日立鉱山煙害問題 林業技術者の回想

目次──山村次一「日立の植林について」|大島桜|吉野桜|日立鉱山の植林史|大島桜の植栽状況|大島桜単純林の失敗|樹種別植栽状況|民有地への苗木無償配布


明治末、開業まもないときから日立鉱山で植林事業にたずさわった山村次一が日立鉱山の社内報『日立鉱山ニュース』に1960年3月と4月に「日立の植林について」と題して寄稿した回想文を紹介する。

山村次一は長野県木曽福島出身。木曾郡立甲種山林学校(のち長野県立木曾山林学校、木曾山林高等学校)で造林を専攻。1909年(明治42)卒業。1911年から日立鉱山地所係に勤務。以後三十数年にわたり植林事業に従事した[1]

  1. [註]
  2. [1]米本二郎『伝記久原房之助翁を語る』p.401(1991年 リーブル発行)
    米本のこの本には山村次一の回想文が多く引用されている。本ページと重複している部分もあるが、異る部分が多い。出典が示されていないので、それが判明したときにあらためて紹介したい。

[凡例] 縦書きを横書きに改めたほかは、漢字、仮名づかいなどは原本どおり。なお[ ]と見出し(たとえば、網状連柴工事)は引用者による。

日立の植林について

山村 次一

網状連柴工事

明治41年11月に、当時本山にあった製錬所の大雄院移転が完了したが、そのころから、付近の山林に及ぼす煙害は次第にふえ、ついに土地の荒廃さえ誘致するようになり、当時の直接監督官庁鉱務署[2]から「土砂崩潰防止」の命令を受けたので、やむを得ず、荒廃個所に網状連柴工事[3]を行なって、一時的に崩潰防止を計る一方、煙害防止設備として、44年にダルマ煙突が、次いで大正2年には神峰横煙道が建設されたが、これらはいずれも、なんら効果なく、かえって煙害を助長する結果に終った。しかも、網状連柴工事も、当時の金で坪当り一円五十銭かかり、44年秋には、その面積は一町歩に達し、なお年を追って増加の一途をたどり、その経費も容易ならぬものがあった。

  1. [2]鉱務署:農商務省所管。鉱山監督署から1913年鉱務署、24年鉱山監督局と名称変更
  2. [3]網状連柴工事:もうじょうれんさいこうじ。日立鉱山においては、大煙突の山腹周辺で煙害により草木が枯れ、土砂が流出するので、これを防止する目的で、1911年鉱山監督署の砂防植栽命令で行われた工事。山村次一によれば具体的には「山腹一面に繩の網をかぶせ、これを杭で固定し、土砂の崩落を防ぐのが第一段、第二段としては、酸性化した山腹の表土を中和し、そのうえに草木を育成すること」である(『伝記久原房之助翁を語る』p.401)。

煙害地への最初の植林

そこで、この対策として次の方法が案出された。すなわち、崩潰地には従来どおり網状工事を行なうが、準崩潰地には、萱と、明治41年以来、伊豆大島から購入して、住宅地、街路等に試験的に植つけ、意外の好成績を得ていた大島桜(耐煙樹種)を植えつけることとし、45年春から、萱は遠く沢平地内から運び、数本を一株にして中和用の消石灰約三十匁を土とよく混合して植え、そのそばに大島桜の苗木を植えつけた。植えつけ距離は荒廃程度により、三尺ないし六尺方形とした。

これが煙害地への植林の最初である。

苗木の育成

以上のように、荒廃地へ大島桜の植林が行なわれるようになったが、その苗木は、すべて原産地から購入していたので、45年、苗木の購入と同時に種子も取り寄せ、苗木の養成を試み、苦心に苦心を重ねようやく大正4年に自家製の苗木生涯に成功、さらに翌5年には、種子もさきに住宅地等に試植したものを母樹にして採取することに成功した。大島桜の苗木養成と併行して、土砂崩潰防止用命種として定評のある「ひめやしゃぶし(一名…はげしばり)」の試験も行なわれたが、これは思うような結果を得られず断念した。しかし、これに代るものとして、高鈴山付近山野に自生する「やしゃぶし」の研究はつづけられ、大正14年春に理想の苗木を養成することに成功した。

