中里村の農作業

明治44年(1911)に作成された茨城県久慈郡「中里村是調査書」(以下、調査書)がある。明治末期に農村では地主小作関係が進展し、また日清・日露戦争の軍費負担が町村に求められ、町村財政と生活習慣の改善、産業の振興(農村振興)を目的とした地方改良運動が国によってはじまった。その村ごとの改良方針・実行計画を村是といい、村是策定のための調査が行われた。その成果が村是調査書である。

なお、調査書にもとづいて「村是」が策定されるはずだが、「中里村是」は現在のところみつかっていない。茨城県内において多くの町村で調査書はまとめられたが、町村是を制定した町村は数えるほどであることからみて、中里村でも策定されなかったかもしれない。

中里村の調査書から農作業に関する記事三つ、「農家作業月次分配」「農家ノ休業」「労働時間」を紹介する。

調査および記録者は会沢量三郎、中里村の職員であろうか。

目次



中里村の概要

茨城県久慈郡に属する中里村は明治22年(1889)にそれまでの入四間・中深荻・下深荻・東河内の4村が合併して成立した。

調査書は、これら4大字の土性を次のように述べる。

大字下深荻ハ土地概ネ浅薄ニシテ砂利多シ、煙草耕作ニ尤モ宜シ。山地ハ松・杉・檜・椚・楢其他雑木ニ適ス。大字中深荻及入四間ハ地質深厚ニシテ肥沃ナリ。蒟蒻栽培ニ尤モ適当ナリ。山地モ亦然リ。大字東河内ハ土質ハ壌土ニ砂礫ヲ交リ、耕地トシテハ煙草・米麦作ノ適地タル…

中里村は大きく二つの地域、(1)里川沿いの下深荻と東河内(2)山間の中深荻と入四間、に分かれることを指摘する。

山林・原野が1539(うち民有地856)町歩。田は198町歩、畑が206町歩でほぼ同比重にある。広大な山林に囲まれるが、主たる産業は農業である。主な農作物は米麦・大豆の他に蒟蒻・葉煙草がある。桑と茶もあるが、田畑の畔に栽培するのみである。

明治44年のこの時期には日立鉱山の煙害がさまざま農産物や林野に現れていたはずである。しかしまだ被害は激しくなかったのであろうか、調査書ではただ一ヶ所、米栽培において「日立鉱山煙毒ノ為メ害ヲ被ルコトアリ」とふれるにとどまっている。たしかに入四間に大被害が現れるのは、日立鉱山が神峰煙道建設した翌年の明治45年からのことであった。

民有林とほぼ同面積の官有林の経営について調査書は次のように報告する。

官有林野ハ先年マテ何等ノ改善ヲ加エス天然ニ任セ、人民ヨリ下草・落葉採取出願ニ対シ許可ヲシツツアリシガ、近時不要存置国有林野ノ調査ヲナシ、明治四十年ヨリ民有地間ニ介在セル要存林野ニハ植付ヲ計画シ、四十二年マデニ要存林反別六十町一反六畝四歩へ櫟六十四万三千三百九十七本、扁柏二十万五百三十一本、杉二十九万二千百三十本、赤松五十三万四千四百六十五本植樹ヲ結了セリ。然シテ不要林野ハ近年賣払ニ着手スト云フ

中里村の官有林に国は村人の下草・落葉採取を許可してきただけで、これまで放置してきたが、近年国は不要林と残すべき要存林野の調査を行い、明治40年から民有地間にある要存林野60町余に植樹を計画し、42年までにクヌギ64万本、ヒノキ20万本、スギ29万本、アカマツ53万本を植樹した、というのである。

民有地間にある官有林に植樹したのは植樹とその後の育成・管理のしやすさを優先させたのであろう。クヌギとアカマツあわせて全体の7割強が燃料としての用材である。建築用材としてのヒノキとスギは3割にとどかない。これは当時のこの地における需要(たとえば日立鉱山の発展)を見とおしてのことによるものであろう。

