入四間への煙害補償

目次


入四間の煙害補償金の推移

日立鉱山による煙害の激甚地であった久慈郡中里村大字入四間。この地に支払われた煙害補償金の推移を菅井益郎「日立鉱山煙害事件」[1]から抜きだして示す。単位は円。

山林補償
[2]
稲作補償畑作補償肥料補助
[3]
その他
[4]
合計
1907年
明治40
--88円158--88.158
1908年
明治41
976.282 - 599.270 - 76.000 1,651.552
1909年
明治42
944.230 - 329.750 80.000 124.000 1,477.980
1910年
明治43
846.880 - - 50.000 - 896.880
1911年
明治44
2,192.130 - 895.730 - 588.490 3,676.350
1912年
大正元
470.910 - 1,587.250 466.350 107.020 2,631.530
1913年
大正2
(構成比)
5,396.630

60
1,870.000

21
1,241.460

14
287.040

3
206.500

2
9,001.630

100
1914年
大正3
944.010 705.370 1,183.020 393.200 1,449.730 4,675.330
1915年
大正4
1,385.210 1,350.670 904.050 313.500 401.640 4,355.070
1916年
大正5
1,118.180 380.170 805.090 563.740 58.080 2,925.260
1917年
大正6
902.220 153.690 1,524.170 477.020 - 3,057.100
1918年
大正7
1,137.790 286.820 365.110 490.300 31.280 2,311.300
1919年
大正8
1,265.500 544.680 753.560 441.480 63.000 3,068.220
1920年
大正9
2,408.620 271.350 469.080 923.000 133.000 4,205.050
1921年
大正10
- 972.550 - 313.600 50.000 1,291.150
総 計
(構成比)
19,988.592
44
6,490.300
14
10,745.698
24
4,799.230
11
3,288.740
7
45,312.560
100

1907年から15年間にわたる入四間での被害補償の推移をみると、1913年の9000円をピークに減少に向かうが、1921年においても1300円が支払われている。1914年に大煙突が完成したといっても被害は出ているのである。

15年間の合計で補償の内訳をみると、最も多額なのは山林補償である。全体の44%を占める。山林補償のピークは1913年に支払われた5400円である。山林被害への補償は翌年の1月に支払われるので、1913年の山林補償額は、1912年の被害に対してのものである。関右馬允が1912年(明治45)6月に入四間の山林に大被害が現れたという[5]ことと一致する。

  1. [1]『一橋論叢』第74巻第3号(1975年)。元の資料は、関家蔵「日立鉱山煙害補償協定綴」の第1回(明治40年8月7日)から第139回(大正10年3月31日)によるという。
  2. [2]山林補償は山林生産力補償、立木枯損補償、生育補償など山林に関する補償のすべての合計。
  3. [3]肥料補助は現物支給されたものを時価で換算したもので 山林落葉補償、田畑肥料補助の合計。
  4. [4]その他の中には水害補償、風致木、果樹等の補償を含む。
  5. [5]関右馬允『日立鉱山煙害問題昔話』

佐都村大字茅根の煙害補償金の推移

入四間の被害の特徴を他地域との比較によってみておきたい。

久慈郡佐都村大字茅根は現在の常陸太田市茅根町。里川の中流域の南端、渓谷の出口にあり、この先を下れば視界がひらけ、白羽や里野宮などの水田地帯にでる。江戸時代元禄期は村高249石の小さな村で、田と畑の割合は46:54。耕地はわずかで、大半は東側にひろがる山林である。尾根を越えると多賀郡鮎川村の諏訪である。

この茅根における1912年から17年にかけての煙害補償金の推移を菅井益郎「日本資本主義の公害問題(二)」が作成した表によって示す[6](この表はすでにこちら 日立鉱山の煙害と葉煙草栽培 で紹介済みだが、再掲する)。補償金が支払われた年による区分で、単位は円。

山林 農作物 煙草 神社・
共有地
その他 調査分配費 合計
1912年
大正元
142.60 110.89 966.56 80.12 358.94
[7]
29.00 1,688.11
1913年
大正2
62.07 250.67 585.93 50.68 - 22.00 971.35
1914年
大正3
132.09 600.22 1,124.82
[8]
95.59 5.00 20.00 1,977.72
1915年
大正4
128.12 422.86 427.69
[9]
59.34 24.90 25.00 1,087.91
1916年
大正5
119.03 654.06
[10]
42.02 73.55 5.00 18.00 911.66
1917年
大正6
153.00 206.44 5.45 79.89 - 21.50 464.28
合計
構成比
736.91
10
2,245.14
32
3,152.47
44
439.17
6
393.84
6
135.5
2
7,101.03
100

菅井が指摘するように、葉煙草の補償額が1915年以降激減していく一方、山林や農作物への補償額に大きな減少は見られないことから、日立鉱山の煙害対策がこの地域に対しては、葉煙草被害対策にあったことがわかる。

  1. [6]『社会科学研究』第30巻第6号(1979年)所収
  2. [7]内果樹336円
  3. [8]内1,109円24銭は1913年度分
  4. [9]全額1914年度分
  5. [10]内49円46銭は1915年度分

入四間と茅根のちがい


 Googleマップより

被害額

入四間の1913年の約9000円、それに対して茅根は1914年の約2000円が最大である。入四間が煙害の激甚地であったことはこれでわかる。

製錬所からの距離

入四間では1907年から被害補償がなされるのに対し、茅根では1912年からのことである。入四間において日立鉱山創業2年目という早い時期から現れるのは、鉱山の製錬所(当時は本山の採鉱所に製錬所があった)にもっとも近いことによる。当時の製錬所と入四間の宿坪集落とは直線距離にして約1.8キロメートル。それに対して茅根は南西に約7キロメートル余離れている。

農作物と樹木との被害は必ずしも並行せぬ

関右馬允の回想によれば[5]

ただ不思議な事には、農作物と、樹木との被害は必ずしも並行せぬ事で、明治四五年七月一二日の農作物の大激害は、当地では蓆旗の一歩手前まで窮迫した程であったが、雑林には中度の被害、杉林には軽度の害が見えた程度で、その後、杉林が枯死の寸前まで来た大被害の時には、農作物には中度の被害が有ったのみで、その時期により農作物と樹木では被害に大きな違いがあることを経験した。この現象については煙害の神と云われた鏑木先生も、私の質問には首をかしげただけで日立を去ってしまわれた。

入四間の葉たばこ被害

入四間の煙害補償金の推移の表に、茅根にはあった葉たばこの欄がない。これは入四間において葉たばこの栽培がなされていなかったことによる。この点については、こちら 日立鉱山の煙害と葉煙草栽培 を参照。