史料 坂上村漁業沿革
1940年
茨城県多賀郡坂上村は、明治22年(1889)町村制施行にともないそれまでの水木・森山・大沼の3ヶ村が統合して誕生し、50年後の昭和16年(1941)2月に多賀町に編入し、坂上村は消失する。「坂上村漁業沿革」として合併直前の昭和15年にまとめられたものが昭和18年刊行の『茨城県水産誌 第五編』に収録されている。これを紹介する。
本史料は、坂上村といっても漁業がなされているのは、水木のみであるので、実質水木の漁業沿革である。
史料に述べられていることを年表風にまとめてみる。なお[ ]内は『茨城の水産』(昭和11年版・15年版 茨城県商工水産課・茨城県水産課)による。
寛延3年 (1750) |
水木村戸数338戸のうち漁業者は135戸、約4割。鰹流網漁が中心、漁夫として80人が出稼ぎ者 |
明治28年 (1895) |
干鮑の製造が始まる。その後製造者増加。明治30〜32年採鮑に潜水器を使用。最盛期には安房(千葉県)から潜水夫や素潜りの出稼者がある |
明治35年 | [12月11日坂上村漁業組合設立] |
明治38年 | 組合員38人、船主14人、小舟25隻、鮮魚卸商3人[] |
明治45年 | 築堤事業[船溜 防波堤(突堤)約50m 明治40年頃漁業組合にて施行、昭和4年度村費修理] |
大正2年 (1913) |
6人の船主が初めて発動機船(10〜15馬力)を建造
発動機船大型化、しかし港が「不完全」のため久慈浜に船をおいて出漁。港の改築をあきらめる。廃業者2名 |
昭和8年 (1933) |
遭難により一人廃業。こののち発動機船はなくなり、小舟のみとなる |
昭和9年 | [漁業経営者数:本業37・副業24 漁業労働者数:– 漁船数:動力付小型船8・和船53(釣船32・其他21) 主要漁業:小舟漁・採鮑 海産製造業:製造戸数3戸・従業員数38人・主な製品鰯搾粕及び魚油] |
昭和10年 |
小型発動機船購入者1人、しかし昭和13年に廃業 |
昭和13年 |
小舟一本釣り15人、鮑裸体22人、鰯粕製造業者2人、鮮魚仲買人4人。「極めて小漁業」 |
昭和14年 | 小型発動機船購入者一人、久慈浜から出漁
鮑・タイ・ヒラメ・タコなどを漁獲。鰯粕製造を行なうも原料は久慈浜から入手 |
水木浜全景 時期不詳 『日立の絵はがき紀行』より
水木浜海水浴場 時期不詳 明治45年設置の堤防が見える 『日立の絵はがき紀行』より
史料目次
- 明治維新前の漁業
- 明治維新後の漁業
- 漁業組合法制度実施
- 漁業協同組合設定後
史料について
- ◦掲載誌:『茨城県水産誌 第五編』
- ◦編纂時期:1940年6月8日
- ◦編纂者:多賀郡坂上村漁業組合
- ◦タイトルについて:掲載誌の目次には「坂上村漁業史沿革」とあるが誤植と考えられ、本文中のタイトルを用いた。
テキスト化にあたって
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- ◦[ ]は引用者
[本文]
七、坂上村漁業沿革
昭和十五年六月八日現在多賀郡坂上村漁業組合漁業史(同組合編纂の)を掲ぐれば左の如くである。
明治維新前の漁業 寛延三年[1750]当時は民家三三八戸あり。農業六割、漁業四割、即ち漁業戸数は一三五戸ありて、舟庄屋菊池文次衛門氏共の職にあり。尚安永三年[1774]頃は舟庄屋佐藤善次衛門氏たり。其の後明治維新前頃は内山八郎衛門氏舟庄屋の職にあり。当時の漁業の種類は鰹長し縄舟等にして、舟は五丁ばり五隻、七丁ばり十隻、九丁ばり一隻、其の他三丁ばり等を合すれば二十五隻ありと云ふ。漁獲高は八百円位ありて漁業盛んなりと、其の最盛期には漁夫として出稼に来る者八十名以上ありと聞く。
明治維新後の漁業 明治となりては舟庄屋の制度廃止となり、其の後は任意組合にして組合員数二十八名ありと云ふ。組合長は内山八郎衛門、菊池三之亟氏、順次其の職にありて組合の維持は文一役と云ふ者がありて沢幡純之助氏其の職にあり(文一役は所謂現今の事務員と同じき職なりと云ふ)賦金を徴収す。其の徴収方法は漁獲物に対しては全部糶賣にして水揚高の三分を徴収し、共の徴収金額を以て組合の維持をなせりと云ふ。港湾は年一回は必ず全漁業者が義務にて磯掃除をなせり。明治二十八年には佐藤長之介氏干鮑の製造をなし、其の製造高四千貫、当時は百匁十二銭五厘、漸次二十五銭位となれり。其の後干鮑の製造を営みたるもの赤津善平、佐藤伊介、佐藤孫一郎、内山庄之亟氏等なり。三十年頃より三十二年頃迄は潜水器を使用し盛んなりき。其の最盛期には房州方面より四十人位の潜水夫、裸体夫出稼に来たり。又二十八年には内山寅松氏、大葉ノ浦負をなし盛んに壁の漆喰材料を製造し、其の後内山佐平氏相続をなし製造し居れり。
