大窪采女
常陸多賀駅の西方にある大久保町に三つの城からなる大久保城がある。南から愛宕山城(安元城)、天神山城、大窪城。この城によった大窪氏は、慶長7年、佐竹氏の秋田移封にともない主の種光と二男が秋田に移るが、長男久光は残り、徳川氏に反乱を起し、処刑される。一方、戦国時代を生き抜いた久光の叔父の大窪采女について紹介します。
「七代城主駿河守種光の弟に大窪采女があつた、義光とも云ひ、通定とも稱し林網とも云つた、(秋田大窪系圖に林網とあり)額田氏に仕え六大将のうち一番家老(故事物語)の席にあり幼にして神童の誉れ高く長じて軍略家として有名な武将であつた」と『大窪氏とその一族』が紹介している。大窪城主種光の弟で、戦国時代の額田小野崎氏の筆頭家老として有名な軍略家だったというのである。
さて大窪采女を宛先とする書状5点が「大窪村地理諸訳下書」に「大久保采女裔百姓十左衛門所持古書之写」として載り、さらに「水府志料」に収録される。また嘉永7年(1854)にあらためて墓碑(末尾で銘文を紹介する)が建立され、顕彰が行れたが、そこに寛永18年(1641)12月8日に歿したとある。生年は不詳。
近年、『那珂町史 中世・近世編』や高橋裕文「戦国期の額田小野崎氏と額田城合戦」が、これらの史料を紹介しながら、額田小野崎氏内部における大窪采女の役割を明らかにしている。
これらに基づいて大窪采女を紹介しよう。
目次
- 小野崎照通の信頼を得る
- 車丹波一揆
- 大窪村に戻った大窪采女
- 史料 大窪采女墓碑銘
- 参考史料 小野崎照通の略歴
小野崎照通の信頼を得る
大窪采女が額田城(那珂市額田)主小野崎照通(昭通)の家臣となった理由は、大窪氏娘の額田氏への婚儀に際しての附人として従ったからである(「水府志料」23 附録 多珂郡 大久保村岡部氏由緒書)。
天正17年(1589)に江戸重通・佐竹氏連合軍と額田小野崎氏との合戦において、5月9日、小野崎氏は佐竹氏と和睦するが、そのおり戦功があったとして、5月19日、大窪采女は額田照通から3ヶ所に領地を与られえた。采女は翌18年3月2日に額田軍の軍監(軍事監督)として家風(家臣・家来)衆の取締りを命ぜられるほど照通の信頼が厚かった。
天正19年に再び、額田城合戦が起こり、豊臣秀吉の命に応じて2月23日、照通は城を退去した。采女は大窪村に帰農する。
そのときの照通の書状は「此度拙者身躰如此成行候處ニ只今迄見届候事誠ニ忝存候、任申暇遣候、心指之所へ少も失念有間敷候、為以後一筆置之候」というものである。城を明け渡すことになったが、これまでそばに仕えてくれたことを感謝し、暇をつかわす。志は決して忘れない。それをあかすため書状を認める、という内容である。
車丹波一揆
慶長7年(1602)、平安時代から常陸国北部を支配してきた佐竹氏が徳川氏によって秋田に移封される。このとき大窪村(日立市大久保町)の大窪城に拠っていた佐竹氏重臣大窪氏の当主種光は次男光遠を伴って秋田に移る。一方長男久光は大窪村に残る。この久光は7月10日車城の車丹波とともに、佐竹氏の居城だった水戸城奪還を図り、失敗する。車丹波と大窪久光は処刑される。
久光の叔父が、采女である。
大窪村に戻った大窪采女
元和4年(1618)、采女の主小野崎照通は水戸藩に出仕し、600石を与えられる。元和9年と寛永3年の2度、徳川家光が上洛のおり、頼房は家光に付き添ったが、照通は頼房に同道した。そのさい照通は与力六騎、同心五十人を抱えるよう命じられた。与力は額田在城当時の武功のあった重臣で、このとき与力料として照通に千石の加増があった。この与力の筆頭が大窪采女であったという。
慶長9年(1604)3月22日に大窪村の鹿島明神の遷宮と日光月光弥陀如来の新造が行われた際大檀那(主唱者)となっている(慶長9年 久保鹿島神社棟札)。また慶長14年(1609)の大窪村と助川村の金山をめぐる境論では、村代表として内済に力を尽くし(慶長14年介川大久保金山問答ニ付申手形之事)、元和9年(1623)には鹿島明神遷宮並びに神殿葺造営にあたって寄付金集めを主導するなど(元和9年 大久保鹿島神社棟札)この地域の政治的リーダーとして存在した。
佐竹氏の重臣で、大窪村に城を構えていた大窪氏。その城主が徳川氏に反乱を起こした。このときこの地に残った大窪氏一族と家臣たちもこの反乱に参加したはずである。とするなら大窪村の大窪氏とその家臣たちはこの地から一掃されてよかったはずだが、そうではなく采女のようにその後も村にとどまり、村の中心人物となっていく者がいた。久光とともに水戸城奪還に参加しなかった一族たちがいたということになろう。これは大窪氏と大窪村の新しい政治勢力への危機対策だった。
そもそも佐竹氏重臣でありながら、佐竹氏と敵対するような小野崎氏と婚姻関係をむすぶことが、今で言う危機管理だった。見事に大窪采女はその役を果たしたといえよう。
史料 大窪采女墓碑銘
- 所在地 日立市大久保町4丁目 正伝寺跡墓地