植林の拡大

植林の研究がつづけられる一方、煙害防止策として、大正4年3月に、当時東洋一を誇った大煙突が完成、今まで付近に停迷していた鉱煙は一掃され、植林の前途にも、ようやく明るい見とおしをうるにいたったので、同年春から、ただちに煙突付近およびその周辺の本格的植えつけを開始(萱植え面積約五十町歩、その他は大島桜)、漸次、神峰山下から本山方面へと広げ、大正8年春で一応植えつけを完了した。

この面積は約三百六十町歩、うち百二十町歩が国有地で、いわゆる”献植地”と称される個所である。これは昭和19年に部分林に編入された。

国有林に植栽した樹木の帰属

【献植地】高萩営林署所管の国有地百二十町歩に、当所が土砂崩潰防止の目的で大島桜を植林したが、その後、との大島桜がりっぱに成長したので、その立木をめぐり、高萩営林署と当所の間に問題が起った。

すなわち、営林署では「この区域は煙害がひどく、鉱山では植林をしても、その後はなにもせず、ただ放任していたに過ぎない。このことは、鉱山の同区域についての考えが、煙害対策としての土砂崩壊防止の目的さえ達せられればよいのだ、と解釈される。したがって、この区域の立木は国に献上してもよろしいのではないか」との見解であった(このことから「献植地」という言葉が生れた)。

一方、当所では「植林を開始した当時の状況は、だれも現任のようなりっぱな立木になるとは考えも及ばなかったことで、いって見れば、いずれとも考慮の外にあった。しかしながら、植林を行なったのはあくまでも当所であり、したがって、この立木は、当然当所のものだ」とゆずらず、その帰属をめぐって、大正12年から昭和15年まで約十七年の長きにわたり、数十回の交渉が行なわれたが、ついに妥協点を見いだすことができず最後に福田所長(第九代)の英断によって、立木は鉱山側に安価に払下げることを条件にして伐採することとし、その後は部分林として処理する(萌芽更新)ことで円満解決した。

昭和16—18年ごろの薪炭のとぼしい時代に、これ[大島桜]を伐採利用し、非常に貢献したことは周知のとおりである。(次号完結)

部分林を設定

▼部分林の設定について

大正9年、次の国有林に部分林を設定した。(注…部分林というのは、国有地を民間人または同団体が、政府か公定の取決めにしたがって借り、植林、管理するもので、その収益は、国と民間で分収することになっている。)

これは、大白峯稜線から隠作沢を経て、さらに大角矢から小屋沢道にそう以南(字隠作国有林内)、金山見張所稜線下(字鹿子作国有林内)、ならびに大煙突東側の字三作国有林内で、この面積は四百十余町歩におよんだ。植付樹種は杉、黒松、大島桜の三種で、部分林を設定した大正9年から直ちに造林に着手し、同13年春、植付けを完了したが、なお引続き手入れ刈払いを行ない、昭和7年に一切を完了した。これらの樹木は、今、樹齢四十余年に達し、その大部分はおおむね良好な成育をしており、伐採して収益をうることのできるのも、間もないことと思われる。

私有林の買収と植栽

▼日立以外の所有地について

明治の終りから大正6、7年にかけて、中里、坂上、鮎川、豊浦、黒前等部落の約四百五十町歩を買収した。これらはいずれも煙害関係のため余儀なく買収した土地で、おおむね伐採跡の裸地で、まれに杉などの植付地もあったが、これとても、全くの薮地と化していた。そこで、一方では土地の買収をしながら、大正4、5年ごろから杉、ひのき、黒松、赤松などの植付けをはじめ、同12年ころまでに一応植付けを終え、さらに、手入れ刈払い等を行なって、昭和6年ごろ、一切を完了した。

