共楽館の歴史
共楽館(茨城県日立市白銀町2丁目—当時、多賀郡日立村大字宮田の通称新町に所在)は日立鉱山の製錬所で働く人々のための福利厚生施設で、1917年(大正6)2月11日、紀元節に開館した。採鉱部門のある本山には同様の目的の本山劇場が、共楽館に先立って1913年(大正2)8月に開館している。
共楽館は歌舞伎を上演することを想定して設計され、回り舞台と使用しない時には格納される花道をもっていた。しかし多様な利用が可能なように、1階は土間で8人掛けの長椅子がおかれ、椅子が不要の時は片づけられ、土間は広く使われた。2階は桟敷。定員は合計で980人。
大きさは、建坪338坪、間口16間、奥行21.5間、高さ9.2間。建設費は3万5000円。
歌舞伎、芝居、講演会・説教、相撲巡業、映画会、音楽会、菊花展、素人演芸会ほか各種会合に使用され、教化と娯楽の提供に力が注がれた。娯楽性の高いものは低額ながら有料。太平洋戦争後は、主として映画が上映され、娯楽施設としての機能が強まった。
共楽館は立地上から鉱山従業員とその家族ばかりでなく、周辺の市民にも開放されることがあり、市民文化の振興にも寄与した。
以下に年表仕立てで共楽館のあらましを紹介する。詳しくは、共楽館史料調査会編『史料集 共楽館』(1999年 日立市郷土博物館発行)を参照のこと。
略年表
大正5年 (1916) |
日立鉱山、「大雄院劇場」建設に着手 鉱山従業員が設計。東京の歌舞伎座を模して、構造は洋式、外観は和風。製錬所がある大雄院地区に従業員の娯楽と修養、教化の場として建設される |
大正6年 | 2月11日、共楽館開館、柿落興行 沢村源之助、市河左団次一行50余人による歌舞伎公演がこの日から3日間にわたり行われる *2月、日立製作所従業員慰安会開催 |
大正7年 | 2月、映画(活動写真)が上映され、一般に公開される |
大正9年 | 温交会(労資協調機関)が運営。大幅な赤字を出す |
大正10年 | 会社経営に戻すが、温交会も運営に参加 |
大正期 | 日立鉱山山神祭の会場となり、一般市民に開放される |
昭和3年(1928) | 日立児童映画会設立。共楽館で毎月1回宮田・大雄院・駒王・仲町小の児童対象に映画会を実施 |
昭和6年 | 戦時下の時局講演会・展覧会が開催され、一般開放される |
昭和8年 | 1月、日立町の小学校5校連合音楽会開催 この年からトーキー(発声映画)上映 |
昭和9年 | 4月、日立鉱山音楽隊創立記念演奏会開催 |
昭和10年 | 日立町の各小学校の学芸会開催
*この年、日立製作所、日立会館を開設(昭和20年の空襲で焼失) |
昭和16年 | 日立市青少年団結成式開催 |
昭和17年 | 1月、ハワイ爆撃ニュース映画上映。観衆2000人 3月、5代沢村源之助一行、緞帳披露歌舞伎興行。二日間で観衆2300人 |
昭和20年 | 7月、通称新町と呼ばれる共楽館のある地区はアメリカ軍の焼夷弾攻撃を受けるが、共楽館は焼失をまぬがれる |
昭和21年 | 3月、映画常設館(日活の封切館)となり、一般開放される この年から労働組合が運営に参加。しだいに映画上映に力が注がれる |
昭和24年 | 封切館から邦画2番館へ |
昭和29年 | 1階と2階の出入口10箇所をドア式に改造 |
昭和30年 | 移動式長椅子を固定式のモケット張り連絡個人イスに変更。座席数617。シネマ・スコープ用スクリーンに改造 |
昭和37年 | 共楽館の利用減少が問題化。10月、映画上映回数及び上映日を減らす
*昭和40年 日立市民会館開館 |
昭和42年 | 2月、日立市への寄贈が話題となる。 9月28日、日本鉱業から日立市へ寄贈。日立市は武道館(多賀武道館が開館してからは日立武道館)として利用する方針を立て、工事に着手。このとき廻り舞台、奈落、花道、映画向け固定椅子、2階桟敷席などが撤去される |
昭和43年 | 日立市武道館開館(使用開始) |
昭和56年 |
*10月、日立鉱山閉山と共に本山劇場閉鎖 |
1999年 | 国登録文化財に指定 |
2009年 | 9月30日、市の文化財(建造物)に指定 |
建築史からみると
建築史家の藤森照信 は『史料集 共楽館』のなかで建築史的特徴について次のように述べている。
共楽館が当時の歌舞伎座を手本にしているのは明らかである。外壁上部は芯壁造りで、全体に和風の大屋根を掛け、正面に千鳥破風を見せている。正面左右隅の階段室には唐破風屋根を載せている。階段室や玄関は当時の建物にしては広く、都会の劇場に学んだ成果か、設計者のスケール感覚がそうさせたのか、建物全体にゆとりが感じられる。屋根は洋風の小屋組で、両側面には等間隔に四つずつ屋根窓が設けられている。そして裏にまわると妻壁上部に、がらりの付いた円い換気口が見える。全体に大ぶりなのと屋根裏に換気口が多い点は、工場建築のようだ。設計者は建築家ではなく、鉱山会社の技師だったというが、その個性がでているのだろう。
ついで共楽館の舞台開きを予告する1917年1月の『常総新聞』記事が伝えている「帝劇を除きては全国一の劇場なり」という微妙な言い回しについて、次のように述べている。
さて話を最初に戻して、共楽館がはたして帝国劇場に次いで全国第二位の劇場だったのか。規模については、新富座、市村座、歌舞伎座などの当時の主要歌舞伎劇場の方が、共楽館よりひとまわり大きかった。工費については、共楽館は三万五〇〇〇円だったというが、東京や大阪では桁の違う額が劇場建設に投じられていた。数値で比較すれば、共楽館が帝国劇場に次いで第二位だったという事実はない。
とはいえ、当時茨城県内で最大の劇場であったようである(この時期の大きな建物としては、茨城県公会堂があったが、これより共楽館は大きかったらしい)。
劇場
なお、共楽館を「芝居小屋」とくくられることがあるが、これだけ大きく歌舞伎などに限らず映画を中心として多様な利用がなされた建物に「小屋」のイメージはなく、近代的なイメージがほしいところである。本家の歌舞伎座、最初の名称(大雄院劇場)、兄の名称「本山劇場」からして、共楽館は「劇場」と言っていいのでないか。