水問題解決の手法は、のちに広範囲の被害をもたらすことになる煙害問題解決のレールを敷いたのである。

足尾銅山の大橋真六

上に引用した明治39年6月6日の日立村からの上申書中にある赤沢銅山の前鉱主大橋真六は、久原房之助と比較すると村からは不評をかっている。明治34年横浜のボイエス商会(貿易商)が赤沢鉱業合資会社を設立するが、大橋は共同経営者であった。その大橋は小野組古河市兵衛の下で明治初年に長野県埴科郡関屋村(松代町)の赤芝銅山(明治8年開業、翌年休業)を経営したことがあった(古河鉱業株式会社『創業百年史』)。そして明治41年6月12日付『いはらき』新聞に「栃木県人足尾銅山採鉱課長たりし大橋真六氏赤沢銅山と名つけ」とあるように足尾銅山系列の人物であった。足尾鉱毒事件で農民の意向を無視した古河市兵衛の手法を日立村においても採用したのであろう。村とはげしく衝突するのも当然である。

この項は2019年4月12日に追加