史料 関本炭礦と共に20有余年
閉山後の関本炭礦の社宅とズリ山 1977年撮影
関本炭礦(関本炭鉱)は茨城県北茨城市関本に所在した茨城県内では中規模の炭礦である。1939年(昭和14)2月、伊藤甚蔵を社長に設立された関本炭礦株式会社(本社東京市日本橋区茅場町)が開発に着手。採掘権登録番号133、鉱区面積154,900坪。1941年に2万4千トンを出炭し、44年にサハリンから朝鮮人従業員72人を受入れた。1949年12月全鉱夫345人、坑内夫数202人。51年以降の出炭は7万トン台を推移する。閉山前3ヶ年平均出炭量は9万9千トン。1962年に改正された石炭鉱業合理化臨時措置法による整理促進交付金対象の認定を受け69年8月31日閉山。稼行期間31年。
社長の伊藤甚蔵は東京市に1892年(明治25)生まれ。石炭問屋を営む。1930年広野炭礦、その後丸新炭礦、三和炭礦(いずれも福島県)、そして1939年2月関本炭礦の経営に参画した(北茨城名士録)。
関本炭礦の閉山の経過については こちら 近現代 の炭礦の項に 史料 関本炭礦閉山に伴う労組大会議事摘録 のほか3本の記録がある。また『新聞記事にみる茨城地域の炭礦と社会 昭和編3』に収録された3本の記事によって知ることができる。
資料について
- ◦資料名:社内報 せきもと
- ◦発行所:関本炭礦
- ◦発行年:座談会その1 第13号 1962年9月15日
座談会その2 第15号 1962年11月15日
座談会その3 第16号 1962年12月15日
座談会その4 第17号 1963年1月15日
凡例
- ◦縦組を横組にしたほか表記上の変更はない。発言者のイニシャルもそのままである。
- ◦民族差別意識があらわれた発言があるが、この時期における日本人の意識および日本社会のありようを検証できるよう削除することなく残した。
[本文]
関本炭礦と共に20有余年(座談会その1)
- 司会者 社内報創刊一周年記念号が発行されるのを機会に、関本炭礦の創立当時から大東亜戦争、統制時代と幾多の困難を乗りこえて、こんにちの炭礦を育て上げられた経営首脳部や先輩たちの功績をたたえ、且つ又現在の炭界の危機を切り抜ける決意を一層堅くするかてにもしたいと考えまして創立後、間もなく入社された方々にお集り願い、当時のお話をしていただくことに致しました。まずDさん、関本炭礦が富士ヶ丘(旧山小屋)に坑口を卸した昭和14年当時のもようからお願いします。
- D 私が入社したのは17年でYさんの方が一年早いんですが。
- Y 一番古いのはやはり加古所長ですよ。鳳城炭礦をみながら当社の技術顧問という形で本坑の開さくをやられたんです。その当時の所長は故人になられた伊藤新治専務でした。
- 司 伊藤専務が所長だった頃は大変やかましい人だつたそうですね。
- Y 専務時代しか知らない人には想像もつかない位で石炭や釘が落ちていると拾つて歩いた姿が今でも目に浮かびますね。私なんかもその頃は随分テーブルを叩いてどなられたものです。
- D 釘といえば創業当時はそれこそ何もなくて大変な苦労をしたようですね。倉庫へ行けば大体必要なものがあるという今とは違い、話をしてもウソだろうといわれるかもしれませんが、旋盤やボール盤などは勿論なくて、一本のネジ切りにしてもフランジの穴あけにしても、いちいち勿来まで背負かごで運んでいた。だから半日、悪くするとこんなことで一日かかることもあつたようです。
- Y そうです。スパイキなんかその都度5本10本と勿来の古物商から買つてきて使つたんですからね。
- D それにおとらず苦労したのが人間ですね。当時は労働者の移動を防止するため『雇入制限令』という法律があり、働らく者も自由に好きな会社に転職はできなかつた。そんな時代に開坑したんですから、モグリの人も沢山いました。
- Y そのうち職業紹介所の役人が調べに来て『こんな炭礦はつぶしてしまう』なんておどかされましてね、当時の伊藤所長と日立の役所に日参し、やつとかんべんして貰いました。
- 司 それは16―17年の頃ですか?その当時のもようをもう少し具体的にお願いします。
- DY これは16年のデーターですが、当時の従業員は男一〇七人、女二一人、事務員一四人で出炭が年に二万四千屯、総売上げが三万円足らずでした。
- 司 その頃の労働時間は大分長かつたそうですが。
- DY 二交替勤務で一番方は朝五時に入坑し、あがるのが三時か四時でしたから9時間も10時間も働らいたんですね。それで賃金は一方平均3円76銭でした。
- 司 女の人も坑内で仕事をしたそうですね。
- Y 労働基準法なんてなかつた頃ですから、奥さんが旦那さんの後山をつとめ月に50円位働らいている人もありました。
- 司 本線の巻はどれ位の大きさでした。
- O 50馬力です。今度ここの本線に設備されたものの10分の1ですね。
- 司 駅まで運ぶのは?
