史料 久慈町漁業組合規約

目次


漁業組合準則

明治18年(1885)9月10日、茨城県は「漁業組合要項」(全9条)を示して、「管下河海湖沼ニ於テ漁業採草ニ従事スルモノハ別紙要項ヲニ基ツキ直チニ組合ヲ設ケ、規約相定メ、出願認可ヲ受クヘシ」と達した[1]。この県の指示は、明治17年の農商務省令「同業組合準則」に拠っていたが、この要項により設立された漁業組合はなかった[2]

翌明治19年5月6日になって農商務省は「漁業組合準則」(全9条)を制定し、各県にこの準則に基づく組合設置と規約認可を求めた。その第1条で「漁業ニ従事スル者ハ適区劃ヲ定メ組合ヲ設ケ、規約ヲ作リ、管轄廰ノ認可ヲ請ウヘシ」とする。第3条で組合を2種に分ける。遠海漁・地引網漁・台網漁・捕鯨・ニシン漁・昆布採取など「各其種類ニ従ヒ特ニ組合ヲナスモノ」と「河海湖沼沿岸の地区ニ於テ各種ノ混同シテ組合トナスモノ」とし、後者においては「漁場ノ相連帯スルモノハ必ス一組トナスヘシ」と規定した[1]

これにより漁業組合が従来の村に代わって地先漁場の漁業権の主体となった。この準則は組合に広域的な漁場の設定と共同管理を義務づけ、平和的操業と資源確保による長期にわたる安定的生産の維持を目指したものとされる[2]

[註]

明治漁業法

明治34年(1901)4月13日、漁業法が公布される(明治漁業法。施行は35年7月1日)。明治維新期において、旧来の漁場占有利用権が形式的にいったん消滅し、明治政府の免許によって発生すること、また国の免許に際しては旧慣を尊重することが決定されていた。旧慣を尊重することは基本的には変わらなかったが、漁業制度に関連しても法的整備が求められた。これによって、明治漁業法では漁業権が旧来の村に代わって漁業組合に免許されるようになる。また明治中期の町村合併で村が大きくなっていたが、旧村ごとに創立した漁業組合に漁業権を付与し、旧来の事実関係を継承した。
 この漁業法は明治43年に全文改正され、漁業権を物権とみなして抵当権の目的となしうるようにしたこと、組合の目的を拡大して共同施設事業など経済活動への道を開いた(『国史大辞典』)

改正久慈町漁業組合規約

ここに紹介する明治33年に改正を受けた「久慈町漁業組合規約」(国文学研究史料館蔵)は、明治19年9月8日に県が認可したものである。設立時の名称は久慈村漁業組合、明治27年2月に久慈村の町制を施行とともに改称。なお規約改正を必要とした事情は不明である。

改正出願日は明治33年3月31日、出願者は組長の荒川友重、知事の認可は4月5日。全文はこちら 明治三十三年改正 久慈町漁業組合規約

規約は全90条からなる。以下、概要を示す。

第1〜4条は、総則に相当する部分である。第4条において、組合事業として(1)漁具・漁法の改良(2)魚付林の保護(3)漁場の調査など16項目をあげる。
 第5〜第45条は会の役員・組織に関する規定。
 第46〜52条は組合員に関する規定。組合員の資格要件については、第51条に「本組合設置の地に於て漁業をなすものは必ず本組合に加盟すべし」とあるのみ。
 第53〜55条は「漁夫の雇入及解雇」「漁夫保護及奨励」に関する規定。
 第56条は正月二日の出船初めに関する規定で、詳細である。
 第57条は、洪水時の組合員動員に関する規定。河口に荷揚げ場をもつ久慈町ならではの規定である。
 第58条に漁季節の規定。八坂網・揚繰網・鰹釣・流網・釣漁・秋釣漁それぞれに定める。第59条では八坂網・揚繰網・鰹漁において雇用する漁夫の漁従事期間を規定。
 第61・62条は遭難者の救助に関する規定。
 第63条は漁獲金の船主と漁夫の配当法。
 第64〜第67条は、最高漁獲者への賞與など漁業者・漁夫への褒賞。
 第68条は網乾場・粕乾場・海草乾場・船引場の位置、廻船の取扱。なお他浜からの「廻舟」については、本条を適用するとあるのみで、こちら 「幻の水木漁港」に示された明治31年時点における他浜からの「廻船」の入港負担金についての記述はない。
 第69条は建網・手繰網・八坂網・採鮑などの漁場区域。
 第71・72条は鮑増殖のための大きさ、捕獲時期・漁具・漁場を制限。
 第75〜84条は、規約違犯者の処分、第85〜89条は役員の懲戒処分規定。

県による組合規約違反者への罰則

改正前の明治19年認可の規約は現在のところ不明である。しかし一部を窺うことはできる。

明治26年(1893)8月5日、茨城県は漁業組合規約に規定された制限禁止条項に違反したものに対し次のとおり処罰することを定めた[3]

漁業組合ノ設ケアル沿海ニ於テ漁業、採藻ヲナスモノハ、其地組合規約ノ制限禁止ノ条項ヲ遵守スベシ。犯スモノハ三日以上十日以内ノ拘留ニ処シ、又ハ一円以上一円九十五銭以下ノ科料ニ処ス

として各漁業組合規約中の制限禁止条項をあげる。久慈町の旧規約中で該当する規定は次の通りである。

第十二条
 第一項 他ノ船持ニ於テ雇入レタル水夫ヲ猥リニ使用スルヲ禁ス
 第二項 水夫ヲ新ニ雇入レントスルトキハ先雇主ニ於テ故障ナキ證明書ヲ点検
  シ然シテ雇入ルモノトス
第二十一条 鮑ノ蕃殖ヲ図ル為メ左ノ制限ヲ設ク
 第一項 鮑ノ長サ三寸以下ノモノヲ捕獲セザルモノトス
 第二項 捕獲ノ季節ハ毎年陰暦四月ヨリ同九月迄トス
 第三項 海草ハ鮑ノ食物ナルテ以テ当業者ハ刈採リヲ禁ス
第二十三条 採鮑漁具ハ従来ノ法ニ改良ヲ加フルハ妨ナシト雖トモ濫リニ変更シ
 テ妨害ヲ與フへカラス
第二十四条 採鮑漁場区域ハ久慈村地先 東ハ陸地ヨリ大島磯地先迄貳千間/南
 ハ横根磯地先迄貳千間
第二十六条 潜水器械ハ一切使用スルヲ禁スルモノトス

第12条の水夫雇用について、改正規約では第53条を参照。第21条〜26条の鮑漁の制限については、改正第69・71・72条を参照。比較すると大きな変更点はない。

附図 久慈浜の磯

規約の第69条と72条に大島磯とドウガン(どおがん)磯の名があげられている。参考までに久慈浜の磯の位置図を次に掲げる。『久慈漁港史』に収められた図「往年の釜坂沖」を加工した。

附 その後の久慈浜の漁業組合

明治漁業法の公布により久慈町漁業組合は明治35年に衣替えをする(明治35年10月26日申請、同年12月8日茨城県知事認可)。その後、昭和13年12月に保証責任久慈町漁業協同組合、戦時下の昭和18年3月公布の水産業団体法による久慈町漁業会、戦後昭和24年水産業協同組合法によって久慈町漁業組合(7月18日設立認可)となり、昭和27年3月に久慈浜丸小漁業協同組合が分離する[4]