大窪光茂

寛政4年(1792)5月18日大久保村に生まれる。通称匠作(祖父・父と同じ通称)。実名が光茂。号は池屋いけのや。曽祖父宗精光倫、祖父匠作光明、父匠作光慶と代々医術を業とする。光茂も医を志し、水戸藩の侍医となった原南陽と京の吉益南涯に学んだと伝えられる。子に光謙。助川館(助川海防城)の山野邊義藝の侍医となる。大窪光諦は養子。

天保2(1831)年には水戸藩から苗字帯刀を許される。10年にはみずからの土地を提供し、郷校興藝館(後に暇修館、大久保郷校)の開設に寄与した。同時に館守となる。48歳のときであった。11年6月には、興藝館に水戸藩主徳川斉昭を迎えて、光茂は漢方医学の原典とされる後漢時代(25−220年)に成立した『傷寒論』を講義した。

天保12年5月29日、水戸藩から五人扶持、小十人上座、表医師を命じられ、助川館(助川海防城)の水戸藩海防総司山野邊義観の子義正の妻で斉昭の三女である祝姫付となる。天保14年9月に興藝館守を辞し、館守を菅政友に引き継ぐ。弘化2(1845)年12月には祝姫付を解任(斉昭の失権にともなう処分か)。斉昭復権後の嘉永6(1853)年8月3日に復職し、屋敷を水戸松並町に与えられた。

嘉永7年11月16日、63歳で歿。水戸藩の家臣が眠る常磐墓地(水戸市)に葬られた。

出版されていないが、光茂はいくつかの著作を残している。いずれも河原子村の神官宮田篤親の手になる写本として残っており、「解惑の篇」「待宵の記」「花の介川の長歌」(天保12年)「水門路の長歌」(天保13年)「弘化四年難船記」(弘化4年)「サツペイ考」(嘉永2年)などがある。

「解惑の篇」

光茂のまなざしは郷土の人々の習俗に向けられている。それらから一つ「解惑の篇」を紹介しよう。「解惑」とは人々のまよいをさますという意味になろうか。

真弓権現は近江国坂本(大津市)の日吉山王の神を分祀したもので、村人の信仰があつく、とくに2月15日の祭日のにぎわいはたとえようもない。いつのころからか祭日の一月前から機を織ると神のとがめを受け、風害で凶作をまねくと言われるようになった。これでは農作業に支障をきたし、村人の悩みになっていた。

神とは邪神を平らげて人民を安んじ、人の道を教え、繁栄と平和を守ってくれる。迷信は愚かな人や商僧らの妄言から広まる。天変は神・人の力の及ばない雲気からおこる。妄信におちいることなく、女たちはのどかな春先に機を織ってゆくことこそ家や国家の繁栄につながるのだ。

こう光茂は説いた。

日吉山王は天台宗系の寺院とむすびついて神仏習合の形態をもっていた。「商僧」というはげしい非難の言葉をかけていることから真弓権現も同様だと光茂には映ったのであろう。水戸藩による社寺改革が実施される直前のことであった。

「水府系纂」にみる大窪光茂

大窪匠作光茂、初名百満又勇、遠祖ヲ治部少輔某ト云。佐竹氏ニ仕エ、多賀郡大窪村〔今大久保村ニ改ム〕ニ住ス。初石川ヲ称シ後大窪ニ改。代々此村ニ住ス。曾祖ヲ宗精光倫、祖父ヲ匠作光明、人云共ニ醫ヲ業トス。父ヲ匠作光慶ト云フ。醫ヲ業トス。文政三年庚辰十月二十一日死ス。六十二歳。光茂、天保十二年辛丑五月二十九日五人扶持ヲ賜テ格式小十人上座トナリ、表醫師〔先是原原與昌克及京師吉益周助某ヘ入門シ醫業を学フ、文政十一年戊子十一月金若干ヲ賜フ、天保五年庚午七月 日謁見格トナリ、九年戊戌十人月俸ヲ賜フ〕トナリ、祝姫附。弘化二年乙巳十二月二十二日祝姫附ヲ 免セラレ、扶持ヲ返シ納メ、格式謁見格。嘉永六年癸丑八月六日五人扶持ヲ賜テ小十人上座表醫師トナル。常蓮院瑶璟<大生瀬村修験>女ヲ娶テ六男ヲ生ム。長ハ百満某、次ハ八十之輔某、次ハ彌吉某ト云。共ニ早世、次ヲ孝太郎光泰、初名泰次、天保九年戊戌五月二十九日死ス、十歳。次ヲ又次郎光謙ト云。光謙幼年ナルヲ以テ多賀野摂津高峰<諏訪村神職>三男貢光諦ヲ養子トシ女ヲ以テ妻トシ一男ヲ生ム。百満某ト云

句読点は引用者。〔 〕は割註。「水府系纂」は茨城県立歴史館で写真版を閲覧することができる

参考文献