これらも、今や樹齢四、五十年伐採期に達しているが、おおむね成育良好で、すでに伐採して収益をあげた個所もあり、重要な資源になったことは、喜こびにたえない。

地所係植林担当

先月号で述べたように、日立の植林は煙害による土地の荒廃防止のための一方策であり、当時庶務課地所係で植付を担当していたのは、元太田営林署におられた坂田清三郎氏で、わたしは大正元年ごろから、よく坂田さんのお手伝いをした。ところが、わたしの主な仕事は、煙害の基本調査であったため、だいたいは長戸貞氏(のち久林と改姓)の下で働いていた。

しかし、地所係の本来の使命は煙害問題の処理(調査補償)であり、係員(現任の要務員)はどうしても、この過程を経験しなければ、今後の仕事を十分行なっていくことはできなかったし、また、わたしの専攻も造林だったので、もともと、この方面に興味を持ち、機会あるごとに「植林の仕事をさせてほしい」旨、上司にお願いしていた。

そうこうしているうちに、大正5年秋、坂田氏が不慮の電軍事故にあい、八ヵ月にわたって休養、回復後は調査と植林を兼務されたが、大正8年4月に退職これを契機に、わたしが坂田氏の後継者として、日立鉱山の植林関係一切を担当することになった。

かくして、わたしの年来の希望は、ここにようやく達せられたものの、ただちに部分林の設定これにともなう造材計画という大仕事をひかえ、これを完全に遂行することは容易なことではなく、上司から再三応援の話もあったが、とうとう一人でがんばりとおした。神経をすりへらすような苦しい連日ではあったが、今にして思えば、やり甲斐があり、愉快な仕事だった。

往時、大雄院の杉室と称せられ巨木うっそうとして昼なお暗く、猿猴樹間に戯れし、と伝え聞く幽邃境には、遠く比すべくもないが、今や全山、美しい緑におおわれ、春は桜花咲き乱れ、秋は紅葉にいろどられることを思えば、まことに今昔の感にたえない。当時植栽した若木も、すでに四十余年を経過し、重要な資源として、また、治水衛生に、山火事の防止に寄与していることは通算三十有余年にわたって、日立鉱山の造林に全力を傾注したわたしにとっては、なににもまして老いの心を慰め、目を楽しませてくれるのである。

見事に成長した「大島桜」や「黒松」「やしゃぶし」などを見るとき、わたしは思わず「ああ、よかった」と心の中で叫ばずにはいられない。

最後に、かげになり、日なたになり、わたしをご指導、ご援助くださった上司、ならびに同僚の方々に、心から謝意を表するともとに、日立鉱山がますます発展することをお祈りして筆をおく。

以上である。次に山村の回顧に関連していくつかの話題をとりあげる。

大島桜

山村の回想によれば、日立鉱山は煙害により樹木が枯損し、荒廃した製錬所周辺の山に土砂崩れによる災害防止のため砂防工事と緑化事業をはじめた。最初に行ったのが、荒廃の激しい土地への網状連柴工事である。しかしこの方法による工事をすべて荒廃地に適用するのでは経費が膨らむので、荒廃が軽度の地(準崩潰地)という枠を設定し、植林を中心に行なうこととした。

大島桜は1908年(明治41)以降、伊豆大島から苗木を購入して、住宅地や街路等に試験的に植つけ、耐煙性に優れていることがわかっていた。

そのため準崩潰地には、1912年(明治45)春から萱の傍らに大島桜の苗木を3尺から6尺方形間隔に植えた。この大島桜の植栽が、日立鉱山における「煙害地への植林の最初」であった、と山村は述べる。