- 大きさ 108×62×15cm
- 建立時期 嘉永7年(1854)3月
- 撰 文 大窪光茂
凡例
- ◦縦書きを横書きに変え、史料には無い句点をほどこした。
- ◦本文に続けて、読み下しを付した。出典は『日立の碑』
[墓碑正面]
故大窪采女君墓
[碑文]
君氏大窪稱采女、多珂郡大窪古城主大窪氏之族。而仕額田氏頗有功。如石神之役今猶存口碑、文書藏其家。天正中額田氏亡矣。於是歸舊里、寄食宗室大窪兵藏君。而慶長中、宗室大窪氏亦巳也。是以子孫爲農也。君以寛永十八年巳十二月八日没。然不詳其葬所。爲子孫者豈無咸乎。今茲嘉永七年甲寅、營招魂基、以爲子孫拜遇之地矣。
大窪十左衛門立石
嘉永七年歳在甲寅 同性大窪光茂誌
春三月 岡部昌言書
[読み下し]
君、氏は大窪、采女と称し、多珂郡大窪の古城主大窪氏の族なり。しかうして額田氏に仕えて頗る功あり。石神の役の如きは今猶口碑存し、文書、其の家に蔵す。天正中、額田氏亡ぶ。是において旧里に帰り、宗室大窪兵蔵君に寄食す。しかうして慶長中、宗室大窪氏もまた已む。是を以って子孫農と為る。君、寛永十八年巳十二月八日没す。然れども、其の葬る所を詳らかにせず。子孫為る者、あにことごとく無からんや。今茲嘉永七年甲寅、招魂の基を営み、以って子孫拝遇の地と為す。
嘉永七年春三月、歳は甲寅に在り。大窪十左衛門、石を立つ。同性大窪光茂誌す。岡部昌言書
参照文献
- 宮田實編『大窪城主とその一族』(1943年)
- 那珂町史編さん委員会編『那珂町史 中世・近世編』(1990年)
- 高橋裕文「戦国期の額田小野崎氏と額田城合戦」(『常総の歴史』第45号 2012年)
- 慶長9年・元和9年大久保鹿島神社棟札(日立市史編さん委員会編『日立史苑』第8号 1995年)
- 慶長14年「介川大久保金山問答ニ付申手形之事」(小宮山楓軒「水府志料」多賀郡瀧平新田の条 助川村と大久保村の境論)
- ひたちの碑の会編『日立の碑』(2006年)
参考史料 小野崎(額田)照通の略歴
大窪采女の主であった額田城主の小野崎照通の経歴が「水府系纂」(茨城県立歴史館の写真版を利用)にあるので紹介します。縦書きを横書きに、原文にはない句読点・改行をほどこし、カタカナをひらがなに直しています。< >内は割書、[ ]は引用者註。
額田久兵衛照道、初名彦三郎。初小野崎を称す。世々常州額田の領主也。後 威公[水戸藩初代藩主徳川頼房]の命に依て今の氏に改む。父を小野崎下野守篤通と云。武蔵守藤原秀郷の後胤、薩都荒大夫通成か末葉なり。照通江戸但馬守重通か一族たるを以て重通か幕下に属す。
天正年中重通、佐竹義宣に攻敗らるゝといへ共、照通は佐竹に不従して額田に居て自立す。故に義宣憤て兵を起し、額田城を攻む。照通兵を迎て盡く撃散す。
佐竹増怒を度々兵を出し、攻戦といへ共終に志を不遂、後太閤秀吉公東国を定めて常州一国を佐竹に与ふ。佐竹、石田三成と善し、故に三成も照道を悪んて讒訴す。秀吉公石田に命して書又照道に遺[遣]し速に額田を退去へし。同心なきに於ては討て遣はさんと云。
此に於て照通已む事を得すして額田を退て流落し、後上總介[松平]忠輝朝臣に仕へ、[忠輝]配流の後浪人となり、元和四年戊午 威公に江戸に奉仕す。
六百石を賜て、御側同心頭<或先年足軽頭>となり<元和九年、寛永三年御上洛、此役を以て扈従>、与力六騎<与力料千石を賜り、額田に於て功労ある者を招て与力となすへき由の命を蒙り、或は百五十石等を与て二百石或は与力とす>、同心五十人を附せらる。寛永三年丙寅致仕し、七年庚午三月十三日死す。六十二歳。
読み下し
額田久兵衛照道、初名は彦三郎。初め小野崎を称す。世々常州額田の領なり。のち 威公[水戸藩初代藩主徳川頼房]の命によりて今の氏に改む。父を小野崎下野守篤通という。武蔵守藤原秀郷の後胤、薩都荒大夫通成が末葉なり。照通、江戸但馬守重通が一族たるを以て重通が幕下に属す。
天正年中重通、佐竹義宣に攻め敗らるゝといへども、照通は佐竹に従はずして額田におりて自立す。故に義宣憤て兵を起し、額田城を攻む。照通兵を迎てことごとく撃散す。
佐竹増怒をたびたび兵をいだし、攻戦といへどもついに志を遂げず、後に太閤秀吉公東国を定めて常州一国を佐竹に与ふ。佐竹、石田三成と善し、故に三成も照道をにくんで讒訴す。秀吉公石田に命じて書又照道に遣し。すみやかに額田をしりぞくべし。同心なきにおいては討ちて遣はさんといふ。
ここにおいて照通やむことを得ずして額田をしりぞきて流落し、のちに上総介[松平]忠輝朝臣に仕え、[忠輝]配流の後浪人となり、元和四年戊午 威公に江戸に奉仕す。
六百石を賜りて、御側同心頭<あるいは先年足軽頭>となり<元和九年、寛永三ご御上洛、この役をもって扈従>、与力六騎<与力料千石を賜り、額田において功労ある者を招きて与力となすべき由の命をこうむり、あるいは百五十石等を与へて二百石、或は与力とす>、同心五十人を附せらる。寛永三年丙寅致仕し、七年庚午三月十三日死す。六十二歳。