史料 大久保村地理諸訳下書

[凡例]

縦書きを横書きに変え、原本には無い句読点と改行をほどこした。助詞のは(者)・て(而)・も(茂)・え(江)・と(与)は漢字のまま文字を小さくした。□は判読不明文字。[ ]内は本ページ制作者による註である。

右欄には「水府志料」の対応部分を小宮山楓軒「水府志料」多賀郡大久保村の条と『茨城県史料 中世編II』から抜きだした。それは大久保村が作成し、藩に提出したこの「地理諸訳」が「水府志料」の元データになっているからである。対比の意味を問われると困るのだが、何かを考える糸口になるかもしれないと思い、参考までに示した。本文紹介の後に本史料についての解説を加えた。

[本文]

[表紙]
 大宮鹿島大神宮神主
  常陽多珂郡水戸坂上高野庄
 大久保村地理諸訳下書
  文化二年 丑四月改之
  桓武帝千葉常胤[臼井左膳ヵ]
 
 「水府志料」
多賀郡坂上郷大久保村 石神組 大久保村
一 當村之地形并方角等別紙絵圖面指上申候
一 家数弐百五拾軒 隠居共 戸数凡二百五十
一 東河原子堺より西真弓堺迄弐十八丁八間
一 南金沢堺より北諏訪樋口迄弐拾□丁壱間
一 辰巳ノ方六百弐拾九間川原子ト堺を接す
一 □ノ方三百五拾八間下孫村ト接界
一 北ノ方三千六百拾間諏訪村ト接界
  • 一 戌亥ノ方千百六拾六間 八丁御立山ト接界
 但八丁御立山ハ大久保、諏訪兩村之支配処
  • 一 西之方弐千間 久慈郡真弓亀作高貫三ヶ村ト接界
     訳ケ
   七百六間     真弓村
   七百拾間     亀作村
   五百八拾四間  高貫村
一 南ノ方千六百八拾八間  金沢村ト接界
村境、東より南に至る下孫、金澤、河原子村あり。北に諏訪村、西は真弓、亀作、高貫の三村に相接す。東西二十八町八間、南北二十町壱間あり。
一 江湖川流等當村ニ無御座候
一 深山幽谷無御座候
  • 一 砥山字ヌクドヤ [1]元文年中開山ニ罷成由。宮田・介川・會瀬・諏訪・大久保・金沢・瀬谷七ヶ村ヘ但壱ヶ年金四拾五両位ニ御運上ニ罷成候。
    •   但シ當所より出候砥ハ切粉砥[2]ニ罷成候。先年ハ會瀬村より多ク出候義も御座候也。他國賣先 名を會賀砥ト申事。
砥石  羽黒澤の奥ヌクトヤと云處より出す。宮田、助川、會瀬、諏訪、大久保、金澤、瀬谷七ヶ村にてほりとる。先年多くは會賀砥と稱し、諸方にひさぐ。
  • 一 樒[3] 當所山野ニ生し、中古ハ御用樒をも指上候由。今年其事なし。
樒  山野に生す
一 水晶
  •  菩提沢ヨリ出。先年願之上掘候由。近来小キ水晶を拾候者も有之候処、品不宜由申傳候。
水晶  菩提澤より出す
一 ハリ石
  •  菩提沢より出、先年江戸表へも指出候由申傳候得共、近來右石を弁知候もの無御座候。
玻璃石  同所より出す
一 風穴 カサアナ
  •  羽黒沢ノ内ホウジバウト云る山ノ中腹ニ巌穴有り。洞口四尺許、躬を屈め斜に上り入る事四拾弐歩、平所ニ出ツ。濶サ方壱丈余、高サ弐丈余、四方絶壁ナリ。南ニ当リ高サ壱丈壱弐尺ニして孔アリ。梯子ヲ以テ登リ、平ニ行ク事□拾五歩、石間有り。幅四尺許リ。其深キ事幾許ヲ不知。水ノ流ルヽ響アリ。石ヲ投ケ試ルニ巖稜ニ中ル音□ツテ斜ニ落カコトシ。ナル□□須臾ニシテ水ニ墜ル響□□又石間へ棧シテ渡リ行□□五六歩ニシテ急ニ下ル穴有リ。□石錯々トシテ足ヲ留メ難シ。依テ帰ルコトヲ恐レテ人其先ヘ不入。且ツ洞口ニ至レハ内ヨリ風出ルヲ以テ俗是ヲ風穴ト云。
風穴  羽黒澤の内ホウシハウと云山の半腹にあり。洞口四尺許り、身を屈して斜に登り、入る事四十貮歩、平所に出づ。濶方壹丈餘、高き事貳丈餘、四方絶壁削り成せるが如し。南の方高壹丈壹貮尺にして穴あり。梯子を以て[ママ] り、平に行く事二十五歩、石間あり。幅四尺許り、其深き事幾許と云を知らず。水の流る音あり。試に石を投ずるに、巌稜にあたり、斜に落るが如く、須臾にして水に墜る響あり。又石間に棧して渡り ゆく事五六歩にして、急に下る穴あり。礫石多く、是を留めがたし。よつて歸る事あたはざるを恐れ、人其先に行事なし。人洞口に入らむとすれば、中より風生ず。故に風穴と名づく。
一 古城跡  今常光寺境内
  •  本丸 東西五拾間余、南北拾六間、或は弐拾五六間
  •  二三ノ郭アリト雖不残居屋鋪作目ニナリ、築地等之形僅ニ残リ、往古之形チ失候故書上不申候。
    古老申傳。奥州石川郡石川冠者有光十四代之孫中務少輔詮光二男治部少輔、應永年中始て佐竹ニ仕、當村に居住す。其子孫大久保兵蔵久光迄相續て居り、慶長七年ニ家亡ひ、城廢す。
[以下10行分(約120文字)欠。この部分に大窪久光の墓に関する記述があったか]
館跡  今常光寺境内に在り。本丸東西五十間、南北十六間、或は廿五六間あり。二三の丸、今皆畑となり、其形を失す。古老の傅に、奥州石川郡石川冠者有光十四代の孫中務少輔詮光第二子治部少輔、應永中佐竹氏に仕え、其子孫兵藏久光まで相續て居ると云。


