史料 大内達直 足軽海岸廻帳

日立市郷土博物館の自主学習グループである古文書学習会が2008年に解読した「文政十一年 足軽海岸廻帳」を PDF版 で提供する。

この記録は、水戸藩領久慈郡田中々村の郷士大内勘衛門達直が⽔⼾藩領海岸防備のために文政11年(1828)多賀郡川尻村に設けられた異国船見張所(正確には折笠村の字筈の山上にある)に郷足軽を率いて見張についたときのいわば業務日誌である。とりわけ配下の郷足軽のいわば出勤状況を記録することであった。

文政7年(1824)5月28日イギリスの捕鯨船員が食糧などを求めて水戸藩松岡領大津村に上陸した。これをきっかけに水戸藩は郷士と村の猟師を海辺の村、水木や川尻、伊師浜に配置するなど防備策をとった。翌8年に磯浜村(那珂郡)・河原子村(多賀郡)・川尻村(多賀郡)の3ヶ所に見張番所を設け、近隣の村民を郷足軽に任命し、郷士の指揮のもと異国船の見張にあたった。

十年後の天保7年(1836)正月11日、川尻・河原子・磯浜には藩の先手物頭と組同心が配置され、郷士・郷足軽はその任を解かれ、役割を終えた。

参考文献


定詰郷士

川尻村の番所には大内勘衛門と小宅権之丞(那珂郡菅谷村 那珂市)の二人の郷士が半月交代で詰めた。

田中々村の大内家は万治2年(1659)水戸藩初代藩主頼房の時代に代々郷士を命じられた(新修日立市史 上巻 p.508に詳しい)。本史料中に左馬之介という名が見られるが、勘衛門の子である。左馬之介はのちに父の跡を継ぎ郷士となっている( 弘化三年五月 水戸藩郷士書上)。

郷足軽

川尻村の見張り所において郷士の下に郷足軽が任命されたのは、文政8年(1825)5月29日。小木津・折笠・川尻村・伊師浜村の計25人。この足軽が毎日2名交代で見張り所に詰めることになる。

小木津村:大森彦八郎・黒沢平兵衛・佐藤藤蔵・馬上藤左衛門・小野市兵衛・君川久蔵・豊田吉衛門
 折笠村:坂本市郎衛門・沼田要蔵・大津要次郎・小林庄介・小林弥次衛門・大津吉郎衛門・鈴木清三郎・国井栄次郎・小林兵蔵
 川尻村:鈴木善蔵・鈴木万四郎・鈴木介八・海野彦之丞・赤須作之丞・落合七五郎・山方貞蔵
 伊師浜村:保科次左衛門・関栄介

異国船の出没

本記録によれば、異国船(異船)が川尻沖に現われたのは、文政11年4月21日のこと。一年を通じ川尻沖に現われたのはこの日だけである。勘衛門は「此日異船⾠⺒沖ヨリ⾛リ出、五⾥程ニ⾒へ申候、暫ク漂リ居リ、暮ニ及帆形不⾒候」とだけ記し、翌日に隣友部村の郷士樫村所衛門と川尻村の足軽世話役兼小頭・合図役である兼子忠兵衛が「見舞」にやって来たことを淡々と記す。実はこの日の五日前の16日に河原子沖に現われたこと、そして十五日後の5月7日に大津沖に現われたとのそれぞれの見張り所からの情報に接している。この3件以外に異国船の記事は見られない。そして異国船の姿が見られたからといって、勘衛門の記録に緊張感はみられない。

その他の記録内容

天候 勘衛門は毎日天候を記録する。番所から異国船を監視する。その役割が全うできるか否か、天候次第である。これが天候を毎日記録する理由なのであろう。

郷足軽の任命 正月24日の条に「⼩⽊津村重兵衛後職新⼋エ⾜軽被仰付候由ニ付役⼈同道ニ来ル」とある。小木津村重兵衛の後任に新八が選ばれた。新八は29日が「御奉公始め」の日で、勘衛門は新八家から祝に招かれるものの出席しなかったが、その代りに祝の品が届く。郷足軽に任じられることは祝の儀式を行うほど名誉なことであったのである。

武具の手入れ 6月14日の条には相方の小宅が「足軽具足弐拾領⾍⼲致」、 6月19日にも具足を虫干ししている。6月14日は現代の暦では7月25日、梅雨が明けたのであろう。

給与される米を友部村に取りに行かせたり、来客の応接をしたり、沖合を通る廻船も見たとき、それらを記録するが、勘衛門の職務に関連した記述は多くはない。

むしろ勘衛門が生まれ、育ち、暮らしてきた久慈川下流域の田中々村と長期間滞在し業務を行う浜辺の川尻村とは生業も大きく異なる。勘衛門は身の回りのできごとをある種の珍しさをもって記録しているかのようである。

城米の積込み 12月9日の条に「此⽇初御城⽶積ミ始メ申候、尤押送リ并雇イ船三艘来ル」という記述がある。川尻村近辺の村々の年貢米(城米)を水戸の城下へ海上輸送するため川尻浜での積込みのための押送船とともに輸送船3艘が川尻浜にやってきた。翌10日も積込み作業がなされた。14日にも6艘がやってきて、以後、15・16・17・20・21・22日に城米輸送の記述がある。この城米積込みの様子は文久2年(1862)の絵図に描かれている(こちら 「史料 折笠村旧跡由来記録」>御城米蔵)。ちなみに、この城米を保管し積込む場所は、正確には折笠村である。

