海道と街道

島崎 和夫

絵図

日立市郷土博物館で2004年に開催された「村絵図にみる日立」という江戸時代から明治初期の絵図の展覧会でのことです。どの絵図だったか今は覚えていませんが、江戸時代の絵図で、太く描かれた道に「岩城海道」と墨で描かれていました。「岩城街道」ではありません。「海道」です。多くの歴史書で(すべてと言っていいかもしれませんが)江戸時代の大きな道を「街道」と書いています。歴史事典でさえそうです。岩城「海道」という表記は、この絵図に限られた特別なものなのだろうと思いました。しかしそれ以来気になっていました。絵図に接するたびに注意して見ました。すべて「海道」でした。

道中日記

古文書学習会編『道中記にみる江戸時代の日立地方』(日立市郷土博物館)に、27件の道中日記や紀行文が翻刻されています。そのなかに「街道」の表記がどうなっているのか、みてみました。「街道」表記はひとつだけありました。文化4年の遠山景普「続未曾有後記」の「鹿しま街道」です。その他はみな「海道」です。

全27件のうち6点の記録に32の「海道」表記がありました。単に海道とするほか、岩城海道、太田海道、山海道、水戸海道、ミなとかい道(湊海道)、奥州海道など目的地を冠した表記もありました。山海道という表現には苦労がうかがえます。

水戸海道は明和9年の「水戸岩城道中記」(表紙が欠落しており、表題は編者が付している)の田尻村の条にあります。「水戸海道」は一般に千住から水戸までを指すのですが、ここには「問屋の作り松、水戸海道随一の松也」とあります。岩城海道筋の田尻村でのことですが、この記録の表現「水戸海道」は微妙です。なぜならこの道中記は、相馬中村から岩城・水戸を経由して江戸へ向かう道すがらの記録だからです。つまり岩城から水戸までを一区切りとし、水戸へ向かう道という意味で「水戸海道」としたのでしょう。著者相馬藩士中村伝兵衛の誤用なのですが、両様の表現が実際には用いられていたことに留意しておきたいと思います。

「街道」の表記の他にそれらに類する表現として「日光道」「岩城相馬路」「平潟道」「小名浜道」があります。そういえば日立市指定文化財の道標に「入四間道」と刻まれた道標があります。絵図ばかりでなく、道標の探索も必要となってきました。時間があるときに調べてみます。

[追記] 日立市郷土博物館に享保6年(1721)に久慈郡馬場村(常陸太田市)の落合四兵衛が建立した道標が展示されています。そこには「右 棚倉やみぞ/左 太田さたけ/海道」とあります。この道標については、千葉忠也「日立の遺跡・文化財を探ねて」(『郷土ひたち』第22号 1971年)が参考になります。

太政官布告

なぜ明治以降の現代までの歴史書は、海道でなく「街道」としたのでしょうか。わかりません。

転換は明治維新にあったように思います。明治政府は、水戸海道・岩城海道・相馬海道(おそらく岩城から相馬までをこう言ったものと推測します)を明治5年4月29日に太政官布告第139号で「陸前濱街道」と称するよう次のように定めました。

明治五年 第百三十九号

○四月廿九日

武州千住驛ヨリ常州水戸ヲ経テ陸前國岩沼驛ニ至ル迄ノ道筋自今陸前濱街道ト可称事

ところで、この太政官布告には目次がついています。その目次にはこうあります。

第百三十九号 武州千住駅ヨリ常州水戸ヲ経テ陸前岩沼駅ニ至ル道筋自今陸前濱海道ト称ス

目次では依然として「海道」なのです。街道という語を使うようにとされたものの、太政官布告をまとめた役人の意識の中には「海道」が残っていたというわけでしょうか。

五海道

江戸時代、江戸を起点とする主要な東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道を五街道と言いました、と歴史事典にあります。五街道とは、歴史の教科書からはじまりすべての歴史書にあります。こうして疑問をもって調べはじめると、五街道さえ江戸時代には「五海道」と書かれていたことがわかります。たとえば、江戸時代の地方書である寛政6年(1794)の大石久敬著『地方凡例録』(大石慎三郎校訂)に「五海道」とあるのです。

道中記や紀行文を掘り起こし、また各地に残る道標を探っていけば「街道」ではなく数多くの「海道」という表記にいきあたるのだろうと考えます。

ちなみに探ってみると、奥州街道・日光街道・甲州街道も江戸時代の初めには奥州海道・日光海道・甲州海道だったのです。しかし海沿いの道ではないとして、正徳6(1716)年に奥州道中・日光道中・甲州道中と改められます*。奥州街道、日光街道、甲州街道ではありませんでした。「○△街道」は近代に入ってからの表記なのです。
   *「海道と街道の表記

辞典では

諸橋の『大漢和辞典』によれば、街とは「よつまた、おほぢ(大通り)、みち、まち」とあります。そして街道は「おほどほりの道」「まちの広い道」とあります。大通りとは微妙な説明です。中国では、城壁をめぐらした中に都市があります。街路はまちなかの大きくはない道を意味します。したがって街道とは都市(まち)のなかの大きな道をさしているらしいことがわかります。日本とは趣を異にした使われかたをしています。

ちなみに「海道」を『新大字典』は「船路。海路。海に沿った地方を通る道。とくに東海道のことを言う」としています。ただし用例と出典が示されていないので、海道はおそらく日本でつくられた語なのでしょう。

都市のつくられ方が異なる日本に「街道」はなかった、といってよいでしょう。

古代において都と各地の国府とをつなぐ道は、軍事目的でつくられました。しかし近世になって統一政権が誕生し、平和な時代になります。軍事目的は依然として残るものの意義は低下したと考えます。一方幕藩体制は商品経済の発達を基礎とします。江戸や大阪などの大都市へ人と物資が集中するだけでなく、城下町や在郷町を起点とする地域間の人と物資の流通も高まります。それらを支えるのが、川・湖沼を利用した水運であったり、陸運であったりします。この道は漢語で言う都市(城塞)の中の「街道」ではありません。古代中国でいう馳道(天子の通る道)あるいは直道(軍事用の直線道路)でもない。漢語の「街道」は日本にあるどんな道にもあてはまらないと江戸幕府の役人は考えた。他の用語が見あたらない。そこで街道と同音でかつ東海道や西海道、南海道などの古代からの名称もあり、さらに海上輸送の歴史もあって「海道」と付けたものか、と推測します。

歴史上使われた文字であり、なかなか風情のある「海道」をなぜ近代・現代の歴史書が「街道」と書きかえたのか。大東亜戦争を太平洋戦争と言い換えたことと同じ発想からかもしれません。また明治政府がなぜ街道という語を使用したのか。時間があったら調べておきましょう。