史料 日立鉱山の煙害に関する茨城県会速記録
目次
- はじめに
- 1911年の県会
- 1912年の県会
- 1916年の県会
- 1917年の県会
- 県の対応
- 史料
はじめに
長州出身の久原房之助が秋田県の小坂鉱山所長から転進して、茨城県多賀郡日立村にあった赤沢銅山を買収したのは1905年(明治38)12月のことである。その久原が日立村に中央製錬所の建設に着手したのが2年後の1908年3月のこと。日立鉱山から産出される鉱石だけでなくひろく国内の銅鉱石を集めて製錬し、生産規模を拡大するという構想であった。それに最適だったのが日立鉱山であった。鉱石・製品の鉄道輸送にはすでに常磐線が開通しており、また鉱石の船舶輸送に適した海岸があった(となり高鈴村大字会瀬の浜。1910年には台湾からの鉱石をこの浜から荷揚げする)。製錬所着工から8ヶ月後の同年11月には溶鉱炉が稼働をはじめた。
生産規模の拡大にともなって起こったのが、製錬所から排出される有害ガスによる煙害問題であった。被害地の人々は賠償あるいは事業の中断を求めて日立鉱山、行政(郡役所・県庁・日本政府)、議会(郡会・県会・帝国議会)にはたらきかけた。
本項では、茨城県会が提出した煙害対策を求める意見書およびそれを無視する県執行部、実行を求める議員、それぞれの発言を速記録から紹介する。
1911年(明治44)の県会日立鉱山の中央製錬所が稼働をはじめた3年後、1911年11月に茨城県会は、日立鉱山の煙害を見過ごすことはできないとし県に対し煙害の範囲・程度の調査及び救済の方法を立てるべきと意見書をまとめた。その意見書の提出理由を穂積竹次郎議員(多賀郡松岡町上手綱 立憲国民党)が述べる。続いて根本龍四郎議員(多賀郡平潟町 立憲政友会)、中村哲蔵議員(久慈郡 立憲政友会)、小田部藤一郎議員(真壁郡 無所属)が賛成の意見を述べた。そして採決がなされ、意見書は県に提出されることとなった。
1912年(大正元)の県会翌12年11月の県会で穂積竹次郎議員は、県の煙害調査・救済方法の立案・実施の進捗状況を尋ねる。県執行部の木間瀬策三内務部長[1]は、さまざまに調査することがあって、調査中で答えられないとする。
それに小田部藤一郎議員は国が設置した第3次鉱毒調査会[2]の調査が終って解散し、国が対策は考えているはずなのに、一方で県が調査未着手というのはおかしい、県は県として調査し、方針をたてるべきだと質す。それに木間瀬は質問趣旨をずらしつつ、調査中なので「其成案ヲ今年ノ議会ニ於テ申上クルコトハ出来マセヌ。恐ラクハ来年ト雖モ充分ニ調査ニナルコトハ出来マセヌ」と来年も調査する意思がないことを明言する。
1916年(大正5)の県会1916年11月の県会において勧業費の審議中に穂積竹次郎議員は日立鉱山煙害の救済方法について質問する。1911年に煙害の救済方法について建議案を提出してから6年たったものの県はなんら動き出していない、誠意がまったく見られないと県執行部を批判した。
穂積の発言中にある「煙突改造」とは1915年に完成したいわゆる大煙突のことである。それによって「毒煙ガ大空ニ飛散スルヲ以テ比較的害ガ少ナイダラウ」という推測あるが、「大空ニ廣ク飛散セラルレバ、廣キダケ夫レダケ被害ノ区域カ拡大」することも想定されると憂慮するのである。
県執行部の時実秋穂内務部長[3]は、日立鉱山が行っている被害補償以上のことを県が行う考えはないと答弁した。