大窪兵蔵久光墓 高弐尺三寸


高弐尺

大窪兵藏久光墓  古老の傅に、慶長七年十月十日戦死。居城三の丸に葬る。法名を哲勝常嘉居士と云。其碑あれども文字なし。或云、大窪兵藏は佐竹氏秋田に移りし後、車丹波と同じく、水戸城を奪んとしてあらはれ、生捕となり青柳村に梟首せられしを、其首盗來り葬りしなり。戦死といふ者はあやまれり。
一 玉造与市太郎墓
  •  古老相傳玉造城主為佐竹氏被攻軍敗走し、只一騎當村へ落延ひ大窪兵蔵を頼み居る処一身難潜切腹すと云。即三ノ郭へ葬る。大窪氏亡ひ城為墟、中古墓の辺り畠に[1行分欠]成る刻石碑は正傳寺境内兵蔵墓ノ傍へ引くと云傳。図如左。

高弐尺三寸

玉造與一太郎墓  古老の傅に、玉造城之與一太郎、佐竹氏の爲に敗軍 し、一人走り來りて大窪武藏を頼まれしが、終に切腹す。即三の丸の地 に葬と云。此説あやまれり。行方郡玉造の條あはせ見るべし。
 大久保采女[4]裔 百姓十左衛門 所持古書之写 古文書  大窪氏十左衛門の家に藏す。是は久光の弟采女の子孫なりと云。叉同氏宗節が家にもあり。〈古文書五通略〉
[あ]くめゐ[5]の仕置申付候。□□家風衆成共、無機遣□□可然候。少も塩味候ハヽ□□由、可申理候。為以後□□遣之候。
[天正18年]三月二日[花押影]
      大窪采女殿
わくめゐの仕置申付候、各御家風衆成共、無機遣取扱可然候、少も塩味候ハヽ口惜由、可申理候、為以後一筆遣之候
三月三日   (額田昭通花押影)
    太窪采女殿
此度馳廻不及是非候。身上之儀涯分可引立候。爲以後一筆遣之候。
    照通[花押影]
天正十七年三月三日
     太窪采女殿
此度馳廻不及是非候、身上之儀者涯分可引立候、爲以後一筆遣之候
    照通(花押影)
天正十七年三月三日
     太窪采女殿
此度馳廻不及是非候。是付寺門太郎右衛門前六貫五百文、子磯前弐貫八百文、山守前弐貫文之処指添遣之候。以上
    照通[花押影]
天正十七年
   五月十九日
     太窪采女殿
此度馳廻不及是非候、是付寺門太郎右衛門前六貫五百文、子磯前弐貫八百文、山守前弐貫文之処指添遣之候、以上
       照通(花押影)
天正十七年
    五月十九日
        太窪采女殿
此度拙者身躰如此成行候處ニ只今迄見届候事誠ニ忝存候。任申暇遣候。心指之所□□失念有間敷候。為以後□□置之候。
              以上
□□十九年貮月廿三日
    照通[花押影]
     太窪采女殿
此度拙者身躰如此成行候處ニ只今迄見届候事誠ニ忝存候、任申暇遣候、心指之所へ少も失念有間敷候、為以後一筆置之候
               以上
天正十九年貮月廿三日
       照通(花押影)
          太窪采女殿
いしかミ[石神]分に八百文、はた[幡]三百五十田進候。為御意得一筆相渡候。以上
 二月一日    久光[花押影]
   采女殿
こしかは分に八百文、はた三百五十四〔文脱ヵ〕進候、爲御意得一筆相渡候、以上
  二月一日   久光(花押影)
  采女殿
 天正廿年二月一日
指物壱流
 鎗 壱筋  銘国孫六
右之外武着所持仕候処先年額田氏相贈候趣
 郷醫 大窪宗節 所持古文書之写
五十石  野竹内前
五十石 田中之庄遣候者也
都合百石
慶長五年
七月十七日印
太窪駿河守二番めニ
大久保宗節家藏〈古文書十二通及び指物圖略〉
一 御城下へ行程 上御町へ 八里
         下御町へ 七里
水戸迄七里
  • 一 當処より太田通路アリ。小經[徑]ニシテ悉ク難処也。久慈郡真弓亀作ヲ徑テ太田へ出ル。行程三里余
一 秣場
 南北三拾三丁余
 東西拾町余
此内ニ□之沢数三ツ
  蛭か沢 菩提沢 羽黒沢[6]
  •  右之沢より分口小沢数名ヶ御座候得共算へ盡難候間申上兼候。扨又何も北向等
  •  楢 藤等 悉く
     深薮ニ草飼ニ不相成候事。
  • 一 當村ハ山へ付候村方ニ郷中之山野ヲ相比シ候ヘ大図六ヶ一住里、残りハ山之様ニ相見候事。
此村山を後ろにし、山野尤多し。
一 瀧池并神佛之異[遺]跡等無御座候  
一 由来在之課役分免ニ相成候事無御座候
一 牧場井堰等無御座候
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      是ヨリ分筆書入ヲ写
 
