幻の水木漁港

明治31年(1898)3月、茨城県の水産巡回教師が多賀郡坂上村水木に漁港調査を命じられた。その調査復命書を紹介する。

この調査復命書は『茨城県水産誌 第五編』に収録されているものである。編者は復命書の前に「漁港適否調査」と見出しを付し、次のように前置きをしている。

漁港適否調査 明治三十一年三月漁港調査のため多賀郡坂上村に出張を命ぜられたる水産巡回教師門脇捨太郎の調査復命書は左の如くである。

港というと、防波堤に囲まれて、船は岸壁に直付けし荷揚げできる、そんなものを想像する。日立市域でいえば久慈・河原子・会瀬・川尻のそれである。それは現代の風景である。戦後の漁港漁場整備法(1950年5月)以降、給油・製氷・荷捌き所なども順次建設され形成されたものである。それまでの港は、現在の日高漁港(日立市田尻町6丁目地先)をイメージすればよいだろうか。

この時期の漁港の役割はこの調査復命書が描いているように第一に遭難からの避難所である。避難所として漁港が備えているべきことがここには書かれている。

左:復命書に収められた図。文字は筆者  右:現在 Google マップ より

調査復命書の大意

現状

水木にある遠凪瀉湾(遠くまで波がなく、かつ遠浅で入り江になっているところ)は、久慈郡と多賀郡の境にあって、深さは3メートルから9メートル。湾は東にひらき、背面は高い台地に囲まれ、激しい西風であっても湾内は静かである。かつ湾の両端は突きでていてその先に大きな岩礁があるため高波を防いでいる。

改良法と効果

この大きな岩礁に石垣を築き防波堤とし、湾内の小さな岩礁を取り除けば安全な漁港となり、百トン積みの帆船なら20艘余、漁船なら300艘を入れることができる。

難点は背面(西側)は高台になっているため漁船を引きあげる余地がないことである。高台を開鑿し改良すれば茨城県の中央に位置するこの地は「漁船の一大ステーション」となるであろう。

工事費

この地から2.2キロメートル南にある久慈浜は河口での漁船の出入に不便であるにもかかわらず平磯から福島県四ツ倉などの廻り船が千二百、千三百艘も入港する。これらの船が水木漁港に入ることになり、入港料をとれば工事費を十数年で回収できる。

  1. *廻り船:廻船(かいせん)ではなく、まわりぶね。廻り船を『日本国語大辞典』などで調べたが、見つけられなかった。「復命書」が言うようにこの地の方言なのでしょう。

廻り船の負担

遭難を避けるため、あるいは鮮度を落さないよう漁獲物を近くの浜に荷揚げするため、漁船は港に入る。そのとき久慈浜では慣習として他の浜から来航した漁船–廻り船に久慈浜で売却した漁獲金の内一割は船宿、三分は仲買の手数料、二分は漁業組合に支払うことを求めている、との記述がある。こうした「慣習」が記されることはほとんどないので、この部分は貴重な記録である。

実現しなかった水木漁港

漁業につきものの難船事故を防ぐには、港の修築は必須である、と巡回教師は強調し、この復命を終える。しかし提案にとどまり水木漁港は実現しなかった。その理由はいろいろ考えられる。(1)背面の高台(標高12メートルの崖地)の開鑿もふくめ工事費の捻出、予算化ができなかった。(2)廻り船からの収入を失う久慈浜の反対があった。(3)古くからの集落から遠くなる水木浜の反対。いずれも想像の域をでないが。

水木浜にはこののち明治40年(1907)頃に漁業組合によって50メートルの防波堤(突堤)が築かれるが、それ以上の整備は進まなかった(こちら 史料 坂上村漁業沿革


テキスト化にあたって

[本文]

漁港調査の命を奉じ二月十日県地[県地方課の略ヵ]出発、坂上村大字水木の海岸に出張して遠凪瀉湾の調査を遂げたるに、同湾の位置は同郡の南端と久慈郡の北端との境界線に沿ふたる所にして、湾内の深さは二三尋より五六尋に至る。而して湾口は東微南向ひ、湾の背面は一群の高丘を以て囲繞せられ、縦令如何なる激烈の西風起るに際するも湾内静穏にして危険の恐なく、且つ湾の両頭端は突出して、其地先水面には二個の大礁ありて、南風の時は大島磯の為め高浪を防ぎ、北風の時にはひたしま磯丶丶丶丶丶にて怒濤を挫き、随て湾内の水激することなく、而して此二個の盤礁は干潮の時露出すると雖満潮の時は其形体を没するが故に、若し此二坐の暗礁に石垣を築き波除堤と為さば満潮時の大風と雖漁船の碇繋に便なり。併しながら湾内には三四ヶ所に小礁の存するが故に、之を排除するにあらざれは安全の漁港と謂ふ可からず。若し之れを除去せば凡そ百噸積の帆船二十余艘を碇舶せしむることを得、又漁船ならば三百艘を容るゝに足る。只惜むらくは湾の背面は高丘にして、其海岸に漁船を曳揚ぐべき余地なきが故に高丘の幾分を開鑿するにあらざれば完全の漁港と為すを得ず。抑も本湾は本県沿岸線の中央に位するが故に之れを修築せば最良の漁港となりて、各浜の漁船集合して漁船の一大ステーシヨン丶丶丶丶丶丶となるの見込あり。現に該湾より二十町以南にある久慈濱は河口に土砂を游塞して漁船の出入に便ならざるにも拘はらず、昨三十年度に於て寄来せし漁船は千二、三百艘位にして此漁船は重に鰹鰮を営む為め方言廻り船と唱へ、南は平磯港、磯浜等より北は川尻、平潟、大津、小名浜、久ノ浜、四ツ倉等の漁船なりとす。斯の如き事情あるが故に前期遠凪瀉湾を改築して漁港と為さば、漁船の来集多きのみならず築港費の如き之れを償ふの途なきにあらず。元来久慈濱に於ては他浜より来航せし漁船に対し其漁船が賣却せし漁獲金の内一割は船宿、三分は仲買の手数料、二分は漁業組合に於て徴収するの習慣あり。故に今築港費の償却を図るには他濱より来港する漁船に対し右の習慣に基き入港料として漁高金の幾割を徴収することゝせば十数年の後には築港費を償却するは敢て難きにあらざるべし。殊に本県海岸は一帯の砂濱にして港湾の出入に乏しく、偶々湾形を為せる所なきにあらずと雖、概ね岩礁の出没するありて漁港たるの用を為すの地なり。故に一朝暴風の起るに際せば海岸は忽ち狂瀾怒涛の湧起すること甚しく、為めに漁船の出入に困雛を来し、屢々漁船の覆没を見る。現に昨三十年度に於ては十七艘の難破船ありて、漁業の発達を圖らんと欲せば須らく先つ漁船出入の危険を避け、漁民をして其生命を安穏ならしむべき漁港の修築なかる可からず。是れ本湾の修築は漁業上最も必要なる所以なりとす。