- D 勿来駅へトラツクで出していましたが、いろいろ問題があり、夫婦塚附近の山道を切り開いて関本(今の大津港)駅に運ぶことになりました。内機の平野正次さんなんかがその頃トラツクの運転で張切つてたもんですよ。
- 司 その頃の採炭方法は?
- O ゾクに云うムジナツポリで導火線発破を少し使う位のツル掘りでした。
- 司 社宅の数はどれ位?
- Y 18年に約80戸でした
- D 話が前後しますが、今の伊藤社長が労務者募集に行つたことがありましたね。
- 司 社長がですか?
- D そうなんです。応召につぐ応召で人手が減る、一方軍需省の命令で石炭の増産は一日もゆるがせにできない。こんな状勢から勤労動員署(職業紹介所の変身)が勤労報国隊というのを編成して炭礦に送りこんだんです。ところがこの隊員には床屋、呉服屋、米屋から料理屋の親方までまじつていて、炭礦も知らず労働もしたことがない人が多かつたんですから使うのに困りました。こんな話を聞いた社長が「ジヤ俺も行つて集めてみよう」と二日がかりで笠間方面を頼んで歩いたんです。
- OT この間、笠間の石切場へ行つたら『戦時中は大変お世話になりました』なんてお礼を云われましたがその人達ですね。
- D きっとそうですよ。
- 司 紙面の都合もありますので本日はこれ位に。有難うございました。
- 司会者 今回から機電のNさんにも出席していただきます。
前回は山小屋にココの声をあげた関本礦開拓時代のお話をしていただきました。本日はひきつづき現在の関本坑開坑当時のことをお話願います。 - N 当時ここのことを本坑に対し新坑と呼んでおりましたが、新坑は本坑から職員が出向きの形で作業をしていました。横田嘉光さん浪岡喜一さんのお父さん方や古川静さんなどがその頃本線の掘進をしてたんです。後山をしていた横田さんの娘さん姉妹があんまり似ていて、いろいろ面白い話が残つています。
- Y そうそう、現場係員が後山の娘さんに、『昨日のつづき、ここをこうして』とか何とか作業の指示をしたところ、さっぱり話が通じない。よく聞いたら、昨日出たのは姉さんの方で、その日は体の具合が悪くて妹が代番に出ていた。あんまり似ているので現場係員はまさか姉と入れ変つた妹とはわからなかった。(笑)
- 司 坑口をおろした当時この辺の地形はどんなでした。
- N 今の社宅街はクヌギ林か畑、坑口のわきを川が流れていました。
- D 選炭場のあたりは竹やぶにつつまれた畑でした。
- Y コンプレッサーや扇風機室のある辺は十何尺か埋め立てたんですよ。
- S 私が入社したのは21年ですがその頃昔の山神社に橋を渡つてお参りしたのを覚えています。
- 司 道路はないし、資材なんか運びこむのは大変だつたでしようね。
- N 50㏋の本線巻やコンプレツサーを運んだときは、ヒザまで埋まる田んぼでね、附近の杉を切り倒し田んぼに並べ、その上にレールをしいて台車で運びましたが今考えるとよくやったものだと思います。
- Y その時Nさんは初めて社長に会われたんでしよう
- N あの話ですか? あんときは全くたまげましたよ。私が50㏋の組立て作業をみていたところ、あれこれ口出す人がいたんですが、こっちはいろいろむずかしい仕事で頭にきていたときだし、「余計なことをいわんでくれ」つて言つたんですよ。後で聞いたらその人が、はるばる東京から開坑の模様を見にきた社長さんだというわけです。
- Y みんなあとで聞いて、「Nさんヤツタナ」とびっくりしたんですよ。
- N そのころでしようおすもうさんが動員されて勤労奉仕にきていたのは。
- N 三根山なんかがきてましたね。弁当におハチを持つてきてた。
- 司 山あり川あり、林あり田畑あり。それがこんな立派な事業所や住宅地に変つたんですから、当時からおられる人達は昔を想出すと感慨無量というところですね。
- Y 事務所を東西に走るあの道路の設計にはこんな話があります。ある日坂本部長が畑や原つぱに縄をひいて道路の位置をきめていた。通りかかつた故伊藤専務が「オイ坂本君!こんな広い道路を造ってどうするんだ!」とドナツタそうです。ところが今になつてみるとこれでも狭い位ですからね。
- 司 戦争も末期に近づいて食糧事情も大分悪くなつたことでしようね。
- Y 高帽山からとつてきたアザミにお米を少々入れてたべたりしてね。
- U 私は樺太から転換してきたばかりでしたが、サツマイモが半分以上はいつているご飯でした。
- Y 塩がなくて平潟まで海水を汲みに行きニガリの入つたそれこそ塩辛い汁を最上のものとしてたべました。
- 司 お酒なんかは?