これに穂積は、一時の補償で済む農作物と異り、将来に問題を残す、例えば林産物に対しては研究が必要であると反論する。
内務部長の答弁は、学者や日立鉱山の研究の成果を待ち、その上で県は植栽を奨励することになるだろうと。
1917年(大正6)の県会翌17年11月、小田部藤一郎議員は勧業費の審議中に日立鉱山煙害問題について、県庁は「今後此害毒ヲ予防シ之ヲ除却スル処ノ方法ヲ講ゼシムルノ望」みがあるのか、煙害の程度・範囲を調査することに「ドウ云フ御注意ヲ拂ツテ、ドウ云フ実行ノ手段ニ出テ」いるのか、「将来ドウ云フ御方針」をとるつもりなのかと質問した。
これに県執行部の時実秋穂内務部長は、「当事者ノ誠意アル妥協ニ依ツテ決定スル方ガ解決方法トシテモ宜イ」「県ノ力デ調査ヲ致シマシタ処ガ充分ノ効果ヲ収ムルコトハ六ケ敷」ので「進ムニ任スル外仕方ガナイ」、つまりこれまでとおり県としての調査や方策を検討するつもりはない、と答弁する。
県の対応1917年(大正6)11月の小田部藤一郎議員の質問中に「今日マデ県庁トシテハ此銅山ニ向ツテドウ云フ監督モナサラヌヤウニ聞キ及ンデ居リマス」とある。日立鉱山の煙害が問題となった1908年(明治41)から10年めのことである。県は日立鉱山に対して被害調査や被害者救済について方針をたてる、あるいは一歩進んで実行する、そのようなこともなく、加害者である日立鉱山に対して指導・監督もしていない、と指摘するのである。
県のこのような態度にはなんら社会的、法的な正当性はない。にもかかわらず、県はなぜ動こうとしないのか。
これについて同様なことが多賀郡庁においても起こっていて、被害民から指摘されている。1911年(明治44)7月23日付の『いはらき』新聞の記事〈こちら〉は、多賀郡役所の動きが鈍いのは多羅間政輔多賀郡長[4]と坂仲輔茨城県知事[5]に原因があるというのである。日立鉱山の経営者久原房之助、その支援者井上馨と坂知事の3人ともに長州出身で、かつ坂知事と多羅間郡長は姻戚関係にあるため、多羅間は日立鉱山側に立っていると。
たしかに県および郡役所の動きはにぶい。それは愛媛県の別子銅山の煙害問題と比較して明らかである〈こちら「住友別子銅山煙害問題視察」を参照〉。しかしその理由が長州閥によるものかどうかは史料を缺いているが、疑われる要素は十分にあった。
[註]
- [1]木間瀬策三:内務部長。ウィキペディアによる(https://ja.wikipedia.org/wiki/木間瀬策三)。2019年12月15日閲覧
- [2]第3次鉱毒調査会:1909年(明治42)4月に小坂・別子・日立の煙害問題対応のために設置。農商務内に置かれ「鉱毒除害の方法を講究すると同時に被害の範囲程度等調査」を行った。しかし成果をあげられず、1913年(大正2)3月「調査結了」したとして廃止
- [3]時実秋穂:内務部長。ウィキペディアによる(https://ja.wikipedia.org/wiki/時実秋穂)2019年12月15日閲覧
- [4]多羅間政輔:多賀郡長。就任期間は1910年(明治43)10月20日〜1914年(大正3)6月4日(『多賀郡史』)
- [5]坂仲輔:知事就任期間は1908年(明治41)10月9日〜1912年(大正元)12月10日。森田美比「知事の履歴書(12)」(『茨城県史研究』第25号)によれば「人は評して、坂の人物と手腕の非凡さをあげるが、さらに彼の洞察力と勇気とがあいまって……卓越せる政治家的力量を発揮した」とされる。
