史料 川尻浜海防郷士御用留

文化4年(1807)水戸領沖合に異国船が姿を見せて以降頻繁に異国船が出没するようになる。文政6年(1823)6月9日、那珂湊沖に現われると水戸藩は大がかりな警戒態勢をしいた。

目次

文政六年の御用留

文政6年6月15日、多賀郡友部村(日立市)の郷士樫村所衛門は東に隣りあう川尻村(日立市)に詰めるよう石神組郡奉行梶清次衛門から指示をうけた。そのときから8月までの三ヶ月間の「御用」を樫村所衛門は「異国船御手当川尻村詰御用留」[1]に記録した。この御用留から川尻浜における水戸藩の異国船対応を紹介する。

樫村所衛門にあてた郡奉行の文政6年6月15日付達が次のように「御用留」冒頭部に記録されている。

此度異国船相⾒候ニ付、御⾃分義川尻村詰御達有之候条、此配符参着次第即刻相詰、役所出役之者へ可被相届候

異国船が現われたので、川尻詰に任命する。この配符(文書)が届きしだいただちに川尻に詰め、出役している役人に届けよ、という内容である。ついで兵糧のこと、配下の猟師のこと、帯同者、装備などを記している。

石神組郡奉行所の管轄区域では那珂郡村松村(東海村)・多賀郡水木村(日立市)と川尻の3ヶ所に、それぞれ郷士5人と猟師10人が動員された。

川尻詰の持場は、当初、滑川村(日立市)から石滝村(高萩市)までだったが、6月23日に田尻村から石滝村までと変更通知があり、滑川は水木詰の管轄となった。

川尻に詰めた郷士は樫村所衛門のほか久慈郡太田村の羽部源三郎、多賀郡赤浜村の長久保源大夫、磯原村の野口友次郎、大津村の西丸勇次郎の計5人である。

猟師は高原村(多賀郡)の10人が6月16日から詰め、その後は、下幡村・徳田村・折橋村・小中村(いずれも久慈郡 常陸太田市)から10人、西塩子村・上寺田村・上小瀬村・長沢村(いずれも那珂郡 常陸大宮市)から10人、相川村(久慈郡 大子町)・多部⽥村・小砂村・岡組村(いずれも下野国那須郡 栃木県那珂川町)から10人が数日交代で詰めた。

樫村所衛門に川尻詰を命じた文書の次に、藩から郡奉行への「御達之写」が書き留められている。この達はそのまま郷士への注意書となっている。冒頭に次のようにある。

此度村松村、⽔⽊村、川尻村三ヶ所郷⼠、猟師等御指出ニ相成候ニ付ハ郷⼠并⼿代共も委細申含、御⼈数不作法等無之様取扱候儀ハ勿論、異国船近寄候ハヽ厳重ニ其場所相堅居、早速其役所注進、尚⼜役所よりも無遅滞申出候様可被取扱候、尤右船之模様ニゟ敵対之様⼦も無之候ハヽ此⽅ゟ猥ニ鉄炮不打掛候様堅相戒、萬⼀敵対之様⼦も有之候ハヽ其扱之同役中早速其場⾛付□合次第打掛候とも可應時宜事ニ候得共、成丈ハ穏便ニ被取扱候事可為肝要

「敵対」の様子がなければ鉄砲を打ちかけてはならない。万一「敵対」の様子が見えたなら鉄砲を打ってもよいが、なるだけ穏便取り扱うことが肝要だと。さらに

猟師等猥ニ鉄炮打掛候様之義有之候ハ甚以不宜候間、たとへ異国⼈致上陸候迄も何分穏便ニ取扱、不得⼼事節打払候様末々迄得ト可申含旨今⽇呉々御達有之候事 

猟師がみだりに鉄砲を打ちかけることはあってはならない。たとえ異国人が上陸しても穏便に取り扱うこと。危険を感じるときは撃ってもよい、と藩は指示する。

漁師と異国人の交流

文政6年(1823)5月、慌ただしく川尻浜において警戒態勢が整えられ、郷士や猟師たちに異国人対応の心構え、注意事項を藩の役人が説いているとき、その川尻浜の漁師が沖合で異国船に遭遇し、乗り移って酒や菓子をもらっている。その外に各浜の漁師たちはそれぞれに異国船に乗り移って、さまざまなものをもらい受けている。「文政七甲申夏異国船伝馬船大津浜へ上陸并諸器図等」[2]に描かれているそれらは漁師たちが提供した水や薪、野菜などの食料などへの返礼品ではなかったか。

『日立市史』[3]に次のような記述がある。「かつおが例年より沖合に集ったので其処まで漁に行ったところ、付近に異国船がいた。このとき会瀬の柴田伝左衛門の支配下にあった忠五郎という漁夫が単身異国船に近づき、招かれるままに上船し、船中を見学して帰った。次いで忠五郎は再び手土産にかつおをもって異国船を訪れ三日ほど船中に滞留して捕鯨のさまを見学して戻った。そののち会瀬及び付近の漁夫は相次いで異国船に上船し、懇望されるままに、所持する品と先方の品と交換して帰った」。

異国船に「敵対」の様子はない。漁師たちには海を糧にする者同士という認識もあろう。できるだけ穏便に対応せよ、という藩の態度は、それらを反映していよう。

嘉永年間の折笠村絵図に描かれた「異国船番所」(現川尻町1丁目2 日立市郷土博物館『村絵図にみる日立』より) 

