史料 入四間煙害調査委員の視察
深津澄世編「関三郎烟害調査記録」から

目次


はじめに

1911年(明治44)7月21日から22日にかけて、中里村入四間の宿坪の煙害調査委員ら9人が多賀郡の煙毒被害と補償状況の調査を行った。被害の実態とその補償内容を知ることで、日立鉱山との補償交渉を有利にすすめるためであろう。

まず入四間の北の方角にある多賀郡黒前村大字高原の黒田坪[1]、つぎに黒田の東方にある藤坂坪、藤坂から南にある沢平坪で話を聞く。沢平坪からは山を越えて日高村大字小木津にある日高村役場を訪ね、村長と助役に会い、話を聞く。それから南下したものの日が暮れて河原子町で宿泊し、翌日助川に戻って調査を終えた。

本項で紹介する史料は、この二日間の調査の記録である。

  1. [1]坪:江戸時代以来(もっと古い時代からかもしれないが)、村の中の集落を○○坪と称する。公式地名ではないので、現在に残りにくい。入四間には宿坪・下坪・笹目坪の3集落がある。

入四間煙害調査委員

中里村大字入四間の煙害調査委員は1907年(明治40)に組織され、1911年(明治44)4月30日に入四間宿坪では3期目の委員改選が行なわれた。このとき関三郎(のち右馬允を襲名。新規)・関恒太郎(再選)[2]・関弥平次(再選)・中村春吉(再選)の4人が選ばれた。

同年5月3日、三つの坪の連携をはかるため煙害調査委員協議会がもたれ、協議会の代表(委員長)に関三郎が選ばれた。この協議会の事業計画に多賀郡の被害地視察が盛り込まれており、同年7月に実施されたのである。

なお、この視察参加者名のなかに、関三郎の名は見いだせないことから調査委員長不参加のもと視察が実施されたものと考えられる。

  1. [2]関恒太郎は1期目に委員を務めたが、2期目ははずれていた。

当時の煙害

1905年12月末、赤沢銅山を買収し創業した日立村の日立鉱山は、翌年から大規模な操業をめざして、各種設備の大型化、電動化を開始した。その過程で山間の採鉱所にあった製錬設備を宮田川の中流、神峰山の麓に移し、他の鉱山からの鉱石を受け入れて溶錬する中央製錬所の建設に着手し、その年のうちに1号炉が稼働をはじめた。1908年のことである。翌年には順次溶鉱炉が3基増設され、製錬量は飛躍的に伸びた。同時に製錬所から排出される亜硫酸ガスも比例して増加し、周辺地域での樹木や農作物に被害も増大した。

この煙害に日立鉱山は排煙を稀釈することに力を注ぐ。関三郎が入四間煙害調査委員長となった1911年5月ちょうどそのとき神峰煙道が完成する。煙道の途中のいくつかの排煙口から分散して煙をだせば稀釈されて、害も弱まるだろうと考えたのである。しかし排煙は入四間を襲った。

6月17日関三郎は次のように記す[3]

午前八時頃ヨリ少シ鉱煙来リ、日没ニ及ブ、ソレヨリ激甚ヲ極メ、殊ニ午後八時頃ヨリハ室内ニアリテモ鼻腔ノ痛ミヲ感ズル程 ナリ。……[翌日]桐ハ枯縮シ、落葉ス

このような被害が現れて実施された他地域の煙害補償状況の調査であった。

    [3]「煙害調査記録2」深津澄世編「関三郎烟害調査記録」

視察内容

視察を記録した人物の関心の中心は山林被害にある。つねに報告の冒頭にある。農作物への被害については、その次である。入四間のこの時期における被害が山林に現れていて、それは自給肥料及び燃料供給源としての山林がもつ重みをふくめて、この地域における農家経済・農業経営のありようを明らかにしなければならないが、ひとつだけ、中里村の4大字中、入四間と中深荻は重要な商品作物栽培の途を法的に閉ざされていたことを指摘しておく。

本史料末尾の「視察雑感」において、入四間の委員が視察中にもっとも注目したと述べるのは、小木津における蒟蒻栽培のことである。それは入四間においては葉煙草栽培を栽培不適地として専売法によって禁止され、それにかわる商品作物として、入四間の人々は蒟蒻に強い関心をいだいたのである。