テキスト化にあたって
- ◦原本は各年『茨城県通常県会速記録』(茨城県発行。茨城県立歴史館の写真版)によった。
- ◦縦書きを横書きにした。
- ◦一部において常用漢字を用いた。
- ◦史料本文中に、濁点が付されるものもあるが、ないものもある。そのままとした。
- ◦史料本文中の … や ─ は、原文どおりである。
- ◦原本には読点「、」が付されているが、きわめて限定的で、かつ不統一である。あらためて引用者において句読点「。、」を付した。
- ◦[ ]は引用者。
史料
1911年(明治44)11月30日 茨城県通常県会
意見書
多賀郡日立鉱山業ノ発展スルニ従ヒ其煙害益々甚ダシク到底冷眼看過スベキモノニアラズ。県当局者ハ所謂病ノ膏盲ニ入ラザルニ先立ダチ、須ラク煙害ノ範囲、程度ノ試験調査及ビ救済ノ方法ヲ立ツベキヲ至急ナリトス
右意見書提出候也
明治四十四年十一月三十日
茨城県会議長 坂野鉄次郎
茨城県知事 坂仲輔殿○十二番(穂積竹次郎君) 私ハ簡単ニ提出ノ理由ヲ述ベマス。彼レ日立鉱山ガ猛悪ナル毒煙ヲ吐キツヽアルコトハ既ニ世ノ知ル所デゴザイマシテ、吾々ガ新ラシク申上ゲル必要ハナカラウト存ジテ居リマス。彼鉱山ガ年一年発展スルニ伴ヒマシテ其危険ガ益々拡大スルヤウナ状況ヲ呈シツヽアリマス。之ガ為メニ郡内唯一ノ財源トシテ最モ今日発展ヲシツヽアル彼ノ造林事業ガ此煙毒ノ為メニ著シキ被害ヲ受ケ、今ヤ将ニ枯死セントスルノ状態ヲ呈シツヽアル次第デゴザイマス。其外農産物ノ如キモ相当ノ被害ヲ受ケ相当ノ損害ヲシテ居リマス。之レ等被害民ハ実ニ人心恟々トシテ各地ノ視察ヲ試ミ相当ノ手段ヲ盡シテ居リマシテ、其上銅山ニ向テモ相当ノ交渉ヲ致シテ居ル次第デゴザイマス。コレガ為メニハ鉱山モ誠ノ意ヲ以テ解決スルト云フコトヲ已ニ口ニハ出シテハ居リマスガ、中々害ヲ受ケル方ト…一方ハ害アリ、一方ハ害ナシト云フ風デアリマスカラ、中々其間ノ妥協ガ円満ニ解決サレルニハ骨ノ折レル訳ニナツテ居リマス。コレニ就テ被害民モ種々憂慮措ク能ハズト云フ状態ヲ呈シテ居リマスガ、之レヲシテ県当局ガ相当ノ設備ヲシテ、果シテ此煙害ハ其区域ヲ拡大シツヽアルカ、ドウ云フ程度マデ被害ヲ及ボシテ居ルカ、コレニ就テ相当ノ御研究ヲ願ヒ相当ノ設備ヲ願ツテ銅山ト被害民トノ間ニ円満ナル解決ヲ県当局ニ依リ附ケタイト云フノガ詰リ本案ヲ提出シタ趣旨デアリマス。幸ニ県当局ニ於テモ此意志ヲ容レラレテ相当ノ処置ヲ御採リニナラレンコトヲ希望致シマス。尚ホ議員諸君ニ向ツテモ満場一致ノ御同意ヲ………
○三十七番(根本龍四郎君) 私ハ十二番ノ説ヲ賛成スルモノデゴザイマス。本員ハ此日立鉱山ト地方民トノ間ノ立ツテ三十四年以来鉱業ト農業トノ間ノ調和ヲ取リ来ツタモノデアリマスガ、此調和ノ方法ニ就キマシテ仔細ニ之ヲ弁ジマスレバ頗ル長時間ヲ要シマスガ、詰リ十二番ノ述ベラレタ如ク地方民ハ頗ル惨憺タル有様ニ陥ツテ居リマスガ、日立銅山モ亦之ニ向テハ出来得ル丈ケノ保障ヲ取リツヽアリマスガ、其処デ此煙ナルモノハ如何ニ吾々ガ智力ノ及バン所マデ押シ及ボシテ居ルカ、此吾々ノ知ラザルニ間ニ難儀ヲシテ居ル人モアリマセフ。又我々ノ微力非才ヲ以テ鉱業ト農業トノ調和ヲ謀ランコトハ頗ル覚束ナイコトデゴザイマスカラ、県当局モ十二番ノ意志ヲ酌ンデ充分ニ御調ベニナツテ、ソウシテ大問題ヲ解決セラレムコトヲ希望スルガ故ニ十二番ニ賛成シマス
