史料 関本炭礦と共に20有余年

炭礦の社会史研究会

閉山後の関本炭礦の社宅とズリ山 1977年撮影

関本炭礦(関本炭鉱)は茨城県北茨城市関本に所在した茨城県内では中規模の炭礦である。1939年(昭和14)2月、伊藤甚蔵を社長に設立された関本炭礦株式会社(本社東京市日本橋区茅場町)が開発に着手。採掘権登録番号133、鉱区面積154,900坪。1941年に2万4千トンを出炭し、44年にサハリンから朝鮮人従業員72人を受入れた。1949年12月全鉱夫345人、坑内夫数202人。51年以降の出炭は7万トン台を推移する。閉山前3ヶ年平均出炭量は9万9千トン。1962年に改正された石炭鉱業合理化臨時措置法による整理促進交付金対象の認定を受け69年8月31日閉山。稼行期間31年。

社長の伊藤甚蔵は東京市に1892年(明治25)生まれ。石炭問屋を営む。1930年広野炭礦、その後丸新炭礦、三和炭礦(いずれも福島県)、そして1939年2月関本炭礦の経営に参画した(北茨城名士録)

関本炭礦の閉山の経過については こちら 近現代 の炭礦の項に 史料 関本炭礦閉山に伴う労組大会議事摘録 のほか3本の記録がある。また『新聞記事にみる茨城地域の炭礦と社会 昭和編3』に収録された3本の記事によって知ることができる。

資料について

凡 例

  1. [1]縦組を横組にしたほか表記上の変更はない。発言者のイニシャルもそのままである。
  2. [2]民族差別意識があらわれた発言があるが、この時期における日本人の意識および日本社会のありようを検証できるよう削除することなく残した。

関本炭礦と共に20有余年(座談会その1)

関本炭礦と共に20有余年(座談会その2)

関本炭礦と共に20有余年(座談会その3)