大窪詩佛 おおくぼしぶつ

詩は詩仏 書は米庵に 狂歌俺 芸者お勝に料理八百善

化政期によまれた狂歌。詩佛は大窪詩佛、米庵(べいあん)は書家の市河米庵、俺とは狂歌師の大田南畝(なんぽ 蜀山人)のことで、お勝とは当時売れっ子の芸者、八百善とは瓜となすの粕漬けに煎茶で一両二分もとったという江戸一の高級料亭。

江戸時代後期、文化文政期、大窪詩仏は「大正時代の北原白秋の地位に匹敵した大流行詩人」とされ、文豪永井荷風が詩仏の年譜を編んでいたことはよく知られている。

その詩仏の詩は「清新な感覚と機知に富みながらも親しみやすくわかりやすい」と評され、人物も「穏やかで人付き合いがよく、ものにこだわらな」かったとされる。

八百善の二階座敷
左端に描かれているのが詩佛、中央が亀田鵬斎、背中を向けているのが谷文晁、右端が蜀山人
鍬形恵斎画
江戸民間書画美術館提供
『江戸料理通』より
*浮世絵師の鍬形恵斎の恵は、正しくは草冠に恵です

大窪詩佛は通称柳太郎。詩佛は号で、ほかに天民、江山翁、詩仏老人などの号をもつ。父宗春は常陸国多賀郡大久保村(現茨城県日立市)の大窪家に生まれ、久慈郡池田村(註)の桜岡家の婿養子となり、医を業とした。詩仏はこの桜岡家に明和4(1767)年に生まれる。のち詩仏は父とともに桜岡家を離れ、少年期を大久保村で過ごした。後江戸に出て医術を学ぶかたわら詩を学んだ。

寛政5年に第一詩集『卜居集』を刊行。没後遺稿集として『詩聖堂詩集三編』が刊行される。この間『詩聖堂詩話』『詩聖堂百絶』『詩聖堂詩集初編』『詩仏百絶』『西遊詩草』『北遊詩草』『再北遊詩草』『詩聖堂詩集二編』『二島遊草』を刊行。

『初編』の市河寛斎序文に「文雅の家には必ず詩仏の詩と竹を書いた軸物がかかっている」とあるほど、詩仏の詩と書および詩に添えられる竹の画はもてはやされた。天保8年(1837)71歳で没する。

(註)しばしば詩仏は生まれを久慈郡袋田村とされるが、池田村の誤り。明治22年の町村制により、池田村は袋田村ほか4か村と合併し、袋田村となった。この袋田村は昭和30年に大子町となるまでつづく。おそらく、明治22年以降の袋田村とそれ以前の江戸時代からの袋田村とが混同された結果、詩仏は袋田村生まれとなってしまったのでしょう。詩仏を茨城県大子町生まれというよりは、やはり江戸時代に生まれたのですから、常陸国久慈郡池田村(現茨城県大子町)としたほうが、無難であるように思えます。

江戸時代の漢詩と詩仏

現代からはまったく想像できないが、江戸時代において、俳諧や和歌とならんで、あるいはそれ以上に漢詩が文学の主流であった。江戸時代の後期になると、漢詩の魅力はさらに多くの人々をひきつけ、大衆化の現象をひきおこした。そうした漢詩の普及を支えた詩人の一人が大窪詩仏であった。 「中国の盛唐期の大ぶりで華やかな詩を理想とする流れの中で、現実を自らの感性でとらえ、率直にわかりやすく表現する」大窪詩仏たちの方法は多くの人々の支持を得るようになった。

参考文献