○三十四番(中村哲蔵君) 十二番ニ賛成致シマス。是ハ県農会等ニ於キマシテモ只今ノ十二番ノ建議ノ如キ心配ガゴザイマシタカラ、知事公ニ意見書ヲ提出シテアリマスヤウナ次第デゴザイマス。只夫レ丈ケ申シテ置キマス
○十七番(小田部藤一郎君) 此問題ハ本日現ハレマシタ建議案中デハ最モ重大ナ問題ト心得マスカラ一言蛇足ナカラ賛成ノ意ヲ申シマス。日立銅山ガ日一日ト繁昌ニ赴キツヽアルハ県ノ為メ又国ノ為メニ喜ブベキコトデアリマスガ、乍併其裏面ニ於テハ煙害問題ハ最早其侭ニ放棄シテ置クコトハ出来マセヌ。此煙害問題ハ茨城県ノ産業上衛生上ハ勿論モツト進ンデ申シマスレバ人道上ノ為メニ看過スベカラザルモノデゴザイマス。彼ノ足尾ノ鉱毒問題ハ田中正造ニ依ツテ絶叫サレマシタケレドモ、然レドモ此鉱毒ナルモノハ渡良瀬川ノ水ニ依ツテ流サレル其毒深シト雖トモ渡良瀬川沿岸ノ一区域デアリマス。然ルニ此ノ日立銅山ノ烟害ハ風ノ為メニ四散シテ其毒ノ及ブ区域ハ海ニ陸ニ十数里、四方ハ人目ノ認ムルコトノ出来ヌ人智ノ豫想シ得ラレヌ処マデ及ンデ居リマス。今日ハ最早見遁カスコトノ出来ヌ問題デアリマス。茲ニ於テデス茨城県庁ハ害ヲ除キ起スト云フコトニ付キマシテハ虚心坦懐其事ニ力ヲ尽シ、一人ニテモ其処ヲ得ザルモノガアレバ已ニ押シテ之ヲ水中ニ突キ落トシタル如ク惻隠ノ心ヲ持ツテ居ラルヽコトト思ヒマスカラ、多賀久慈ノ地域ガ烟毒ニ包マレテ居ルト云フコトデアリマシテモ其侭ニ看遁ガシテ居ル如キ筈ハナイノデアリマス。例ヘバ多数人ノ集ル学校ヤ芝居小屋ノ如キモノニ向ツテモ之ハ空気ノ流通ガ悪イ、茲ニハ斯ウ云フ窓デナケレバ毒瓦斯ガ籠モルトカ、少シノ処マデモ八釜シキ注意ヲ加ヘテ居リマス。内務省ニ於テモ一粒ノ一粒丸ヲ販賣スルニシテモ此中ニ毒ガアリハセヌカ毒ガアツテハナラヌト云ツテ試験ヲシテオリマス。然ルニ此烟毒ナルモノヽ有害ナルコトハ判然リ分ツテ居リマシテモ、内務省モ県庁モ之ヲ放棄シテ置イテ顧ミマセヌノハ其意ヲ得ヌ訳デアリマス。或ハ県庁デハ放棄シテ居ラヌカモ知レマセヌガ、世間ガ囂々スル処ヲ見レバ聊カ其疑ガアリマス。デ昔ノ人智ノ及バザル時デアリマシタラナラバ兎モ角今日ハ機械モアリマス、学術モ開ケテ居リマス、分析術モ開ケテ居リマス。夫デ化学ニ依ツテ試験ヲシテ見マシタナラバ風ニ交チツテ居ル烟毒ガ化学ノ作用ニ依ツテ烟毒ノ及ブ範囲ノ分ラヌト云フコトモアルマイト思フ。其毒ノ及ブ処ガ試験ヲシテモ分ラヌケレバ、又土地モ分析シ或ハ草木作物ヲ分析シ種々ナル学術ノ力ニ依レバ夫ガ分ラヌト云フコトハアリマセヌ。定メテ之ハ県庁デモ或ハ蔬菜等ニ付テハ御試験ニナツタコトヽ思ヒマス。然レトモ之ヲ発表スレバ世間ガ囂々シテ困ルトカ、或ハ囂々騒カレルガ為メニ鉱山ト人民トノ間ニ忌ハシキ問題ガ起リハシナイカト云フ御疑念ガアルノカモ知レマセヌガ、之ハ隠シ切ルコトハ出来マセヌ。何時シカ欠陥ヲ生シテ大ナル禍ヲ世間ニ現ハシマス。此侭ニ棄テヽ置クト云フト十年ナリ二十年ナリ経テハ其毒ノ浸潤スル処如何ナル辺マデ及ブカモ知レマセヌ。之ヲ僅カニ世間ノ仲裁トカ調停トカ示談トカ云フヤウナコトニ任カシテ居ツテ会社ト人民トノ間ヲ調和スルト云フヤウナコトハ最早今日ハ執ルへカラサルコトデアルト思ヒマス。彼ノ足尾銅山ノ鉱毒ハ田中正造ノ絶叫ニ依ツテ除外工事ノ端緒ヲ開カレ、又昔彼ノ那須野ケ原殺生石ハ之ハ玄翁和尚ノ済度ニ依ツテ其害毒ヲ除カレマシタケレドモ、此日立銅山烟毒ノ有様ヲ此侭放棄シテ……十数年モ放棄シテ置イタラバ百ノ田中正造、百ノ玄翁和尚アリト雖モ之ヲ救済スル道ハナクナルト思ヒマス。須ラク之ハ今日マテノ姑息ナル方法手段ヲヤメマシテ、県当局者ハ進ンデ調査ヲシ試験ヲシテ被害民ヲ救済スルノ方法ヲ立テ充分ノ除害工事ヲ施シ、被害民ノ安堵シ得ラルヽ策ヲ立テラレンコトハ今日ノ最急務デアルト思ヒマス。夫カラ最早此問題ガ県会ノ問題トナリマシタ以上ハ、此問題ノ解決セサル中ハ年々歳々之ヲ繰リ返シテ当局者ニ迫ルコトヽ思ヒマス。勿論我々ハ心配ハ幾ラデモ致シマスケレドモ、然ルヘク方策ヲ立テラレンコトヲ希望致シマス