- N よくアルコールやバクダンなどご馳走になりましたが、本坑へ帰る山道も苦になりませんでしたよ。ゴキゲンでね。
- D 食糧事情は悪かつたが炭礦は衣料をはじめ、いろいろの特配物資があつて、ほかの勤め人からはうらやましがられましたね。
- 司 その頃用度はあつたんですか。
- D 水野という人が委託でやつてたんです。会計直営になつたのは高橋朝徳さんの妻君になつたマツエさんが入社したときからだと覚えてますが18年頃でしょうか。
- 司 鮮人労務者はどれ位いたんですか。
- U 本坑では3―4人だつたでしよう。19年の9月に樺太から72人が転換してきました。そのとき新坑の日本人労務者は30人位でした。終戦も近づいた20年頃二回に亘り50人位動員されたんですから相当な数ですね。
- 司 いろいろ珍談もあつたでしようね。
- U 樺太からきた鮮人は前にいた炭礦が数倍大きく設備もよかつたので、関本をバカにして困ると現場係から苦情が出ましたね。収容する飯場できていなくて半日そとにならばせておき壁をぬつてやつと収容した。
- 司 空襲や艦砲射撃を受けたそうですが。
- UYD 大日本炭礦、大津町、駅など被害を受けましたが当礦は大丈夫でした。でも交替で不寝番につくなど大変なさわぎでした。
- 司 バスは勿論、ろくな交通機関が無かつたその頃の交通は。
- D 社長がノーパンクタイヤなんて名前だけはいいが代用品のタイヤをくつつけた自転車で、毎日販売にせつせと駅へ出かけたのが印象に残ってますよ。
- U それは社長が戦災にあつて新坑に移られてからでしよう。それまでは東京から来られるときは駅から歩いたものです。所長なんかもゲートルを巻きズツクのカバンを下げて、今専用線になつている道を毎日歩いてかよつたものです。
- 司 その頃の出炭はどれ位でした。
- S 19年度は月平均出炭が二千六百屯、人員は二四〇人です。
- 司 その頃になつても設備や資材は不足していたようですが、資材で一番かねがさになる坑木について。
- U 最近の使用量は月に約三〇〇立方米(千百石)で二ヵ月分位貯木を持つていますが、当時はその他の資材と同じように二―三日分なんていう有様でした。もつとも会社で坑木山を持つておりましたから、「それ坑木がない」となると、採炭夫をつれて会社の山へ行き、かついできたものです。こんな状態が25年頃までつづきました。
- N なにしろ何もないのでなんかあるとすぐ借りにやらされましたね。18年頃でしたか安全灯に使う硫酸を借りてこいと命令された。「モウ外聞が悪くて行けないからカンベンして下さい」と言いましたら、所長が「そんなら手土産を持つて行け」と大きなヒラメを買つてもらった。これならばとよろこび勇んで借りに行つたことがあります。
- 司 “よろこび勇んで”はよかつたですね。その当時は「黒ければ売れる」という時代でしたね。
- D そうそう、こ張していうと選炭というのは、自分のタキ料にする良い炭をより分けるというような感がありましたね。それでも当社は非常に良心的でした。ひどい炭礦はズリ山の黒いところをまぜて、公称カロリーで売つていたところもありましたね。
- 司 貨車積はどんな風に。
- U 駅の西側に四坪程の小屋があり、運輸係が詰めていました。よく職員は日曜返上で貨車積をやつたもんです。
- 司 所長が最近『みんなタガがゆるんでいる。もう少し俺が憎まれ口でも叩かないと、この危機は切抜けられないぞ』なんていつとられたが、やはりその当時のそれこそ必死な会社造りの歴史が心の支えとなっておられるのでしょう。
- 大分時間も経過いたしましたので本日はこれ位にしいよいよ発展の軌道に乗つた終戦後の模様を次回でご披露して下さい。
- 司 今日は終戦直後あたりから、現在までの関本礦の歩いてきた道や思い出に残るできごとなどについてお話願います。終戦から現在までを大きくわけて、23年頃までの終戦後の混乱期。24年から大作開発の29年頃までの一大飛躍期。そして大作坑内出水という災害にあいながらそれこそ労使一体となつてその復旧及び一四〇米卸の開発に奮闘し、今日の関本礦を造りあげた最近の五―六年間を経て、地球上を吹きまくる燃料革命の嵐の中で雄々しく戦つている現在というように区分することができると思います。まず終戦後の思い出ばなしから。
- S 進駐軍が始めてここに姿をあらわしたのは?