 鎮守鹿島大神宮 京吉田二位殿支配 神主臼井左膳
   末社

 曹洞宗    杉室天童山大雄院末哲勝山正傳寺[7]

 浄土宗    向山常福寺[8]末遍照山 常光寺[9]
右地理御糺ニ付他村へ之接堺古老申傳等無相違書上申候。以上
        右村庄屋 茂 十
文化二年 丑四月 与頭 淺衛門
          同 縫殿衛門
          同 利左衛門
          同 市 四 郎
          同 源   次
          先組頭 逸 八

[註]

  1. [1]字ヌクドヤ:不明だが、大久保に貫砥石という字がある(山椒の会『日立市小字地図帳』)。「水府志料」の記述通り、字羽黒沢の奥、西方にある。現在の諏訪町の潮見台団地の南側の沢である。
  2. [2]切粉砥:刻み煙草を手刻みするときの包丁を研ぐ砥石のことか。水戸藩領の那珂郡、久慈郡は水府煙草の産地として知られる。
  3. [3]樒:シキミ。常緑小高木。果実は有毒。仏前や墓前に供えられる。
  4. [4]大久保采女:大窪采女。采女についてはこちら
  5. [5]わくめい:『大窪城主とその一族』の口絵写真にこの史料の原本が掲載されている。それによれば「くめい」と読むことができる。下書を写す過程で誤写したのであろうか。「あくめい」とは、悪事を働いた者、また、その悪事を意味する。
  6. [6]蛭か沢 菩提沢 羽黒沢:蛭か沢(昼ヶ沢)は現在の塙山団地の北側、菩提沢は中丸団地の南側、羽黒沢は中丸団地の北側にある。
  7. [7]正傳寺:水戸藩天保改革により廃寺。
  8. [8]向山常福寺:草地山蓮華院常福寺。那珂市瓜連にある。
  9. [9]常光寺:水戸藩天保改革により廃寺。

史料について

本史料は、史料の末尾にあるように藩からの「地理御糺」があって、文化2年(1805)5月に提出されたものである。

水戸藩は文化元年あるいは2年に幕府から「封内の故事古跡及寺社の旧記古文書ノ類」を書き上げよとの指示を受けた。藩は郡奉行所を通じて、村々に作成・提出の指示を出した。久慈郡高倉村では同年7月、那珂郡照沼村では同年4月に提出している。これら村から提出された書上帳をもとに文化4年に編纂が終了した。まとめたのは、当時南郡紅葉組の郡奉行を勤めていた小宮山楓軒である。立原翠軒の門で学び、史館総裁となった翠軒を助けた。そのような学問の力が見込まれたのであろうか、各郡から提出されたものを楓軒が編纂し、「水府志料」(別名「水戸領地理志」「御領中地理志」)として16巻18冊にまとめたあげた(茨城県史編さん近世次第1部会編『茨城県史料 近世地誌編』解題)

本史料の成立経過は以上の通りだが、表紙にあるように下書であること、さらに大久保鹿島明神の神主臼井左膳が村役人たちの下書を写し、寺社を追記して手元に残したものと考えられ、正文の控ではない。

なお本史料の表題の「地理」は8世紀から土地、山川・海陸などの状態の意味で使われており、「諸訳」にはいろいろな事情やわけ、といった意味がある。蛇足でした。