○議長(坂野鉄次郎君) 御異議ガナケレバ手續ヲ致シマス……
明治44年 茨城県通常県会議事速記録 第16号
1912年(大正元)11月 茨城県通常県会
○十二番(穂積竹次郎君) 私ハ此勧業上ニ幾分ノ関係ヲ有シテ居ルト考ヘマスカラ鳥渡番外ニ御尋致シタイ。夫ハ昨年ノ県会ニ於キマシテ満場一致ヲ以テ建議案ヲ提出シテ置キマシタ彼ノ日立銅山ノ煙毒問題デゴザイマス。是ハ年々歳々其被害ヲ逞フシテ困難ヲスルカラ何ウカ之ニ対シテ被害区域被害ノ程度及ヒ其救済ノ方法ヲ何ントカ致シテ貰ヒタイト云フコトヲ昨年願ツテ置タノデゴザイマスカラ、賢明ナル当局者ハ之ニ対シテ相当ナル施設アルコトハ信ジテ疑ヒマセヌガ、乍併其方法ノ那辺ニマテ進ンデ居リマスカ。之ヲ番外ニ御尋致シタイト存ジマス
○番外一番(木間瀬策三君) 昨年御建議ニナリマシタ日立鉱山ノ煙毒ノ彼害ニ付テハ如何ナル処マデ調査ガ進ンデ居カト云フ御質問デゴザイマスガ、之ニ付キマシテハ御承知ノ通リ最モ急ヲ要スルモノハ賠償ノ問題ト思ヒマスガ、賠償ニ付テハ独リ唯今ノ日立銅山ハカリデナク賠償ヲ与ヘテ居ル処ノ他ノ別子銅山小坂鉱山等モ其煙毒ノ為メニ多少ノ賠償等ヲヤツテ居ル。夫等モ調査ヲ致シテ見ナケレバナラヌシ、唯今ハ調査中デゴザイマス。又何ンニセヨ日ガ短クシテ具体的ノコトヲ申スコトノ出来マセヌノハ当局ノ遺憾トスル処デアリマス
○十七番(小田部藤一郎君) 唯今ノ鉱毒ニ付テ申シマスガ、唯今ノ御説明ニ依リマスト未タ鉱毒ノ調査ハ調査中デアルカラ何ントモ答ガ出来ヌト云フヤウナコトデアリマスガ、是ハ政府ニ於キマシテハ已ニ鉱毒ノ調査ニ付テハ全部相済ミニナリマシテ、夫故ニ今日デハ鉱毒調査会ハ閉会ヲシテ解散ヲシテ仕舞ツタト云フコトヲ聞テ居リマス。シテ見レバ其結果当然分ツテ居ルト思ヒマス。是等ハ政府デ以テ鉱毒ヲ調査シテ仕舞ツタト云フモノヲ当局ニ於テ未タ着手中ト云フノハ多少矛盾シテ居リハセヌカト思ヒマス。殊ニ政府ニ於テ調査ヲシタモノハ其結果ドウ云フ方法ヲ以テ之ヲ除害シロト云フヤウナコトハ政府ニモ無論アリマセフガ、県ハ県トシテ又夫ガナケレバナラヌト思ヒマス。当局ニハ如何ナル成案ガアリマスカ庶幾ハ與リ聴カン
○番外一番(木間瀬策三君) 政府ガ鉱毒調査会ヲ開イテ其調査会ハ既ニ閉会ヲシタガ、其調査会ノ結果ニ付テ県ニハ成案ガアルカト云フ御話デゴザイマスガ、国デ鉱業調査会ヲ定メタコトハ鉱山監督署ノ手ヲ経テ鉱山ニ命令シテ致サセマスガ、県ノ調査ハ之レト別物デスカラ其ニ依ルコトハ出来マセヌ。又調査ノ結果ガ県トシテハ調査中デゴザイマスカラ其成案ヲ今年ノ議会ニ於テ申上クルコトハ出来マセヌ。恐ラクハ来年ト雖モ充分ニ調査ニナルコトハ出来マセヌノハ甚ダ遺憾トスル処デアリマス
大正元年 茨城県通常県会議事速記録 第15号
1916年(大正5)12月1日 茨城県会通常会