川尻浜の漁

5月21日の条には河原子浜で「初鰹沢⼭ニ釣揚」、そして三日後の24日に川尻浜でも「初ツ鰹釣揚」げられ、翌25日に勘衛門は「初鰹ヲ一ト切貰い」、6月23日には「鰹船出船アレトモ猟なし」だったが28日には「鰹沢⼭揚リ、弐千程釣レ申候、尤直段百七拾五⽂之由」などと川尻浜での漁のありさまを記録する。3月28日の条「地引ニてサバトレ申候」のほか、網船、縄船、イワシ、ブリ、クジラ、アワビなどの記述がある。

村の日常と非日常 正月22日の条に「陣之平ゟ野⽕出、宝幢寺へ⽕迫リ成候故⼤キ騒キ、⼤勢ニて消シ申候」とある。宝幢寺は真言宗の寺院で、のち天保末の水戸藩仏教弾圧策により破却処分された。現在は日蓮宗の蓮光寺がある。陣之平とはその背後、西方にひろがる山林であろうか。

6月9日には、前日から降続いた大雨で十王川(あるいは反田川・折笠川)があふれ、川尻の宿の道は膝上まで水が上がり、さらに折笠宿にある岩山がくずれ、伊師浜では人が亡くなったこと、10月6日に伊師浜村で出火があり、3軒が焼失したことなどが記録される。

魚の貰物、配下足軽の生活、村の祭りや芝居、娯楽など勘衛門が見聞した村の日常が記録されており、大変興味深い。

村人の日常が垣間見える優れた史料である。

余録 海防役屋の建設

川尻に常詰となった郷士、大内勘衛門と小宅権之丞は、宿陣詰めを行った。その後御番山北西の地に役屋が建設され、大砲や鉄砲などの武具も役屋に附属した土蔵に保管したという(『新修日立市史 上巻』p.738)。この役屋の建設費の負担に関する水戸藩役人の文政12年(1829)8月の触書を紹介する(『茨城県史料 近世政治編Ⅰ』p.165)

要約すれば、磯濱・河原子・川尻三ヶ所へ海防役家を建て、郷士らを定詰させることにした。その役家の普請については多くの人足を徴発することになるが、右の三浜の最寄の村々にはこれまで多くの負担を強いてきた。その上役屋普請の人足まで徴発するわけにはいかない。役屋建設の人足に日雇銭を出すこととし、日雇銭の半分は藩から、半分は領内の村々へ高掛してまかなうことにした、というものである。

海防役家の建設費を藩が全額をもつのではなく、村に半額負担を強いるのである。海防は堤普請などと異なり村人の生活に直接影響するものではない。ずいぶん虫のよい話である。役人の間で議論はなかったのだろうか。

   以書付申触候
近来異国船度々相見、其時ニ御人数御指出ニ相成、於村々ニも難儀いたし候ニ付、右為御備夫々之懸ヲも被 仰付、猶又磯濱・河原子・川尻三ヶ所へ役家相建、郷士共定詰被 仰出候処、右役家普請候付は多分之人足召仕候得も、右三ケ濱最寄村々之儀ハ是迄御人数御指出し、毎度盛農中莫大之人夫召仕相傷居候上之儀ニ、普請人足迄召仕候儀は歎ケ敷次第に付、右人足日雇銭ヲ以召仕、右日雇銭之内半金ハ重ク願之上 上より被下、半金御領中へ高掛ヲ以申付候、尤諸人馬免許村方数多有之、免許無之村々別難渋之趣相聞候間、免許へも都相懸候条、村々山守給并引物之内寺社へ除地・稗御蔵地・殻留番所屋敷・舟頭給指引、残高へ相懸候条、右心得ヲ以上納可仕者也
   八月                  小田與三郎

余録 水戸藩郷士の帯刀

水戸藩の郷士は本人と長男(嫡子)のみが帯刀できる。次男以下については許されていない。だが田中々の大内家だけは宝暦2年(1752)から同居している間という条件を付されて次男も帯刀を許されてきた。

ちなみに武士身分の者は次男・三男までが帯刀を許されていた。

このことは「御郡方新撰御掟書 一」(『茨城県史料 近世政治編Ⅰ』に翻刻)の「一 郷士之事」の条の文化5年(1808)の記事(p.156)にある。以下に紹介する。この記録は太田村郷士羽部祐九郎の三男が居合の免許を得たので帯刀を認めて欲しいと、管轄外(外役所)の御目付方へ願い出て了承をもらい、それをもって郡奉行所(支配役所)にも申し出た。郡奉行所は「惣領の外は帯刀してはならない」と以前から定めてあるのに支配役所である郡奉行所をないがしろにした行為であるとして、羽部を閉戸処分にした。

この羽部の一件を記録する上で大内家だけは次男まで許していること(理由は不明だが、大内家は退隠後の光圀がしばしば訪れるなど、郷士の中で特別の位置にあったことを推測させる)を記しているのである。本文で「以前から」とだけで年号を缺いているが、この項目を記録した役人は「御条目留」元禄14年12月15日の条の次に年号を缺いて記載されている「一 郷士嫡子之外刀指之義御停止之事」がそれであると記す。