史料 植林の長老山村さんに聞く
日立鉱山煙害問題 林業技術者の回想 2


 1926年(大正15)の日立鉱山諏訪台社宅のサクラ  『写真集 のびゆく日立』より

明治末、開業まもないときから日立鉱山で植林事業にたずさわった山村次一にインタビューがなされ、1973年の『日立鉱山ニュース』第241号(1973年4月1日)に掲載された。水俣病にはじまる環境問題が社会問題化し、公害対策基本法が1967年に制定される。これから紹介する本記事もその動向の中にある。
 なお山村はこれ以前に1960年3月発行の『日立鉱山ニュース』に「日立の植林について」と題して寄稿しており、一部をこちら 日立鉱山煙害問題 林業技術者の回想 に紹介している。これと重複あるいは矛盾する部分があるが、山村自身の体験が語られている点においてこちらの記事は見逃せない。

山村次一は1890年(明治23)11月7日長野県木曽福島に生まれる。山村家は江戸時代尾張藩の木曾代官・福島関所代官を代々つとめた。木曾郡立甲種山林学校(のち長野県立木曾山林学校、木曾山林高等学校)で造林を専攻。1909年(明治42)卒業。1911年から日立鉱山地所係に勤務。以後三十数年にわたり植林事業に従事した。

記事見出


テキスト化にあたって

15年間、延500万本を植林 魂でつくった緑の山々 植林の長老山村さんに聞く 大島桜捨てたタネから発芽 腰抜かすほど喜ぶ

 当所を訪れた人は、まわりのみごとな緑の山々に讃嘆の声を上げる。わたしたちはここに長く生活して、これをあたりまえの事実として受けとめているが、古い銅製錬所の周辺にこれだけの緑がみられるのは珍らしいからである。もちろん、この陰には、当所の先輩のすぐれた決断と、血のにじむ苦心がかくされていた。その一端を、この植林を一貫して指揮された、山村次一さんに、話していただくことにした。