○二十九番(穂積竹次郎君) 本欵[勧業費]ヲ議スルヲ機ト致シマシテ聊カ当局ニ御尋イタシタイコトガゴザイマス、日立鉱山ノ煙害ニ関スル一ツノ救済方法デアリマス、本件ニ付キマシテハ明治四十四年ノ通常県会ニ満場一致ヲ以テ建議案ヲ提出シテアリマス、爾来年ヲ重ヌルコト六年、県当局ハ此間ニ於テ幾多ノ御研究ヲナシツヽアルトイフコトハ本員ハ深ク信シテ居リマス。併ナカラ事秘密ニ属スルカ未タ以テ吾人ノ耳ニセザルヲ誠ニ遺憾ニ存ズルノデアリマス。或ハ曰ク日立鉱山ノ煙突改造以来夫ヨリ吐キ出ス毒煙ガ大空ニ飛散スルヲ以テ比較的害ガ少ナイダラウ、否夫レ程害ヲ及ホサナイデアラウトイフコトモゴザイマスガ、果シテ然ラバ是ハ一ツノ遁辞テアルト私ハ信スルノテアリマス。此毒煙ガ大空ニ広ク飛散セラルレバ、広キダケ夫レダケ被害ノ区域カ拡大サレルトイフコトハ無論当然テアラウト思ヒマス。今ヤ水戸以北珂北ノ山野ハ正ニ毒煙ヲ以テ蔽ハレ、福島県ヲ襲ハントイフ状態ニナツテ居リマス。此際ニ於テ県ハ相当ノ御研究ヲナシテ、之ニ対スル救済ノ方法ヲ行ハレルコトハ最モ急務中ノ急務タラウト深ク信シテ居リマスガ、之ニ對シテ県ハ御方針ヲ執ツテ居ラレマシタカ伺ヒタイト思ヒマス。若シ御答弁ヲスルコトハ未タ其時期テハナイトイフヤウナ御答弁デアル以上ハ是ハ当局ニ御誠意ガナイモノト認メマシテ、再ヒ質問ハイタサヌ積リテアリマス。一応県ノ御意向ヲ承知致シタイト思ヒマス
○番外一番(時実秋穂君) 二十九番ヨリ日立鉱山ヨリ噴出スル処ノ毒煙ニ對スル県当局ノ方針如何トイフ御尋デゴザイマスカラ御答致シマス。煙書問題ニ付キマシテハ県ト致シマシテハ常ニ之ニ注意ヲ払ツテ居ルノテアリマス。サウシテ是ガ救済ニ付キマシテモ常ニ其方法ヲ廻グラシツヽアルノテアリマス。併シ現在ノ実際カラ見マスト、或ル箇所ニ被害ガアリマスト、直チニ鉱山カラ之ニ対シテ善後策ヲ講スルコトヽナツテ居リ県トイタシマシテモ、是等ノ場合ニハ夫レ夫レ技術員ヲ派出シテ調査ヲシ相待ツテ其善後ノ方法ヲ遺憾ナクサセルトイフコトニナツテ居リマスノデ、目下是以上ニ必要ナル処置トイフモノモアルマイカト思ツテ居リマス。併シ御説ノ如ク煙害ノ農作物ニ及ホス関係ハ重大デアリ、現ニ此問題ハ各地方ニ於テモ重大問題トナツテ居リマスノテ、県当局ハ常ニ是等ノ害毒カ如何ニ進ンテ行クカトイフコトニ付テハ注意ヲ怠ラズニ将来モ調査ヲ續ケテ行ク積リテアリマス、左様御承知ヲ願ヒマス
○二十九番(穂積竹次郎君) 県ガ相当ノ御調査ヲナシテ居ラルヽトイフコトハ誠ニ頼モシイコトヽ考ヘマス。成ル程現在ノ状況ハ被害者ト鉱山トノ間ニ相当ノ妥協ヲシテ補償額ヲ支払ヘツヽアルトイフコトハ確カデアリマス。先ツ夫ハ暫ク置イテ、若シ此煙毒ノ為メニ地方ノ林業カ今後ニ於テ到底増植スルノ見込ガナイトイフコトヲ申上ゲテモ過言デナイト思ヒマス。若シ此煙毒ノ為メニ将来地方ノ林業ガ成リ立タヌトシマシタ場合ニ其煙害地ノ林産物ヲシテ徒ラニ其地味ヲシテ一片ノ瘠土トシテ終ラシメルトイフコトハ甚タ遺憾ニ思フノテアリマス。此煙害ニ付テ植林スベキ樹種其種類等ニ付テ今日マテ県ガ御研究ヲナサレタコトガゴザイマスレバ、何等ノ種類ガ此煙害地ニ対シテ之ヲ造林致シマスレバ大ニ植林ノ見込ガ立ツトイフヤウナコトガ御研究ニナツテ居リマスレバ、伺ヒタイノデアリマス。若シ煙毒ニ耐フベキモノヽ種類ノ御研究ガナケレバ、之ヲ御研究下サルノ御意向ガゴザイマセウカ。アルトスレハ何時頃マテニ其植エヘキ種頻ノ御発表ニナルコトカ出来マスカ、豫メ今日カラ之ニ付テ研究シテ置クコトハ最モ急務中ノ急務タラウト考へマスガ、故ニ是等ニ付テノ県ノ方針ヲ一応承知致シタイト思ヒマス