副業は、産馬・養蚕・機織・藁細工・養鶏・干柿製造・炭焼・駄賃取。

現住戸数は、516戸(うち農業が486戸、商業が28戸)、3055人が暮す。

農家作業月次分配

いわゆる農事暦である。

月次 昼間 夜間 雨天
一月上旬薪伐 藁細工 製紙藁細工 藁細工・機織*
中旬粉蒟製造 藁細工 機織
下旬麦踏
二月煙艸肥料準備 麦踏 〃 〃
麦踏 桑畠肥料 機織
煙艸畠播種 麦畑中耕
三月溝渠浚渫 麦中耕 〃 〃
苗代準備 水田起
胡瓜・茄子播種
四月煙艸苗床手入 水田起
稲苗床耕 草刈
肥運搬 除草 苗代整地
五月蚕児掃立 水田肥料準備草刈 虫取リ
煙草植付 草刈 水田中耕
二毛作麦刈リ 大小豆蒔キ
六月煙草虫取リ 草刈 〃
大豆中耕 水田除草
七月煙草虫取 草刈 除草 〃
八月煙草虫取 烟草乾燥煙草乾燥
大根蒔 蕎麦蒔 草刈
草刈 煙草乾燥
九月煙草熨斗 大豆収穫藁細工煙草熨斗
〃  畑地整地
十月蒟蒻玉起 小麦蒔付二毛作収田耕 煙草ノシ
大麦蒔付 稲刈
空田起 煙草調理
十一月〃   〃煙草調理 藁細工
〃   〃
木ノ葉ハキ 炭ヤキ
十二月木ノ葉ハキ 麦小麦中耕 〃
炭ヤキ 薪刈
薪キリ 藁細工

*調査書の「副業」の項で「藁仕事、織物ハ農閑ノ期節、或ハ夜業トシテナス」と説明する。

農家の休業

月次全日休業半日休業休日延日数
休業名称日数休業ノ名称回数
一月三ヶ日 正月山入 七草 鍬入 鳥追 大祭日 恵飛吹講 不動尊十三日二十三夜尊 愛宕山二回一四日
二月朔日 初午 天神 不動 尊子安講 山講六日二回四日*
三月朔日 雛祭 駒形 天道 念仏五日観桜 二十五夜 愛宕山三回六半*
四月天道念仏 釈迦 佐都郷社 日待四日二十三夜尊一回四半
五月朔日 節句オシメリ 神事 早苗振四日四日
六月朔日 天皇祭 祇園三日祇園四回八日*
七月釜蓋明キ 七夕 虫送リ 雨コイ 天祭 ウラ盆九日二十三夜尊一回九半
八月八朔 二百十日 二百十日三日一回三半
九月朔日 鎮守祭二日一回四半*
十月朔日 刈揚 夷講 静神社四日一回四半
十一月朔日 山講 子安講三日一回三半
十二月朔日 八日二日一回二半
五八十八回六九日

*休日延日数と各項目の合計数とあわないが、そのままとした。

休業名称欄には、6月に天皇祭というものがあるが、それ以外の元始祭・紀元節・天長節・皇霊祭・神武天皇祭・神嘗祭・新嘗祭などいった国家の祝祭日がない。中里村にはそれらが浸透していなかったことを示す。従来からの信仰だったり、年中行事だったりした。

地方改良運動の課題のひとつとされたのは、独立性の高かった旧村を一村としてまとめていくことだった。それには村の祭礼と旧暦による休日慣行を盆と村社祭典をのぞいて廃止させ、旧来の農休日の大幅縮減と祭礼飲食出費の節約を図り、その代わりに国家祝祭日を町村の祭休日として定着させ、国民意識の高揚に結びつく町村民の一体感を形成をすることが必要であると認識されていた(有泉貞夫「地方改良運動」『国史大辞典』)

労働時間

時 期午前午后夜業労働時間
始り終り休憩時間始り終り休憩時間始り終り
自四月上旬
至六月下旬
八時十二時三十分二時四時一時間八時十時八時間
自七月上旬
至九月下旬
七時十二時三十分六時一時間九時間
自十月上旬
至十二月下旬
六時十一時一時三十分六時一時間九時間
自一月上旬
至三月下旬
八時十二時三十分四時一時間六時八時八時間

夜業つまり夜なべ仕事が、7月から12月までの半年間はない。それは夜なべに適した作業がないというだけでなく、日中の労働時間がのびていたため休息をとる必要があったからであろうか。

休日と労働時間

 中里村の農家の場合

年間の休日は69日。月5.8日、週1.3日。

1日の労働時間は春と冬が8時間で、夏と秋が7時間。これら数値に休憩時間をふくんでおり、春と冬は夜業をふくめて1日の実働時間は6時間30分、夏と秋は同様に7時間30分となる。