蒔いた種子は、必ず刈り取る

1913年(大正2)11月から12月にかけて『読売新聞』は「日立鉱山所見」という14回連載の記事を載せる。第13回の「煙害用意」中に次のような記述がある。

同場[日立製作所近くに設けられた試作地]に於て調査の結果、伊豆大島に於て硫黄分多き地上に野生したる桜樹を抜来り、鉱山中各所に移植したるに、毫も煙害を蒙ることなく益生長し、当春既に花を着けたるものありたりと。

当春とは1913年のこと、1908年に植えてから5年、一部に花を咲かせたものがあった。新聞記者を案内する鉱山職員の誇らしげな表情は容易に浮かぶ。

日立鉱山の煙害対策として行われた砂防と緑化事業について、日立鉱山の副所長を務めたことのある米本二郎は次のように高く評価する[4]

これ[砂防と緑化]に要した費用が、二十万円[5]にも達したことを考える時、それは、翁[久原房之助]の終生念とせられた「蒔いた種子は、必ず刈り取る」と言う、信条の立派な具現にほかならない。終戦の前後、物資欠乏に際し、既に、伐採期に達した黒松や、オオシマザクラが、鉱山住民の薪炭用材として、大いに役立ったことは、鉱業財産の増加に、寄与したこと以上に、往年の植林関係者に、彼等のやった仕事の意義深さを、今更のように、悟らせたばかりでなく、大いなる満悦を、覚えさせたことであろう。

ところで、山村も「昭和16—18年ごろの薪炭のとぼしい時代に、これ[大島桜]を伐採利用し、非常に貢献した」と言っているように、大正期に社有地や国有林に植えた大島桜や黒松が、戦中戦後の物資不足のなか薪として伐採されたのである。植林から30年。十分に成育していた。

日立鉱山第4代所長、当時庶務課長だった角弥太郎は、大島桜を選んだのは、耐煙性があるという理由からだけでなく、当初から従業員の薪材として大島桜を植林したと、つぎのように回想している[6]

鉱山の周囲に在る鉱山所有地、国有林の借地区域には鉱民の薪炭用材に備へて相当広大の面積に大島桜を植付けた。

つまり日立鉱山が植えた大島桜の多くは伐採されて現代ではみることはできないということである。

  1. [4]米本二郎『伝記久原房之助翁を語る』p.404
  2. [5]『日立鉱山史』(p.149)によれば、網状連柴工事費が4万円、植栽費は15万余円、合計19万円である。ちなみに煙害補償ピーク時の1915年(大正4)の補償額は23万円を超えた。
  3. [6]「日立鉱山とわたくし」『日本鉱業株式会社創業五十周年記念 回顧録』(1956年)。
    後年の回想だけではなく、当時においても角は「附近の山林へは大島桜、アカシヤ等煙害に堪へる薪材の繁殖を奨励して…」と発言している(1910年4月10日付『いはらき』新聞)。

吉野桜


 1926年(大正15)の日立鉱山諏訪台社宅のサクラ  『写真集 のびゆく日立』より

日立鉱山第4代所長となる角弥太郎が諏訪台と本山の日立鉱山社宅周辺、鉱山電車の線路沿いに2千本近い吉野桜(ソメイヨシノ)を植えさせた[7]。角の個人的事業ではないことはもちろんであるが、角自身の回想を紹介する(前出「日立鉱山とわたくし」)

鉱山附近は煙害のために、日に日に荒廃して、草木も枯れ、全体が殺風景になつた。何とかして煙害に堪へる樹種を発見して、復旧するに一生懸命だつた。初めて気付いたのが伊豆の大島の噴煙地帯に生育する樹種のことである。早速調査の結果、大島桜が煙に強いことが分つた。直ぐに其秋種実を採取して、苗木を育てることにした。苗を育てるにも三年かかつた。兎に角耐煙性があるので、鉱山地帯一面に植ゑて緑の地帯を造ることとした。大正三年頃から、植樹を始めた。大島桜に雑ぜて、吉野桜も植ゑた。鉱山地帯一面を緑に色取った、将来に良い環境を造り出す計画であつた。植ゑ始めた当座は、子供に折られたり、引き抜かれたりした。私は小学校の校長先生に会つて、児童が桜や其外の植樹を、愛護する習慣の訓練をたびたび頼んだ。私は幼樹が少しづつ、花を付けて居るのを見た。将来の美化は出来るものと思つて、うれしかった。