○番外一番(時実秋穂君) 重ネテ二十九番ヨリ御尋デゴザイマスカラ御答致シマス。今御尋ノ如何ナル樹種ガ煙毒ニ堪ユルカハ県トシテハ今日マデ特別ノ調査ハ致シテ居リマセヌ。併シ此事ハ既ニ林学者ノ間ニモ研究サレテ居リマスコトデ、研究ノ歩ハ大分進ンテ居ルヤウデアリマスガ、今日マデ適当ノ樹種発見スルニ苦シンデ居ルヤウニ承ツテ居リマス。日立鉱山デモ聞ク処ニ依レバ、大島ニ産スル櫻ノ木ガ煙毒ニ堪ユルト云フ処カラ是等ヲ栽培シテ居ラレルト云フコトヲ仄カニ聞ヒテ居リマス。斯様ナ樹種ガ煙毒ニ堪ユルト云フコトハ今日発表ニナツテ居リマスガ、果シテドレドレノ種類ガ煙毒ニ対シテ全ク害ヲ受ケヌカト云フコトニ就イテハ、サウ沢山ニ発表セラレテ居ラヌ様ニ考ヘマス。御話ノ如ク是ガ研究ハ煙害ヲ除ク為ニ又地方ノ人民ヲ保護スル上ニ於テ極メテ必要ト思ヒマスケレドモ、其調査ハ隨分困難ナコトデアラウト思ヒマス。何時マデニ之ヲ研究シテ発表スルト云フコトニ付テハ明言致シ兼ネマスガ、兎ニ角機会ノアリマス度ビニ是等ノ方面ニ研究ヲ進メ、又学者ノ説ヲモ聞ヒテ将来適当ナル樹種ガアリマシタナラバ夫等ノ植栽ヲ奨励スルト云フコトニシタイト思ツテ居リマス
大正5年 茨城県通常県会議事速記録 第8号
1917年(大正6)11月21日 茨城県会通常会
○三十三番(小田部藤一郎君) 日立銅山ノ煙害ノコトニ付テチヨツト御質問致シタイ、日立銅山ノ事業ノ発展ニ付テハ我茨城県トシテハ喜ブベキコトデアリマスカラ、事業其者ニ反対ハ致シマセヌケレドモ、其事業ヨリ生スル害毒ノ蔓延ニ付キマシテハ種々ナル点カラ観察致シマシテモ到底是ハ見捨テヽハ置ケマセヌ。夫故ニ四五年前県会ニ於テ県会ノ決議ヲ以テ当局ニ迫リマシタ。ト云フノハ此煙毒鉱毒ノ程度ヲ調ベテ之ヲ予防シ之ヲ除却スル処ノ方法ヲ講ジテ呉イト斯ウ云フ事ヲ申シテ置キマシタ。其後一両回本会ニ於テ当局トノ間ニ応答ガアリマシタ。然ルニ毎度御調査ガナイト云フコトデアリマシタガ、然ラバ当局ニ於テハ今日日立銅山ヨリ生ズル処ノ害毒ニ付テハ調査スルノ必要ナシ、之ヲ除却スルノ必要ナシトシテ此侭放任シテ差支ナイト云フ風ニ見テ居ルノデゴザイマセウカ。或ハ又サウデナク、是ハ人道上又勧業上捨テ置ケヌト云フナラバ県庁ハ今後此害毒ヲ与防シ之ヲ除却スル処ノ方法ヲ講ゼシムルノ望アリヤ。此害毒ノ程度範圍ヲ取調ヘルト云フコトニ付テハドウ云フ御注意ヲ払ツテドウ云フ実行ノ手段ニ出テヽ居リマスカ。聞ク処ニ依レバ、今日デハ既ニ其煙害ハ風ノ吹キ廻ハシニ依ツテハ水戸市マデモ及フト云フコトデゴザイマス。其害毒タルヤ啻ニ人類ノミナラズ耕作物、山林、其他ニ海中ノ魚族ノ産卵孵化ノ上ニモ及ブト云フコトデアリマス。今日此侭ニ放置致シマスレバ之ハ足尾銅山ノ二ノ舞ヲ踏ムヤウナ騒ギヲ仕出来カサヌトモ限リマセヌ。然ル処アヽ云フ大キナ事業ニナリマスト其下ニ悪三百的ノ連中ガアツテ、被害民ト銅山トノ間ニ立ツテ或ハ脅迫ケ間敷手段ヲ以テ被害民ヲ押シ付ケタリ騒ガセタリ致シテ、其間ニ不正ノ利得ヲ計ルモノガアルノデゴザイマス。夫デ吾々ガ県会ヲ彼是騒ギマスト、夫ヲ「ダシ」ニ使ツテ被害民ト銅山ノ人ノ間ニ立ツテ不正ノ利ヲ貪ラントスル材料ニ供スルト云フコトヲ聞キ及ンデ居リマス。是等ノ人ノ御先キニ使ハレルト云フノデ質問等ハ廃メテ居ツタノデアリマスガ、今日マデ県庁トシテハ此銅山ニ向ツテドウ云フ監督モナサラヌヤウニ聞キ及ンデ居リマス。一利ヲ起スハ一害ヲ除クニ如カズト云フ諺モアルノデアリマスカラ、県庁ニ於テハ此煙害鉱毒ニ対シテハ将来ドウ云フ御方針ヲ執ラレマスカ、実行ノ出来ルダケノ御意見ヲ伺ツテ置キマス
