日本最北端の大窪詩仏の筆跡

大森林造

北海道の小樽市に、市指定歴史的建造物、もと網元の旧青山別邸がある。小樽市祝津三丁目にあって、かつての「にしん御殿」の栄華を偲ぶ遺産として一般に公開されている。青山家は明治・大正期を通じて、ニシン漁によって巨万の富を築いた。そうして三代目の娘の政恵が山形県酒田市の本間邸のたたずまいに魅せられたことが機縁となって、大正六年から六年余の歳月をかけて建築されたのがこの旧青山別邸であった。その十八の部屋は、当代第一級の画家や書家の作で飾られている。しかもその純和風の建築は、広い庭園と相俟って、いまなお燦然と威容を放っているのである。

その御殿の回廊の一角に、江戸の文化・文政期の大流行詩人大窪詩仏が揮毫した大屏風があるのである。みごとな草書である。これは詩ではない。詩仏が小畑詩山の詩集『東海道中詩』の巻頭に寄せた序文である。その序文が後記のように屏風の十二面に記されているのである。日本最北端の詩仏の筆跡である

まず小畑詩山について見て置く。詩山は江戸時代の寛政六年(一七九四)、陸前の古川に生まれた。今の宮城県古川市である。名は行簡、通称は良卓、詩山は号である。江戸に出て医を学び、傍ら亀田鵬斎、詩仏、朝川善庵などと交わり、詩に親しみ、旅を愛した。そうして明治八年(一八七五)七月四日、八十二歳で没するまでに、数々の経史詩文の著述をものしている。詩仏の二十七歳下だった。

『東海道中詩』は、いま汲古書院刊『紀行日本漢詩』の第三巻に影印で収められている。天保八年(一八三七)刊で、詩仏の序のほかに菊池五山の序もある。この詩集の特色などについては詩仏の序に詳しい。

詩仏は、詩も書も竹画も良くしたが、文についは『詩聖堂詩話』などがあるものの、余り多くない。しかもこの序文は天保七年十二月、詩仏七十歳の書であり、その翌年の二月には世を去るのである。ところがこの屏風の筆勢の強さはどうだろう。その詩仏の書がいま小樽の地に残っていることに、深い感慨を抱く。小畑詩山からどのようなルートでこの書が青山家に渡り、小樽の地にたどりついたのか、いま全く分からない。詩仏の行遊の最北端の地は秋田であったが、旅を愛した詩仏の詩魂が北海道にまで遊んで、いまなお小樽の地にとどまっているような感興が湧く。是非、詩仏と旅を愛する人々に、足を運んで鑑賞していただきたいと思うものである。

次に『東海道詩』の詩仏の序文を掲げる。

余嘗以詩遊四方経渉東海道屡矣於其佳境勝区最熟至邨吏駅卒亦知予名儀与面致仕後将復西上会疾作不果以為憾焉小畑詩山東奥人来寓江戸以医為業兼嗜吟詠以東海道詩一巻見示五十三次各賦一首意到筆随雑以詼諧之語真有声之画枕上以当臥遊猶陳楊愈頭風也世間与予同病者不知其幾也刻之行世此其愈膏肓起痼疾必矣詩山不唯薬石已疾亦将以詩医人也豈不奇哉因書巻首
  天保丙申臘月七十翁詩仏大窪行書

<書き下し>

かつて詩を以て四方に遊び、東海道経渉けいせふすることし東海道も亦た予が名儀と面とを知る。致仕後、将に復た西上せんとし、たまたま疾ひおこりて果たさず、以て憾みと為す。小畑詩山、東奥の人、来りて江戸に寓し、医を以て業と為し、兼ねて吟詠を嗜み、東海道一巻を以て示さる。五十三駅、各々一首を賦し、意到れば筆随ひ、まじふるに詼諧くわいかいの語を以てし、真に有声の画なり。れを枕上におき、以て臥遊に当つれば、陳搨ちんたふ頭風とうふういやす。世間、予と同病の者、其れ幾ばくなるを知らず。之れを刻して世に行はば、此に其れ膏肓かうくわうを愈し、痼疾より起こすや必せり。詩山、唯だに薬石をもって疾ひを已むるのみならず、亦た将に詩を以て人を医せんとするなり。豈に奇ならざらんや。因って巻首に書す。
  天保丙申(七年)臘月(十二月) 七十翁詩仏大窪行書

屏風には十二面にわたってこの文が書かれている。末尾の署名の部分を除いて全く同じである。ただ、この屏風の書の方が雄渾であるように思われる。この翌年に病没することが信じられない筆勢である。

なお、詩山の詩集の中に『漫遊詩草』がある。詩仏に贈る詩が二首収められていて、いずれも七言絶句である。そのうちの一首「贈大窪詩仏」詩を参考までに付記しておく。詩仏を慕う詩山の心情を汲み取ることが出来よう。

緑酒半瓶生酔時。直描新竹又題詩。詩如陸氏思無屑。竹似東披墨得奇。

緑酒半瓶、酔ひを生ずる時。直ちに新竹を描き、又た詩を題す。詩は陸氏の如く、思ひ屑無し。竹は東披に似て、墨、奇を得たり。

詩仏の詩は、生涯に二万首を詠んだといわれる南宋の大詩人陸游のように多産多彩であり、竹は、「春宵一刻値千金」の詩句で余りにも有名な北宋の文豪蘇賦のように豪放嘉落かつ柔軟である、と言っているのである。

なお、旅に明け暮れた詩山は北海道にも渡っていた。そうして江刺では「江刺」と題して次の詩を詠んでいるので付記しておく。

一島無田田是海。蝦夷産物日綿連。年来射利家々富。脯鯡乾鮭昆布船。

一島田無く田は是れ海。蝦夷の産物、日に綿連。年来利を射る家々の富、脯鯡ほひ乾鮭かい、昆布の船。

北海道は当時「蝦夷」と呼ばれていた。江戸時代には松前藩に領有されていた。その頃、本州の田に相当するのは海であり、富は、ニシンやシャケや昆布などによって手に入れていたのである。その基地の一つが江刺だったのである。その富がニシン御殿を各地にもたらしていたのであった。

なお、詩仏の筆跡は、序文の場合も屏風の場合も筆跡を異にして共に得意の草書である。その解読に、同友菅井和子氏のご教示を得たことを付記して置く。

(平成十九年十月二十日)