- Y 20年の9月でした。その頃私は本坑にいたんですが、ある日所長から大至急新坑(現在の関本坑)に来いという命令がきた。ノーパンクタイヤーの自転車で飛んできてみたら、アメさんが三人きていて『我々のキヤプテンが山越しで本坑へ行つたが、我々はジープなので同乗して道案内をしてくれ』という。言葉や態度が大変丁寧なので安心して車に乗つたんです。ところが道がお不動様のあたりにかかつたら、ヤニワニ隣に乗っていた兵隊がピストルを出してわきつぱらにつきつけましてね。イヤたまげましたよ。車の振動でピストルの先がわきつぱらにゴリゴリさわるし、彼等の話を聞いていたら『コノ野郎を殺してしまえ』といつている。何しろその頃あの道は両側から木がおおいかぶさつて昼でも薄暗いくらいだった。アメさんも山の上あたりからゲリラにでも襲撃されたら大変だと思ったんでしようが、私はいまうたれるかいまうたれるかと全く汗びつしよりになつてました。山道をすぎて本坑に出て人かげが見えはじめたら、やつとピストルをしまつたのはいいがすつかり陽気になって口笛をふき運転している兵隊がハンドルを離して手ばたきをし始め、これまたキモを冷やしましたつけ。
- U その親玉のキヤプテンだがね。鮮人一人を道案内に歩いて本坑まで山越ししたんですよ。ピストルは持つていたけど中々いい度胸だつたですね。
- 司 その後も何回かきたんですか。
- Y ときどききましたね。今運輸にいる菊地さんなんか南方で米人を知つているので結構彼等むきの料理を作つてご馳走したり、言葉も何とか通じちやつたりしてね。
- 司 Nさんなんかも何か思い出があるんでしょう。
- N 今会社にある金庫ですね。あれを検炭にいた野呂さんと東京へ木炭車のトラツクで取りに行つたんですが、『進駐軍がきたら我々日本人はどんな目にあわされるかわからない。ドレイにされるかもしらん』なんていわれてたときですから途中彼等の車にあうとトラツクを道のはしつこの方に寄せて小さくなつてやりすごした。それが一台や二台じやなくてゾロゾロくるんだからとても一日で東京へは着かなかつた。そのときこんな珍談があつた。スレ違いざまにアメさんがジープの窓からウスツペラな指の大きさの紙みたいなものをいくつか投げてよこした。英語で書いてあるけどなんだかわからない。毒でも入つているんじやないかと思つて、そつと持つて帰りYさんに見せたらナントナントそれはチユーインガムだった。
- O その頃この辺じやガムなんかみたことなかったからね。
- 司 今になって話すと笑話だが、その頃はこんな話をしても誰も笑うどころじやなかつたんでしょうね。
- U 本当に今のような世の中は、地方にいる我々は誰一人として想像もしなかつたでしよう。
- T 私もその当時こんなことがありました。残業で遅くなつたんですが、汽車はもう夕方六時頃になると通つていない。家が勿来だつたので専用線から常磐線を歩いて帰つたんですが、トンネルの中を通るときにはそれこそ真暗でテサグリ、そのうちクイか何かに足をイヤツてほどぶつつけた。帰つて靴をみたら復員するとき貰つてきた一張羅の編上靴く半張りがパツクリはがれてしまつている。そのとき思いました『これで俺は一生皮靴をはけないんだなア』とね。
- 司 終戦のときいた鮮人達は何の騒ぎもなく引揚げたんですね。
- Y 会社もこの措置に困つて多賀の進駐軍本部へ出向き、円滑な引揚方について援助を願い出た。ところが『私達に抵抗するため引張つてきた鮮人を今になつて困るからうまく帰す方法をとれは虫がよすぎる』とコンコン皮肉られたが、最終的には進駐軍の命令で鮮人はピツタリおとなしくなつて引揚げる事になつた。