連帯

高原の藤坂坪では「委員石井小文治氏ヲ訪ヒシニ不在ナレバ、出先ナル田圃ニ至リ同氏ニ面会シ種々調査」を行った。農作業中の手を休めて調査に応じてもらえたのである。また高原の沢平では「委員田所巳之松氏宅ヲ訪ヒタルニ不在ナリシモ、祖父ナル人(九十歳位)ノ好意ニヨリ圃場ヨリ巳之松氏ヲ伴ヒ呉タル」と90歳の老人が田圃で作業中の孫を迎えに出てくれたのである。また日高村役場を訪ねたときに、村長・助役とも煙害調査で入四間にやってきていたことを知り、そして「親切ニ同村及日立村ノ補償協定ヲモ談シ呉レタリ」。それらは被害者として郡や村の行政区画をこえた連帯の意思表明であった。それを感じたからこそ「雑感」の記録者はこのような記述を残したのである。

四国別子銅山視察復命書

本史料の中で、日高村役場を訪問し、村長と助役に会った際に「殊ニ四国別子銅山ヲ調査セル復命書モ示サレ」た。多賀郡の被害地域は代表者数人を選び、別子銅山の被害状況の調査を1911年5月18日から十日間行ない、その報告会が視察のつい2週間ほど前の7月6日に開かれたばかりであった。多賀郡では集落や村をこえ、連携して煙害にあたっていたのである。

別子銅山視察と報告会の内容は、当時新聞報道されていた〈こちら〉のだが、入四間の委員たちは知らなかったのであろうか[4]

    [4]1902年(明治35)ことだが、入四間で新聞を講読していたのは、関家と学校だけだった(関右馬允「明治時代の青年会の回顧」『郷土文化』第9・10号(1969年)という。関三郎は別子銅山視察の新聞報道を知らなかったのであろうか。

深津澄世編「関三郎煙害調査記録」

本項は、深津澄世さんがまとめられた「関三郎煙害調査記録」(以下、記録と略)からとったものである。記録にそえられた深津さんの「煙害資料の整理を終えるに当たって」によると、1983年2月に実施された茨城県高等学校教育研究会歴史部第一通学区の研修会「日立の銅の歴史をたどる」において、関家に残された「膨大な資料」の存在を知り、その後研修会に参加した佐々木清光、根本正、宮内教男のみなさんとともに記録の筆写を行ったといいます。深津さんがそれらをワープロに入力し、校正し、整理を終えたのが、2003年夏のこと。それらを深津さんがプリントして日立市郷土博物館に提供した。
 本項の記事はその印刷されたものからとったもので、深津さんたちの仕事に全面的に負っています。


史料について

テキスト化にあたって

[本文]

[表紙]
「 明治四十四年七月弐拾弐日
  日立鉱山烟害 視察雑観
         入四間宿委員 」

   日立鉱山烟害視察雑観

明治四十四年七月二十一日大字入四間烟害調査委員ハ、記録第百六号ノ委員会決議ニ基キ烟害視察ニ多賀郡方面ニ出張ス、一行ハ左ニ
 関弥平次 関恒太郎 中村春吉 平塚九二吉 木内杉次郎 増子吉衛門
 増子亀吉 鈴木勝之介
以上八名、外ニ個人トシテ木内三之介同行ス

午前六時宿出発シ、多賀郡黒前村大字高原黒田坪ニテ委員須田庄五郎氏ヲ訪フ

     黒田視察要項

山林ニアリテハ松ハ大抵枯損シ、雑木ハ被害ノ程度我大字笹目ヨリ薄ク、宿部内ノ山林ト伯仲スベシ、田畑ニアリテハ具体的ニ現ハレズ
委員須田庄五郎、小貫英弥、根本伝之介、佐藤泰介ノ四名ニシテ、任期ハ無期限ナリ

   雑木立木枯損補償

反 別棚 数単 価複 価補償価格補償額摘 要
台帳二反〇〇〇歩四・〇三、〇〇〇一二、〇〇〇一、四〇〇

[備考]明治四十四年春解決、棚数ハ一反歩廿五ケ年成育木四棚、一棚黒炭廿五俵トシテ一俵十五銭ノ見込ミ、補償金ハ台帳面積丈ケヲ受領シ、実測ノ上残金支払ノ約

   成育補償既決及前途ノ目的

字 別杉一反歩収入
(一ヶ年)
雑木一反歩収入
(一ヶ年)
補 償
杉歩合

雑木歩合
藤坂 円九〇〇二七〇四割七割
沢平九〇〇二七〇
黒田 九〇〇二七〇三割五割
長久保九〇〇二七〇

以上ノ補償額ガ勿々ニ決定シタルニヨリ、小額ニ失スルヲ以テ四字協議ノ上日立鉱業へ改正ヲ申込ミタルニ承諾セラレ、其結果山村ヨリ生ズル材積ニ付キ衝突アリ、実査スルコトニ決シ、黒田坪小貫善十郎氏ノ山林五反歩ヲ買ヒ受ケ、鉱山ヨリ係員宮下、坂田ノ両氏来リ、雑木ヲ伐採シ重ネタルニ、其ノ結果黒炭ノ炭材ニテ十六棚(長一尺六寸、三六ノ本棚ニシテ、高三丈、巾六尺四棚ノ成績ヲ示セリ、左表ノ如

