丹野セツ —思想の芽ばえを日立鉱山で—
労働運動家
丹野セツを『日本人名大辞典』(講談社)は次のように解説する。
大正-昭和時代の労働運動家。
明治35年11月3日生まれ。渡辺政之輔の妻。看護婦となり,労働運動にくわわる。大正15年共産党に入党して党婦人部長。昭和3年逮捕され,懲役7年の刑をうける。31年東京葛飾区に四ツ木診療所を開設し,労働者の医療活動につくした。55年党除名。昭和62年5月29日死去。84歳。福島県出身。
丹野の生涯を労働運動に絞ってその生涯をまとめるなら、たしかに上記のような要約となろう。丹野は少女時代、日立鉱山で過ごした。そのことは触れられていないが、彼女の思想と行動を育んだ重要な時期・場所である。
この点について『鉱山と市民』第二編>第一章>第一節>10 明治大正期の女子労働 の項において木脇紀美子が「丹野セツと友愛会事件の頃」の見出しで解説している。
丹野セツは1987年5月29日に他界する。享年85である。その亡くなる2週間前の5月15日、木脇が入院先の病院で聞き取りを行なった。その内容は翌1988年3月発行の『鉱山と市民』に「思想の芽ばえを日立鉱山で」として活字化された。
日立鉱山時代の丹野セツについては『鉱山と市民』の解説と聞き語りをお読みください。ここでは略年譜によって丹野セツのあらましを紹介する。
略年譜
1902年 明治35 | 11月3日、福島県磐前郡小名浜町に大工の3女として生まれる | |
1909年 明治42 | 7歳 | 4月、小名浜尋常小学校入学 |
1911年 明治44 | 9歳 | 丹野一家、セツと祖母を残し、日立鉱山に移る |
1913年 大正2 | 11歳 | 4月、セツ、日立に移る。日立鉱山石岡発電所(北茨城市)建設工事のため家族とともに茨城県多賀郡南中郷村石岡に移る。石岡分校複式学級に転校 |
1914年 大正3 | 12歳 | 家族とともに日立村芝内に移り、日立第三尋常小学校(大雄院小学校)に転校 |
1915年 大正4 | 13歳 | 日立第一尋常高等小学校(宮田小)高等科入学 |
1917年 大正6 | 15歳 | 高等科卒業。茨城県女子師範学校(水戸市)合格。しかし父の反対で進学を断念、日立製作所の給仕。10月、日立鉱山本山病院の見習い看護婦 |
1918年 大正7 | 16歳 | 『婦人公論』を読み、婦人参政権と労働運動に関心をもつ。日立鉱山で働いていた川合義虎[1]・北島吉蔵[2]・相馬一郎[3]を知る |
1919年 大正8 | 17歳 | 茨城県看護婦試験に合格。日立鉱山病院の正看護婦となる。11月、日立鉱山本山劇場での労働団体日立友愛会[4]の発会式に参加 |
8月22日、高鈴村助川座で日立友愛会大雄院支部・本山支部発会式 | ||
11月27日以降、日立鉱山は友愛会会員58人の解雇を発表。日立製作所日立工場では57人を解雇 | ||
12月2日、解雇反対集会。警官と友愛会員衝突(日立友愛会事件) | ||
1921年 大正10 | 19歳 | 春、日立鉱山本山病院を抜け出し、上京。順天堂病院の看護婦となる。夏、小名浜の実家に連れ戻される |
1922年 大正11 | 20歳 | 4月、家出して上京。(社)実費診療所看護婦となる。社会主義団体の暁民会[5]、赤瀾会[6]に参加。夏、亀戸に移り、精工舎女工となる。秋、再び小名浜に連れ戻される
7月、日本共産党創立 |
1923年 大正12 | 21歳 | 1月、4度目の家出、上京。政治運動に参加。秋、東洋モスリン女工となる |
9月1日、関東大震災 9月4日、日立鉱山時代の友人である川合・北島が習志野騎兵連隊の手で殺害される(亀戸事件) |
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1924年 大正13 | 22歳 | 日本共産党指導者渡辺政之輔と結婚。日清紡績亀戸工場女工となる |
