共楽館その後
共楽館が日立鉱山(日本鉱業)という企業にとって使命を終えた時、つまり共楽館が日立鉱山にとってお荷物となった時、日立鉱山は1967年日立市にその行く末をあずけた。日立市は共楽館の延命を武道館としてはかった(結果としてそうなったのであって、意図的に共楽館として延命処置を施したわけではない。ちなみに共楽館がのる土地は、日鉱のものであるという。土地は日鉱にとって価値があるということなのであろう。借地料が有料なのか無料なのか知らない)。
共楽館が果たしていた市民劇場としての役割は、1965年に開館した日立市民会館が肩代わりをしていたから、あらためて劇場は日立市にとって不要であった(市民会館には棟方志功の原画によるタイル壁画があり、音響設備を含めて新しい文化の息吹を感じさせる)。引き受けるならどのような利用ができるのか。日立市当局のアイディアは武道館であった。たしかに企業の武道館はあったが、公立の武道館はなかった。
そうした意味において解体の危機にあった共楽館を救ったのは日立市なのである。
そのときの日立市長は萬田五郎。萬田は日立製作所日立工場の総務部長を務めた。つまり日立製作所出身である。その萬田は1963年から市長の座にあった。その前任は萬田同様に日立製作所日立工場総務部長を経験した高島秀吉である。1959年から62年まで高島は四期目のそして最後の任期をつとめた。その59年の市長選挙は、日鉱対日製選挙とよばれ、激しい企業対立選挙となった。結果軍配は日立製作所にあがった。ぎくしゃくした日鉱と日製、そして混乱する地域。その融和を図る、という意味で日鉱の創業者久原房之助に求められて萬田五郎が市長選に立候補する。それ以後日立市の政治と行政は日立製作所が牽引する。
日鉱対日製対立選挙から8年後、日立鉱山は象徴のひとつである共楽館の行く末を2期目の日立市長萬田にあずけた。
1967年萬田は共楽館を残した。建設後50年の建物である。築50年の建物はありふれたものである。文化財としての価値を当時見いだされていなかったはずである。つまり文化的、建築史的意義において残されたのではなく、地域の政治的意味を強く帯びて残されたと考えられないだろうか。
建設から92年がたった2009年に日立市は指定文化財とし、保存の意思を明らかにした。そして翌年朽ちかけていた建物に数億円をかけて修復した。日立市による2度目の救済である。
共楽館は1940年代から60年代において共楽館に親しんだ人々にとって「郷愁」を感じさせるものである。共楽館は文化そのものだといってよい。文化を失う。そして思い出を失う。悲しいことである。保存運動の強さはそこにあるといえよう。しかし「郷愁」はいつかは消える。残るのは共楽館の建築史的価値である。
共楽館の歴史については「共楽館」を参照。