樹種炭材俵数本棚数一棚ノ俵数一反歩ノ俵数摘 要
雑木三二七俵五強二四〇俵一反歩ノ換算ニシテ株数ハ九百
三二八俵一強二五六当時試験中

[備考]初メ鉱山側ノ主張ハ一反歩ニ付三棚乃至四棚ニシテ、一棚二十俵、価格ハ一俵ノ炭材金十銭、委員側ノ提案ハ一反歩四棚ニシテ一棚廿五俵、一俵十五銭ナリシト云フ
価格ハ川尻停車場ノ相場ニヨリ他日決定ノ筈
杉ハ翌年解決ノ見込ナリト云フ

 其 他
   畑ノ補償

年 度一反歩摘 要
四十二年円八〇一毛作、二毛作共全部ニシテ四十二年度ニアリテハ蒟蒻ヲ除キタルモ四十三年度ハ加入セリ
四十三年 一〇〇〇

[備考]本年度ニアリテハ猶増加ノ目的ナリト云ウ

   果樹類
黒田全戸廿一戸ニ対シ金六拾円ニテ永久打切リ

   桑
畑ト株トヲ別タス一株金参銭ニテ打切リ解決セリ

黒田ヨリ大雄院迄ノ距離 歩行里程二里、直行一里余

右ヲ終リ午前九時 藤坂ニ至ル
藤坂ニテ委員石井小文治氏ヲ訪ヒシニ不在ナレバ、出先ナル田圃ニ至リ同氏ニ面会シ種々調査ヲナス

     藤坂調査要項

委員 石井小文治 石井敬之肋 期限ハ無期限

   損害ノ状態
雑木ハ著シク被害アリ、我大宇ノ笹目ト同様ノ程度ニシテ、杉モ梢被害ヲ認メ農作物ニアリテハ、稲作ニモ被害アリタル様語ラレタレ共今ハ具体的ニ見ルヲ得ズ、畑作物又然リ、桐ハ我大字ノ宿ト大差ナク、果樹類ハ被害年限未ダ浅キ故カ我大字ノ宿ヨリモ枯損セザル様見受ケタリ

   補償歩合

樹 種面 積金 額摘 要
一反〇〇〇歩五円六五〇字下、沼久保
二、〇〇〇
二、〇〇〇
杉新植三、〇〇〇明治四十二年 同四十三年植付ケ分
一、〇〇〇丈〈竹ヵ〉ヲ除ク

右ハ実測面積ニヨリ受領シ実測ノ結果ハ台帳面積ノ平均二倍半ニナレリ
二代木(樫、朴、槻、桜)ハ別ニ要求シテ材積ヲ調査シタルニ、近日解決ノ筈ナレ共価格ニ対シ五割ヲ支払ハレタシト主張シタルニ、鉱山側ニテハ二割ヲ支払ハントノコトナリシト云フ

   畑(別ニ蔬菜類)

年 度金 額蔬菜類金額
四十二年一円五〇〇
四十三年二円五〇〇一、〇〇〇

   田

年 度金 額
四十三年円七〇〇範囲ハ藤坂ノ一部ナリ

藤坂大雄院ノ距離 真直一里弱

拾時四十分藤坂ヲ辞シ沢平ニ至リ、委員田所巳之松氏宅ヲ訪ヒタルニ不在ナリシモ、祖父ナル人(九十歳位)ノ好意ニヨリ圃場ヨリ巳之松氏ヲ伴ヒ呉タルヲ以テ種々調査ヲナス

     澤平調査要項

   烟害ノ状態
山林ハ雑木ヨリ杉ニ至ル迄凡テ一般ニ烟害激甚ニシテ、黒前村中第一ノ被害ト思ハレ、果樹類ハ柿ニ至ル迄著シク被害アリ
田モ甚タシク被害アリ、他ノ地方ニテハ已デニ二番除草ヲナシ居ルモ、当地ハ梢一番除草ヲ始メタルノミシテ、今后被害少ナキニモセヨ半作位ノ収穫ナリト思ハル
畑ハ僅少ニシテ、大小豆ノ類ハ稲ノ割合ニ比シテ被害少ナク、蒟蒻ハ別ニ被害ノ兆候ヲ認ムルヲ得ザリシ