1925年 大正14 | 23歳 | 6月、病気により日清紡績を退社、三田土ゴム製造へ。8月解雇。沖電気消費組合で働く |
1926年 大正15 | 24歳 | 6月、日清紡績争議に参加し逮捕。日本共産党に参加 |
1928年 昭和3 | 26歳 | 治安維持法違反で逮捕 10月6日、渡辺政之輔、中国基隆で官憲と交戦、自ら命を絶つ |
1932年 昭和7 | 30歳 | 懲役7年の判決を受け、宮城刑務所に投獄される |
1938年 昭和8 | 36歳 | 9月30日、満期出獄 |
1939年 昭和9 | 37歳 | 中国青島に移り、病院の看護婦。同年帰国 |
1943年 昭和18 | 41歳 | 保健婦免許を得る |
1945年 昭和20 | 43歳 | 敗戦後、都内の診療所を看護婦として転々とする |
1956年 昭和31 | 54歳 | 東京葛飾に中小零細工場で働く人々のために四ツ木診療所を創立 |
1980年 昭和55 | 78歳 | 日本共産党除名 |
1987年 昭和62 | 5月29日、死去。享年85 |
[註]
- [1]川合義虎:1902年(明治35)、長野県小県郡西塩田(上田市)生れ。父が鉱夫として日立鉱山へ。日立村第二小学校(本山小)卒業後、日立鉱山に旋盤工として勤務。1919年(大正8年)12月の日立友愛会事件で解雇。。翌年上京、暁民会に入り、日本社会主義同盟結成大会に出席。検挙、起訴されて懲役3ヵ月の刑をうける。1922年(大正11)、日本共産党結成まもなく入党。渡辺政之輔らと南葛労働協会(のち南葛労働会)を結成、自分の家を事務所に提供した。翌1923年4月日本共産青年同盟結成に尽力、初代委員長に就任。同年9月の関東大震災に被災者救済活動中の3日夜検束され、翌日夜、亀戸署の演武場横の広場で他の9名とともに習志野騎兵第13連隊の手で殺害され、死体は大島町八丁目付近の空地で石油をかけて焼却された。享年22。〈参照『国史大辞典』〉
- [2]北島吉蔵:1904年(明治37)秋田県生まれ。日立鉱山の旋盤見習工になり、友愛会に加入。1922年(大正11)東京で南葛労働協会の結成に参加。関東大震災に際し被災者を救援中、亀戸警察署に検束され、1923年9月4日9名の同志とともに習志野騎兵連隊の兵士に殺害された。享年20。〈参照『日本人名大辞典』〉
- [3]相馬一郎:1903年(明治36)秋田県鹿角郡小坂村生まれ。1919年(大正8)上京。旋盤工として働き、暁民会に参加。1922年共産党に入党。1924年(大正13)ソ連に行き、クートベ(東洋勤労者共産主義大学)を卒業。三・一五事件後党再建のため帰国、1928年、活動中に検挙される。獄中で転向し、出獄後の1939年(昭和14)11月13日自殺。享年37。〈参照『日本人名大辞典』・「産別民同がめざしたもの(1)」『大原社会問題研究所雑誌』489号(1999年)〉
- [4]友愛会:1912年(大正元)8月にクリスチャンである鈴木文治が同志とともに東京で組織した労働者団体。日立友愛会及び日立友愛会事件については、斎藤典生「友愛会事件と温交会の成立」(『鉱山と市民』第二編>第一章>第一節>)を参照されたい。
- [5]暁民会:1920年(大正9)5月結成の労働者団体。1921年11月、反軍・反戦ビラを配付、12月関係者約40人が検挙、内15人が出版法違反および治安警察法違反容疑で起訴、8人に有罪判決。
- [6]赤瀾会(せきらんかい):1921年4月結成の社会主義女性団体。顧問に山川菊栄・伊藤野枝。
参考文献
- 山代巴・牧瀬菊枝『丹野セツ—革命運動に生きる—』(1969年)
- 鉱山の歴史を記録する市民の会『鉱山と市民—聞き語り日立鉱山の歴史—』(1988年)
- 南コニー「丹野セツ―女性の戦争責任とジェンダー平等について」『ジェンダーインスティチュートジャーナル』第39号(2025年)