地名に読みを
地名の読みを知りたい。しかし、江戸時代の史料が示す小字名の漢字読みは、ほとんどわからない、というのが実際のところです。つまり古文書に現代の書籍のように漢字の脇にルビが振られることはほとんどないからです。ただし、江戸時代に編纂され、明治になって刊行された中山信名『新編常陸国誌』の村落編に村名の読みが漢字(万葉仮名)をもって示されています。その漢字《 》内に示し、つづけてそれらにひらがなを宛てて紹介しましょう。
ただし、この村落編は、中山の記述ではなく、編者である栗田寛によって増補されたもので、1899・91年(明治32・34)に出版されたものに収録されました。つまり明治後期における読みです。本項はその後改訂を加えられた宮崎報恩会版の再版本(1981年刊)によっています。
多賀郡
森山《毛利夜麻-もりやま》 水木《美都伎-みつき》 大沼《於保奴麻-おほぬま》 金澤《加禰佐波-かねさは》 大久保《於保苦煩-おほくぼ》 河原子《加波良呉-かはらご》 下孫《志毛麻呉-しもまご》 諏訪《須波-すは》 油繩子《由奈波呉-ゆなはご》 成澤《奈留佐波-なるさは》 會瀬《阿布世-あふせ》 助川《須祁賀波-すけがは》 宮田《美夜多-みやた》 滑川《奈米加波-なめかは》 田尻《多士利-たしり》 小木津《袁(遠)藝津-をぎつ》 砂澤《伊佐呉邪波-いさござは》 折笠《於利加佐-おりかさ》 川尻《加波志利-かはしり》 伊師町《伊志麻知-いしまち》 伊師本郷《伊志保牟呉宇-いしほむごう》 石瀧《伊志多伎-いしたき》 友部《登毛倍-ともべ》 山部《夜麻倍-やまべ》 黒坂《久呂佐加-くろさか》 高原《多加波良-たかはら》
久慈郡
久慈《くじ》 南高野《美奈美加宇夜-みなみかうや》 留《登米-とめ》 兒島《古士麻-こしま》 茂宮《毛美夜-もみや》 石名坂《伊志奈邪加-いしなざか》 大橋《於保波志-おほはし》 田中中《多奈加宇知-たなかうち》 下土木内《志毛杼義宇知-しもどぎうち》 釈迦堂《志夜加杼宇-しやかどう》 良子《夜々古-やゝこ》 平山《比良夜麻-ひらやま》 東河内上《比賀志賀布登加美-ひがしがふとかみ》 入四間《伊利志祁牟-いりしけむ》 笹目《佐々米-さゝめ》 赤根《阿加禰-あかね》 深荻《布加遠義-ふかをぎ》 菅《須牙-すげ》 呉坪《久禮津煩-くれつぼ》 油ヶ崎《由賀佐伎-ゆがさき》 東上淵《比賀志和夫知-ひがしわぶち》 西上淵《爾志和夫知-にしわぶち》 岩折《伊波於禮-いはおれ》 岡町《袁加麻知-をかまち》 水瀬《美都勢-みつせ》
水木
『新編常陸国誌』は、濁音と清音を書き分けています。川尻が「かわしり」とはきれいですね。水瀬は「みつせ」です。地元では「ミッセ」とよんでいます。
水木は「みつき」です。水木の地が古代「密筑」とよばれたのですから、やはりみつきでしょうね。水海道と同じ「みつ」です。栗田寛がすべての村名の読みを地元の人から聞き取って著したとは思えませんが、水という文字をみて当時-幕末から明治にかけて-は「みつ」と宛てるのが自然だったということでしょう。きれいな音ですね。水は「みづ」なのでしょうが、「みつ」のほうが、甘く冷たく透きとおっている感じがします。「みずき」とされる水木町のみなさん、いかがでしょうか。
水木を「ミつき」とかな表記している森山の吉田神社の元和8年(1622)の棟札があります。当時はかなに濁点をふらないことが一般的ですから「みづき」と書かれることはないのですが、濁点がない「みつき」であってもよいわけです。そしていつしか水木という漢字があてられるようになり、その水木から「みずき」と読まれるようなる。逆転が起こったものと考えます。
金沢
日立市の金沢はカネサワと発音します。ところが昔からの地元の人でカナザワという人がいます。私もカナザワと言ってしまうときがあります。そんなときには直ちにカネサワと訂正を求められます。石川県の金沢はカナザワ、鎌倉の金沢文庫はカナザワ。有名な地名はカナザワですし、人の姓でカナザワさんはいても、カネサワさんは聞いたことがありません。つい日立市の金沢もカナザワと読んでしまうのも理由がないわけではありません。
全国に金沢という地名はたくさんあります。それぞれの地元ではなんと発音しているのでしょうか。
金は音読みだとキン、コン。訓読みでカネと漢和辞典にはあります。
金売はカネウリ、金請はカネウケ、金親はカネオヤ。金肥(キンピ)はカネゴエ。ところが、カナと読むときがあるのです。金物はカナモノ、金糞はカナクソ、金壷はカナツボ、金輪はカナワ、金釘流はカナクギ、のようにです。どうやら貨幣を意味するときはカネ、金を含めた金属を表すときはカナと発音する傾向があるようです。
地名の由来について、地元での読みあるいは発音を尊重するなら、日立市の金沢は金属の意味よりも貨幣に由来するということになるのでしょうか。
そしてもうひとつ気になるのは、沢がザワと濁らない点です。カナザワの方が言いやすいと感ずるのですが。これは連濁というもので規則性が無いといいます。音韻についてはまったくの素人なので、疑問に感じたことだけを記しておきます。
油繩子
『新編常陸国誌』では「ゆなわご」と読んでいます(こちら 油繩子村)。ある近世史研究者は油繩子の村名由来を次のように紹介しています。
八幡神社付近は宿並という小字名だが、昔ここに普済寺あった。寺近くの道路沿いに人家が立ち並んだ中に湯屋があり飯盛り女や湯女を抱えて営業した。そのため湯女子の名が生まれ、後油繩子の文字を当てたという。
普済寺は河原子村から水戸藩によって移されてきた。その時期は元禄年間(1688–1704)です。しかしそれ以前から油繩子村は存在しています。例えば、寛永12年–1635–成立の「水戸領郷高帳先高」(『茨城県史料 近世政治編1』)にあります。
また
検地の際縄が余ったから=余縄⇒油繩 ヨナワ⇒ユナワ→ヨナゴ→ユナゴ
説も紹介しています。「検地の際」とありますが、いつの検地のことか。水戸藩の最初の全領検地は寛永18年(1641)のことです。それ以前から油繩子村は存在しましたから、この検地というは、幕府による慶長7年(1602)の備前検地(1602)、あるいは豊臣秀吉による文禄3年(1594)の検地をさすのでしょうか。またヨナワがユナゴに変化するものなのか、音韻学を学んでいない私にはわかりません。
以上から二つの油繩子村の村名由来説をここで紹介するのは、誤解を招くのですが、不適切な事例としてあげておきます。
会瀬
会瀬は「あふせ」で、現代の表記だと「おうせ」です。「逢瀬」と同じです。発音は「オーセ」ですが、ふりがなを振るなら「おうせ」です。ところが、近年「おおせ」とするものがあります。日立市立「おおせ保育園」などにみられます。「おおせ」に漢字を宛てるなら「大瀬」でしょう。「大瀬」の発音も「オーセ」なので、混同したのでしょう。会瀬町の皆さん、いかがでしょうか。
2006年1月5日 訂正