- D 私が10月に復員して三日目でしたが所長によばれ『せつかく帰つたところご苦労だが、鮮人をつれて又九州の福岡まで行つてこい』と命令された。ところが顔も知らない鮮人をつれて行くんですから私もいささか参つた。戦後の混乱期のことですから、計画ではスムーズにゆくことになつていたが、実際はなかなかどうして宿舎、食事など60人あまりの大部隊ですので大変なさわぎでした。途中老婆が一人いないなんて騒ぎがあつたりしてね。彼等が乗船するまで約一週間ぐらいかかつたんですが、食事のために借りた米の分として帰つてから外食券を50㎏分近く送つたのをおぼえています。
- 司 専用線のことについて。
- D 企業の成否の一大要件として立地条件ということがあるが、交通不便な山間にある炭礦として専用線のあるなしは全く大きな問題ですね。大日本の勿来なんかも戦後その敷設に莫大な資金をかけ、いまだにその影響を受けているとか聞いていますが、当礦では戦時中からトラツクによる降炭費(駅まで石炭を出す費用)の大きい点を考え、今の専用線敷設にふみ切つた。道床(鉄道敷地)は関本が持つており実際の工事は常磐炭礦(前々身で山神礦といっていた)がやり、現在共有という形になつている。戦争完遂のため要請された石炭増産に一役になうため突貫工事が行なわれたが実際に開通したのは20年2月26日でした
- 司 終戦後の混乱期から炭礦が独りあるきをするようになつた25年当時までは、はなはだ異色的存在として配炭公団というのがあつたのですが、その方面にくわしいDさんどうぞ。
- D 22年初め石炭監察官という制度ができるなんて話から始まり、炭礦からも人間を送りこんで配炭公団という組織ができあがつた。これは炭礦で生産する石炭を坑所で買取り、消費者に計画的に配給するという統制業務をする組織で…
- 司 というと炭礦では販売の必要がなく配炭公団に送りこめばいいということですか?
- D そうでした。ですから24年の夏ですか統制が撤廃されたときの各炭礦は大変でした。それまでは直接お客さんとつながりがなかつたんですからね。幸い当社は社長がそれまでの販売の経験とつながりを生かされて、よそほどひどくはなかつたんじやないですか。
- 司 このようにして独りあるきを始めたのが25年、その当時別に合理化なんて言葉こそなかったが、生存競争に勝ちぬくため当礦においてもいろいろ能率向上や、当時での近代化がされたようですね。
- Y 出炭も二—三万屯台から25年には五万屯、26年には七万屯台へと大巾にのび大作方面に向かつた29年あたりまではいまの関本礦の基礎を確立する時代であつたといえるんでしようね。
- O 黒いものなら何でも売れる統制時代私は選炭の方にいたんですが、、今の倉庫の所にあつたバースクリーンが唯一の選炭機でした。それが統制撤廃と共によい品質のものが要望され、事務所前に選炭場ができたんです。25年には25屯の水洗機が設置され、31年には更に50屯に増設された。貨車積みも、はね積みなんかでは間にあわず今の立派な万石ができたんですが、その頃は土場積の石炭をはね積みするのに、地盤を三尺も掘つて売つちゃんたんだから無茶だつたですね。今では少しカロリーが落ちてもお客さんから文句はくるし、カロリー引きなんて値引きも要求してくる。
- 司 三回にまとめる予定だつたこの座談会も今回は『躍進する関本炭礦』ということなので話に熱がはいり、予定の枚数では終りそうもありません。
いよいよ坑内の合理化というところですが、残念ながら次回に送りたいと思います。お忙しいところありがとうございました。 - 司 「躍進する関本炭礦」ということで話がはずみ、前回は水洗機が初めて設置された昭和25年頃で話が中断されました。本日はそのつづきをお願いします。上水道が完成したのは26年だつたと思いますが?