文政八年から十二年の御用留

文政7年(1824)5月28日イギリスの捕鯨船員が食糧などを求めて水戸藩松岡領大津村に上陸した。翌8年に茨城郡磯浜村(大洗町)・多賀郡河原子村・同川尻村(日立市)の3ヶ所に見張番所(異国船番所)を設け、近隣の村民を郷足軽に任命し、郷士の指揮のもと異国船の見張にあたらせた。

このとき川尻村の見張番所に配置された常陸国久慈郡田中々村の郷士、大内勘衛門の御用留を PDF版 で提供する。

 史料について

郷士らの川尻異国船見張番所配置

郷士と郷足軽の配置

文政8年3月15日 川尻浜に水戸藩の大筒掛と徒目付が配置
     5月29日 川尻浜詰郷足軽任命
     6月14日 田中々村郷士大内勘衛門、川尻定詰任命

文政8年8月26日に川尻村海防指引(指揮官)の佐野七郎兵衛から田中々村郷士大内勘衛門に通知があった。内容は、これまで配属されていた大筒掛りと御徒目付らは8月29日に引上げることになったので、大内たちは継続して油断なく海防の任務にあたれよ、というものであった。

海防御⼿当川尻村詰⼤筒⽅并御徒⽬付等、来ル廿九⽇為御引相成候条、其旨御⼼得、猶無油断致警衛候様郷⼠等ヘ御申付可被有候、以上
 ⼋⽉廿六⽇  筋ゟ 佐野七郎兵衛 

こうして8月29日、大内勘衛門と菅谷村⼩宅三左衛⾨の2名の郷士を指揮官にして、天保7年(1836)までの十年間、毎日2名の郷足軽が当番となって川尻浜での海岸防備の任にあたることになった。大内たちの具体的な任務は、文政11年(1828)の分がこちら 史料 大内達直 足軽海岸廻帳 で知られる。

イギリスの捕鯨船員の大津浜上陸以前、友部村の樫村所衛門ら5人が川尻村に詰めた文化6年時の警戒態勢に比して、郷士人数は5名から2名へ減小し、かつ猟師は常駐することはなく[4]、近隣の村から新たに郷足軽25人が配属された。郷足軽に猟師の代りをさせようとし、射撃の訓練がなされた。足軽世話役として川尻村の廿分一改役が任じられている。大筒の射撃訓練は、大内ら郷士の指揮の下に行われた。このように大津浜事件の翌年、藩による海岸防備態勢の再編成が行われたのである。

川尻番所の管轄範囲

御用留本文冒頭に「海防持場手控」と題する記述がある。滑川村から北へ田尻・小木津・折笠・川尻・伊師浜・石滝の各村の浜辺の距離、海辺の目印間の距離などが記される。そして石滝村と安良川村の境にある小川(花園川)を堺に北は「別高」すなわち中山氏領地で、大内たちの管轄外という。つまり川尻番所の管轄区域は滑川村から石滝村までとなる。これも文政6年とは異る。

それぞれの村ごとに海岸線の状態を記す。例えば、最南に位置する滑川村では、宮田村境の福地堂下から滑川村太田尻まで14町30間を3区画に分け、福地堂下—北川—「具美」島岸—太田尻の区間で船が浜に着くことが可能な場所を「是差船上陸共ニ相成場所」「是岸壁ニ差船難相成候」(差船とは年貢米を輸送する大型船を指すが、着船の誤記とも考えられる)と。

退任

文政9年(1826)3月、川尻村に郷士らが詰める「御役屋」が完成した。大内らは「川尻村我々共御役屋御普請出来、前書之通り受取置申候」と役屋の受取状を藩に差し出した。この記事に天保7年(1836)5月付の貼紙がある。

海防為御⼿当川尻村定詰被 仰付候節御役家請取候砌、御役家⽬録書指出置候処、天保七申正⽉定詰メ御免被仰付、右川尻御役家御普請⽅相納候節ハ前⽅指出置、書付へ末書ヲ認メ指出申候⽂⾔左之通り
右御役家改之上指上申候、依如件
天保七申五⽉
                  ⼤内勘衛⾨ 印
                  ⼩宅三左衛⾨ 印 
      ⼭中五郎兵衛殿 
      萩 助衛⾨殿

天保7年(1836)正月に川尻番所定詰の任を解かれ、5月になって川尻番所の役屋を藩に返却したのである。

正月11日、川尻・河原子・磯浜には藩の先手物頭と組同心が配置され、郷士・郷足軽は役割を終えた。

参考文献

[註]

  1. [1]友部樫村家文書 こちら 文政六年 異国船につき川尻詰御用留 に翻刻
  2. [2]茨城県立図書館デジタルライブラリー>松蘿館文庫
  3. [3]p.339 第一篇>近世>第六章>二 海防と日立地方>異国船の出現
  4. [4]本史料「川尻浜海防郷士御用留」に文政9年5月18日付の照沼・安島から文書がある。そこに「異船相見エ候節為防禦川尻村へ走付、猟師弐拾五人役処ヨリ一左右次第相詰候様兼村々相達」とあり、近隣9ヶ村の猟師たち26人の名を書上げている。