   補償歩合
山林ハ藤坂ト同様ニテ全部既ニ解決セリ
果樹類ハ沢平全戸数九戸ニ対シ五拾円ニテ永久打切リ、其ノ内ニ桑桐等ヲ含ミシ由ナリ

    田

年度補償金肥料補助反別摘要
四十二年木炭三貫目一反歩
四十三年自二円〇〇〇
 至二円五〇〇
普通カリンサン
 六貫匁
一反歩
四十四年精カリンサン
 四貫五百匁
アンモニヤハ被害后補助トシテ交附セラレタル由

    畑

年度補償金蔬菜補償金摘要
四十二年一反歩 三円〇〇〇
四十三年一反歩 五円〇〇〇二円五〇〇隠宅迄全部ニ交附セラレタル由

[備考]蒟蒻ハ従来除キアリシヲ本年度ヨリ補償スル約束ナリト云フ
本年度麦作坪刈ノ成績ハ一反歩裸麦ニテ一石一斗二升
従来ノ収穫ニ否ナレハ其ノ不足ヲ要償スル見込ミナル由
(価格ハ一俵四斗四升入ニシテ金三円四十銭ノ見積リ)
山林落葉代ハ未タ請求セザル由
委員 田所巳之松 田所初太郎 任期三ヵ年
沢平ヨリ大雄院迄ノ距離八町余(真直)

時正午ナルニヨリ午飯ヲ喫シ、雰時三十分同家ヲ辞シ、同郡日高村字小木津ニ至リ、字岩本ニテ委員ヲ尋ネタルニ見当ラズ、水車業者ノ宅ニテ永山久蔵氏ナル人ニ面会シ、略々小木津ノ烟害補償額等ヲ聞キ、夫レヨリ午后三時日高村役場ニ至リ、面接ヲ求メタルニ、村長石川俊之介(田宿〈尻ヵ〉)、助役志賀純(小木津)ノ両氏面会シタリシガ、共ニ委員ニシテ○○日、烟害調査ノ為メ吾ガ大字ニ来リタル人ニシテ、殊ニ四国別子銅山ヲ調査セル復命書モ示サレ、親切ニ同村及日立村ノ補償協定ヲモ談シ呉レタリ

     〈日立村・日高村補償協定〉

 日立村(明治四十三年度) 一反歩当リ

種別補償金額地目摘要
成育補償円五〇〇山林
立木補償四円〇〇〇滑川ハ実測ノ結果三倍ニ増加セリト云フ
平均一ヵ年三円五〇〇三ヵ年契約

 日高村(明治四十三年度) 一反歩当リ

地目種別補償額摘要
山林成育補償円四〇〇
立木補償四円〇〇〇内金二円ヲ受領シ残金ハ被害程度ニヨリ漸次領収スルコト、反別八台帳ノ二割増シニシテ受領セリ
麦作自一円〇〇〇  
 至二円五〇〇
場所ニヨリ一円五十銭、二円、二円五十銭ノ等級アリ、但田尻ハ三円
烟草三円五〇〇烟害程度ニヨリ其ノ歩合差アリ
燕麦 七五〇
肥糧補助大豆粕一枚半

[備考]畑ノ烟害区域ハ鉄道線路ヲ堺トシ以西ヲ受領シ、以東ハ受領セザル由ナリ

同所ヲ辞シ、田尻、滑川、宮田ト順次視察シテ南下シタルニ日没トナリ、帰宅ヲ唱フルモノト宿泊ヲ主張スルモノトノ二派ニ別レタレ共、後者優勢ニテ遂ニ宿泊ト決ス、宿舎ノ都合上河原子町ニ至リテ泊ス
翌廿二日、二番列車ニテ助川迄北上シテ下車シ、助川ノ烟害補償ヲ調査ス

     助川調査要項

 助川(四十三年度) 一反歩当リ

地目種別補償金額摘要
山林成育補償円五〇〇
立木補償五円〇〇〇内、金山、小屋ケ沢ハ三円五十銭
麦作四円二〇〇其ノ歩合ニシテ八分、六分、四分、二分五厘ノ区別アリ

以上

[視察雑感]視察中注目ヲ引キシワ、小木津ノ蒟蒻ニシテ地昧ニ適当セシモノト見エ、盛ンニ繁茂シ、昨年度ニ於テ大字中ニテ七千円、本年度ハ其ノ倍額一万四千円ノ量ヲ収穫シ得ル見込ミナリト云フ、滑川ニハ桐樹多キヲ見受ケタリ