漁業組合法制度実施 漁業組合法発布せられ、当村に於ては明治三十五年十月二十一日付を以て坂上村漁業組合設置の件を菊池三之亟外四名にて申請し、仝年十二月十一日茨城県知事より設置の件、認可せらる、明治三十六年二月二十四日役員選挙の結果組合長に菊池三之亟氏、理事内山耕造、佐藤欣一郎両氏当選となる。当時の組合員は三十八名たり。主なる船主は内山八郎衛門、永井定次郎、沢幡丹次郎、内山新次郎、菊池三之亟、大内貞介、内山長兵衛、佐藤丈助、河村久吉、神山耕八、佐藤謙蔵、佐藤竹次郎、佐藤新十郎、佐藤薫氏等、鮮魚卸商内山庄之亟、佐藤新十郎、菊池佐十氏、小舟漁船二十五隻なり。明治三十六年五月十五日には茨城県指令第二七八〇号を以て地先専用漁業権取得方法を認可せられ、其の漁業権の漁獲種類は鮑、搗布、鹿角菜、大葉、鹿角菜、和布、石花菜、海苔等にして当時は鰹、鮪、秋刀魚、鮑其の他雑魚等を合して漁獲高四万二千二百円以上ありて、他より出稼に来たる者百人以上を算し盛んなり。而して組合の予算は九百五十円たり。
明治四十三年より大正元年迄は佐藤丈助氏組合長として其の職にあり、毎年の漁獲高は約五万円、組合予算一千二百円、明治四十五年には参千円の追加予算を決議し築堤事業をなす。大正二年には内山新次郎氏組合長となる。
同年始めて発動機船建造せらる。其の船主は沢畑政蔵、大内小次郎、佐藤竹次郎、蛭田丑松、菊池澄、鈴木澄三氏等なり。最初は其の馬力も微々たるものにして十馬力乃至十五馬力なり。当時小舟一本釣漁業、鮑裸体漁業合せて三十隻あり、発動機船も漸次五十馬力となる。馬力を増加するに随ひ船舶の出入も港湾不完全のため思はしからず、久慈町久慈浜より出漁の止むなきに至り、種々組合協議したるも場所悪しきため改築堤するを得ず。ために蛭田丑松、佐藤竹次郎氏等は二年位にて廃業、沢畑政蔵、菊池澄、大内小次郎氏は大正九年に廃業、鈴木澄三氏は昭和八年の暴風雨にて不幸難波に遭ひ経営中止となる。
大正二年後昭和五年に至る組合長は菊池万蔵、佐藤七之介、佐藤竹次郎、澤畠松太郎、大内小次郎、内山千太郎氏等順次其の職にあり。其の間の漁獲高及組合豫算は
大正二年 | 漁獲高 | 四七〇〇〇円 | 予算 | 一七八九円 |
大正三年 | 〃 | 四八五〇〇円 | 〃 | 一七〇〇円 |
大正四年 | 〃 | 五八二二〇円 | 〃 | 一七八一円 |
大正五年 | 〃 | 五二四〇〇円 | 〃 | 三二六五円 |
大正六年 | 〃 | 五二四九〇円 | 〃 | 四二〇一円 |
大正七年 | 〃 | 三二七〇〇円 | 〃 | 一九三二円 |
大正八年 | 〃 | 四二二〇〇円 | 〃 | 一五四五円 |
大正九年 | 〃 | 三四二五〇円 | 〃 | 二三九四円 |
大正十年 | 〃 | 二五一〇〇円 | 〃 | 一一二五円 |
大正十一年 | 〃 | 二三五〇〇円 | 〃 | 一一四三円 |
大正十二年 | 〃 | 二四一一〇円 | 〃 | 五九二円 |
大正十三年 | 〃 | 二四九六五円 | 〃 | 三〇〇円 |
大正十四年 | 〃 | 二三六〇〇円 | 〃 | 三〇〇円 |
大正十五年 | 〃 | 二六五〇〇円 | 〃 | 四四二円 |
昭和二年 | 〃 | 二六九〇〇円 | 〃 | 四一五円 |
昭和三年 | 〃 | 二六八五〇円 | 〃 | 六三五円 |
昭和四年 | 〃 | 二八三〇〇円 | 〃 | 六三五円 |
昭和五年 | 〃 | 二九三〇〇円 | 〃 | 四〇〇円 |
昭和六年 | 〃 | 二八九〇〇円 | 〃 | 四〇〇円 |
昭和七年 | 〃 | 二九一〇〇円 | 〃 | 四〇〇円 |
昭和六年内山佐平氏組合長に選挙せられ現今に至る。昭和八年鈴木澄三氏漁船難波後発動機船なく小舟のみにて、昔日の面影更になし。其の後昭和十年助川安三郎氏小型発動機船購入し、鯛其他雑魚漁業を営みたるも昭和十三年中廃業、小舟一本釣漁業者間十五名、及鮑裸体漁業者二十二名、鰮粕製造業者佐藤五郎、根目沢丑之助両氏及鮮魚仲買商佐藤五郎、根目沢丑之助、瀬谷捨吉、内山千太郎氏等あるのみにして極めて小漁業となる。昭和十四年中内山千太郎氏五馬力発動機船を購入し経営しつゝあるも、当村は漁港悪しきため久慈浜より出漁し居れり。昭和十四年中の漁獲高は鮑、鯛、ヒラメ、タコ等を合して僅かに九千九百六十五円、鰮粕製造高二萬壱千百参拾円にして、鰮粕原料鰯は全部久慈濱より購入し居る状況なり。
漁業協同組合設定後 昭和十四年五月九日組織変更の件、申請し同年七月十五日茨城県指令水第一〇二四九号を以て認可せられ、同年八月三十日漁業組合組織設定登記申請を了し、組合員総数七十一名、出資総額三千二百十円にして目下物資の共同購入をなしつゝありて、今後は共同販賣事業をなさんとし、着々計畫中にて組合発展のため努力しつゝあり。