史料 日立鉱山と日立村滑川の煙害契約書 1909年

1909年(明治42)6月14日付『いはらき』新聞に「日立鉱山煙毒一段落」という見出しをもつ記事がある( こちら )。その冒頭部に次のようにある。

多賀郡日立鉱山事務所と日立、高鈴其他関係村民との間に於ける鉱煙毒被害賠償問題は、被害民側の委員と鉱山事務所代表者とが屢々会見交渉を重ねたる結果漸く妥協成立し、去月[5月]下旬を以て一先づ円満なる解決をみるに至れり。

この記事が言う「円満なる解決」を具体的に示す史料を紹介する。日立村内大字滑川地区住民が所有する山林に関して作成された1902年5月25日の煙害補償契約書雛形である。 こちら PDF で全文を提供する。

史料について

テキスト化にあたって

日立鉱山の製錬所が日立村大字宮田字赤沢から字杉室の大雄院跡地に移転し、新築溶鉱炉への吹入が行われたのが、1908年(明治41)の11月末のことである。当初設置された八角煙突からの排煙は製錬所にも充満したため、これの対策として翌年5月、神峰煙道が完成する。同時にこの煙害補償契約が成立した。大煙突が完成するのはまだ先、1915年3月のことである。

契約書の冒頭部分は

茨城縣多賀郡日立村大字滑川大和田耕造外百五拾八名ヲ甲トシ、同縣同郡同村日立鉱山鉱業人久原房之助ヲ乙トシ、甲乙間ニ左ノ契約ヲ締結ス
  1. *日立村は大字宮田と滑川の二つからなり、滑川は宮田の北東に位置する。日立鉱山が操業を始める直前1904年の日立村の世帯数は370であるから、大字滑川の山林所有者159人とは滑川の世帯主を網羅していると考えられる。

本契約書は全7条からなり、第1条は次の通り。

乙ガ日立鉱山経営ノ為メ甲ノ所有ニ係ル日立村地内ノ山林ニ対シ煙害ヲ及ホスコトヲ豫想シ、其補償額ヲ左ノ通リ相定ム、但松林及雑木林トス
 一、実測面積壱町歩ニ付壱ヶ年金五円也

今後予想される煙害の補償金として1町歩につき年間5円を補償する、とあるが、この契約書にはもう一つの契約書が附属する。その冒頭に次の文言がある。樹木所有者は鉱山に立木を売渡すか、枯れた立木の補償金を得るか、いずれかを選ぶことができると言う。

本日締結シタル煙害補償契約地上ノ松及雑立木処分ニ関シ、更ニ左ノ契約ヲ締結ス
第壱条 甲ハ別表ニ記載セル價格ヲ以テ立木ヲ乙ニ賣渡スカ、又ハ立木枯損ニ対スル補償金トシテ壱反歩ニ付平均四円ヲ乙ヨリ支払ヲ受クルカ、其ノ一ヲ選ムベキモノトス