- S そうです。それまでは井戸だつたんです。今の九区の水道のところに井戸掘りをし、とうとう水が出なくて大変ガツカリしたことなど覚えております。
- 司 水道が完成し、住宅もどんどん増築され、27年には万石(石炭積込場)ができたんですね。
- N あの高い所に建てたんだから材料を運ぶのに苦労した。巻のロープを二本はりそれにベルトを渡して空中コンベヤーをつくり材料をあげた。
- 司 話が変りますが26年には保安表彰を受けてますね。
- O 全国表彰で金看板を貰いました。その年の災害率は稼働千人当り一・四人で今の10倍ですが、その当時としては立派な成績だつたんです。こんな面でも飛躍的に向上してるといえます。
- 司 25年から28年というとたしか南坑を採炭してたんですね。
- O そうです。27年には鉄柱やV型のチエンコンベヤーなどがはいり、いわゆる切羽機械化の第一歩を踏みだした。
- 司 思い出してもゾツとする話ですが、大作の坑内出水について。
- O 水が出たときの係員が私だつたんです。人災がなかつたのは不幸中の幸いでした。
この辺は地質的にみて、湧水量はあまり多くないはずであり、水に対する経験も警戒心も薄かつたことはたしかです。出水した払の天盤水は二―三日前からだんだん多くなり、働らいていた安斎さんなんか「これが酒ならなァ、いや醤油でも随分もうかるんだがな」なんて冗談を言つていたんです。私が初心者だつたことも案外幸いしたかもしれませんね。虫本副課長にも来てもらい「危ない逃げろ!」とみんなを退避させてしまつた。そのとき柏山さんがノコギリや弁当のはいつている道具袋を取りに行こうとしたんで「そんなもの明日取りに行け!」つてドナツタんです。 - 司 柏山さんはきつと今でもOさんをうらんでますよ。明日取りにゆけなかつたんだから。
- S 平野さんが時計を取りに行つた話がありますね。
- O あの人は当時自動車の運転手から巻の運転に変つたばかりで坑内出水のおそろしさなんかわからなかつたんでしようね。胸ぐらいまで水につかつて巻場まで時計をとりに行き、無事持つて帰つて「アア良かつた。これは息子が買つてくれたんだ」なんて喜んでいたが。
- 司 その時の出水量は毎分四・二立方メートルとか聞いていますが、今うちにある排水設備の能力は。
- O 今の設備があればあれぐらいの出水はヘツチヤラですよ。大作方面の開さくにそなえ今関本卸の引立てに排水バツクを作る工事がすすめられておりますが、これができれば大作の水も抜けるし、更に深部に移行しても出水に対する備えは万全だといえます。
- 司 大作の防水作業がなかなかうまくゆかず繰込所に対策本部を置き、何日も寝ないでまつ赤な眼をしてがんばつている所長、排水ポンプの配置や能力なんか矢つぎばやに質問する社長、ひどいときには何分か毎にポンプのアード(逆流しないようにベンのついた水の吸上げ口)をとられてしまつた報告が本部にきてね。”いよいよ創立15周年記念に貰つた風呂敷に家財道具をつつんで退山しなくちやならないか”なんて悲壮なことを考えましたが、石炭危機の叫ばれている今よりもつと身にしみましたね。このような災害も労使一体になつた必死の努力で一年たらずの間に立ち上り、再び発展への道をばく進した訳ですね。
- S 31年には本線巻上機一五〇馬力から三〇〇馬力に、水洗機も50トンにそれぞれ増強されるし、32年には坑外運搬の合理化のためチツプラーやカープラーを含めた坑外操車設備が完成されました。
坑内構造も一四〇米卸の五片にはいつて念願の集約採炭ができるようになり、あとは切羽の近代化、つまり採炭機械の導入を待つばかりになつたところで燃料革命という嵐に出合つたということですね。 - 司 三五〇もあつた常磐炭田の炭礦が二〇いくつに減り、更に石炭調査団の答申の線にのれるのは、大手中小あわせて12か13、それも下手をすると危いなんて、その筋で言われているそうですが、当礦がその生き残るグループにはいれたのも今まで話の出たような業績が残されてきたからであるということですね。四回にわたつて行われたこの座談会も紙幅の都合で出た話を全部皆さんにご披露できなかつたことをおわびし、この辺で幕を閉じたいと存じます。有難うございました。