○番外一番(時実秋穂君) 三十三番ニ御答致シマス、日立鉱山ノ煙害問題ニ付キマシテハ、昨年モ本会ニ於テ御質問ガゴデイマシテ、其当時御答致シテ置キマシタノデゴザイマス。一年ヲ経マシタ今日ニ於テモ実ハ其当時ヨリ以上ノ御答ノ出来マセノハ甚ダ遺憾デゴザイマス。申スマデモナク煙害ノ問題ハ独リ県ノ問題若クハ地方ノ問題バカリデナク大ニシテハ国家ノ問題ト云フテモ宜イノデアリマスカルガ故ニ、前ニ政府ニ於キマシテモ特ニ鉱毒調査会ヲ設ケラレテ是ガ防止ノ方法、是ハ除害ノ方法ニ付キマシテ色々御研究ニナリマシタ。併ナガラ遺憾ナガラ其結果トシテ之ト云フ有効ナ方法ガ現ハレナンダノデアリマス。言ハヾ政府ノ設ケマシタ調査会モ豫期ノ効果ヲ収メナカツタノデアリマシテ、今日デハ全ク其機関モナクナツテ居リマス。此問題ハ我邦ノミナラズ外国ニ於キマシテモ研究致シテ居リマスガ、今日ノ処除害ノ方法モ豫防ノ方法モゴザイマセヌ。誠ニ困ツタモノデアリマスガ、如何トモ豫防ノ方法モ除却ノ方法モナイト云フノガ今日ノ状況デアリマス。前年県会ヨリシテ調査ノ方法ヲ講ズルヤウニト云フ御建議ガアリマシタコトモ承知シテ居リマス。併ナガラ実ハ先キ程申シマシタヤウナ状況デアリマシテ、国トシテ多額ノ費用ヲ投ジ多数ノ人ヲ入レマシテ其効果ノ現ハレマセヌノデゴイマスカラ、例ヘ県ガ少シバカリノ吏員ヲ以テ多少ノ費用ヲ投ジマシテモ到底其効果ヲ収メルコトハ出来ヌコトト思フノデゴザイマス。或ル県ニ於テ此調査ノ為メニ一二ノ吏員ヲ置イタコトモアリマシタガ、其効果ノ挙ラヌコトヲ発見致シマシテ、此一二年ハ此調査機関ヲモ廃シマシテ今日テハ全ク廃メテ居ルト云フ状況デアリマスノデ、今日調査ヲスルトシテ特別ノ機関ヲ設ケマシテモ充分ノ調査ハ出来ヌモノト確言致シテ差支ナイト思ヒマス。勿論県トシテモ捨テヽ置クノデゴザイマセヌ。其害ノ及ブ範囲ニ於テ研究シ又被害ノアツタト云フ報告ニ接シマシテハ、吏員ヲ派出シテ害ノ有無ニ付テノ調査ヲサセ、其実際ヲ示シテ居ルヤウナ実況ニナツテ居リマスガ、夫レ以上ノ事ハ県ノ仕事トシテハ出来マセヌノデアリマス。幸ニ本県デハ他府県ニ見ルガ如キ煙害問題ガ八釜シクアリマセズ、鉱山デモ色々注意シテ夫レ夫レ補償ヲスルコトニ力メテ居リマス。大体ノ遣方ヲ申シマスト、農作物等ニ対シテハ──一般農作物ニ対シテハ作物被害試験ヲ行ヒ、之ヲ基礎トシテ賠償ヲ致シテ居リマス。林産物ニ対シテハ生産力ノ補償ト立木ノ補償ト、此二ツニ分ケマシテ相当ノ補償ヲ致シテ居リマス。而シテ其損害ノ程度ヲ極メルコトニ付キマシテハ、町村ノ当局者部落ノ当局者ト立会ノ上調査ヲスルコトニシ、總テ妥協的ニ進ンテ行ツテ居リマシテ、現在ニ於テ是ト云フ問題ヲ起シタコトモナイヤウデアリマス。デ先ツ是等ハ県ノ為メニモ幸ナコトヽ思ヒマス。一体害ノアルモノハ除カナケレバナラヌ、他ノ事業発展ノ為メニ害ヲ受ケル事業ニ対シテハ、保護ヲ与へ相当ノ救済ヲスルト云フコトハ宜イニ違ナイ。又ソウセネバナラヌハ勿論デアリマス。ケレドモ斯ノ如キ問題ハ寧ロ両当事者ノ誠意アル妥協ニ依ツテ決定スル方ガ解決方法トシテモ宜イデハナカラウカト云フ考ヲ有ツテ居ルノデゴザイマス。結局県トシテモ其被害ヲ認ヌデハアリマセヌガ、現在ノ処県ノ力デ調査ヲ致シマシタ処ガ充分ノ効果ヲ収ムルコトハ六ケ敷ノデ、現在ノ状況デ以テ暫ク其進ムニ任スル外仕方ガナイト云フ考ヲ有ツテ居ルノデアリマス
大正6年 茨城県通常県会議事速記録 第10号