休日に仕事する者もいよう。だがこの時期においても村の共同体的規制が働くだろうから、上記の休日に仕事するのはおいそれとできるものではなかった。

 日立鉱山の労働者の場合

明治末年において中里村農民の休日と労働時間が多いのか少ないのか、長いか短いのか。大正7年(1918)の日立鉱山と比較してみよう(史料 大正七年二月 日立鉱山鉱夫待遇施設視察報告書)。

職種によって異なるが、日立鉱山では1日8時間から11時間(休憩時間含む)。休憩は30分。休日は月1回。だが賃金は出ないが欠勤は自由(製錬夫はのぞく)

労働時間だけをみれば、日立鉱山の労働者の方がいかに苛酷だったかがわかる。

 江戸時代そのままに

飛躍するが、中里村の休日と労働時間の数字を見ていて思い出したことがある。江戸後期西国を旅してきた水戸領玉造村の庄屋が水戸領と西国を比較していた文章である(史料 水戸領庄屋の東西論)。

この庄屋は「西国の農民は朝は星があるころに家をでて、夕も星を見て帰る」。それに比して「水戸近辺では農作業にでるにも朝は日がのぼってから、煙草を吸いながら鍬をふるい、くたびれば昼寝もし、日の入る頃には帰る。西国の農民のようにあくせくしなくとも暮していける」と現状と自らを肯定する。

明治期の中里村農民の意識は江戸時代の玉造村の庄屋と変わることはないように思える。農民の労働観、生活意識などの基層的価値観はやはり変化しにくいのだろう。

調査書の内容細目

沿革
第一項区域・位置・境界・広袤
第二項地勢及交通
第三項地質及土性
第四項 気候
 気候表[月別平均気温・最低気温・晴雨日数 降雪月日]
第五項 土地
 甲 土地ノ所有権ニ関スル区別
  第一 御料地及官有地各種目反別
  第二 民有地種目反別
  第三 土地所有者ト所有地反別トノ関係
 乙 土地使用権ニ関スル区別
  第一 耕作者ト耕地反別トノ関係
  第二 植林秣用其他生産上ノ目的ヲ以テ村内又村外ニ於テ耕地以外ノ
   土地ヲ使用スル反別及人員
 丙 土地ノ利用
  第一 土地利用種類別反別
  第二 田地
  第三 畑地普通作物作付反別
  第四 園地作付反別
  第五 山林原野利用反別
 丁 土地ノ價格
第六項 戸口
 第一 在籍及現住戸数人員
 第二 男女年齢別人員
 第三 人口増減累年比較
 第四 農業者戸数及人員
 第五 農業以外ノ職業別人員
 第六 農業就業者男女別人員
 第七 出稼及入稼労働者男女別人員
 第八 村農会員数
第七項 作業
 第一 農家作業月次分配
 第二 農家ノ作業
 第三 労働時間
 第四 雇人賃金及雇人ニ関スル慣例
 第五 土工ニ関スル区域賦課方法
第八項 生産及消費
 甲 生産ノ設備
  第一 土工ニ関スル設備
   イ 耕地区劃ノ大小
   ロ 耕地整理并用悪水路及排水ノ設備
   ハ 河川及堤防
   ニ 道路橋梁
   ホ 土地改良ニ関スル設備
  第二 其他ノ生産設備
   イ 住宅及倉庫
   ロ 農用屋舎
   ハ 農用器具
   ニ 牛馬使用数及用途
 乙 生産方法
  第一 主要作物栽培法
   イ 米
   ロ 麦
   ハ 大豆
   ニ 菎蒻
   ホ 煙草
   へ 桑
   ト 茶
第二 副業ノ状態・副産物及製産品生産方法

日立市域の村是調査書

日立市域で村是調査書を確認できるのは、久慈郡中里村と多賀郡坂上村の二つである(日立市郷土博物館でコピーを読むことができる)。この二つの調査書については『新修日立市史 下巻』(近代〉第3章〉第1節日露戦戦争後の農村と地方改良運動)が紹介している。

中里村の村是調査書と坂上村の調査書は、作成時期・経緯は同じだが、似ても似つかないものである。中里村のものは調査員が一人、まとめたのも調査員だが、坂上村は多賀郡役所が調査項目をさだめ制作した活版印刷の様式に書き込んでおり、調査委員長(村長)以下調査委員14人、廻調員13人が調査と編集に携わっている。調査員が多く、データが細かいからといって村の実態を把握できているかというと、そうでないことは二つを読んでみればたちどころに理解できる。