ソメイヨシノは大島桜に比べてきわめて数が少ない。のちに示すが、煙害により荒廃した民有林への苗木無償配布でも、ソメイヨシノは二千本に満たなかった。しかし人家に近いところに植えられたことや華やかな色合いのため、人々にとってより身近に感じられることになった。大煙突とサクラの伝説がここにはじまる。

  1. [7]『大煙突の記録』p.197(1994年 日鉱金属株式会社ほか発行)

日立鉱山の植林史

日立鉱山が煙害対策として進めた植林の経過をまとめておく[8]。

1908年
(明治41)
亞硫酸ガス及び痩薄地に堪えうる植物を工場、社宅地に試験的に植栽し、比較考究を進めていたが、大島桜、黒松、アカシア、ヤシャブシが適樹とわかった[9]が、その苗の大量入手が困難であった。
そのために秋、那珂郡村松村大字白方(東海村)に約5町歩を借受けて、煙害試験と大島桜の苗木育成を始める[10]
──11月、大雄院製錬所稼働
1909年
(明治42)
大雄院製錬所背後の裸山を降雨時における土砂くずれと流出防止のため杉皮でおおう
──1月、煙害調査組織の責任者となる鏑木徳二が日立鉱山入社[鏑]
1910年
(明治43)
2月、東京大林区署から砂防と植栽工事命令(地表部分には芝草を植え、崩潰のおそれがある場所には植栽をする)
1911年
(明治44)
5月、大林区署に施業案を提出。砂防工事(網状連柴工事)と砂防植栽に着手[大]。1917年(大正6)まで継続。施行面積は38町歩におよぶ。
石神試験地において苗木の生産に成功
東京鉱山監督署から砂防植栽の指示
この年、鏑木と山村が伊豆大島から大島桜の種子と苗木を持ち帰り、育苗を始める。失敗が続いたが13年にようやく成功[鏑]
1913年
(大正2)
大島桜苗木の植栽を開始。鉱山周辺595町歩に植栽して1924年(大正13)完了
1915年
(大正4)
大島桜の苗120万本、黒松8.7万本、ヤシャブシ3.3万本、ニセアカシア1.2万本を育成[鏑]
この時期の石神試験場での対煙性樹木の育苗について、当時出版された『日立鉱山』[11]から一部を抜きだす。
樹林の苗圃は那珂郡石神村にある。これは水戸から海岸線で久慈川を越す手前にある石神驛に下車して程ない所である。その面積およそ五町歩、之と接して採種畑十町歩を有する。[中略]林樹中、煙害に對する抵抗性の強いのは、大島櫻、「あかしや」「みづき」であつて、石神の苗圃は此等の苗木を仕立てゝ、煙害によつて枯損せる山林の所有主に無代配付を行ひ、殖林事業の進捗を圖つてゐる。その配付数は年に二十萬本以上に達するさうである。
──3月1日、大煙突使用開始
その後 大島桜の成功を受けて、吉野桜、ポプラ、プラタナス、チューリップツリー(ユリノキ)その他対煙性の常緑樹を工場、社宅、街路に植栽[12]
  1. [8]本表では『日立鉱山史』(1952年 日本鉱業(株)日立鉱業所発行)によったが、一部について『大煙突の記録』と『鏑木徳二氏の生涯』(2009年 日鉱記念館刊)によって補った箇所があり、これらはそれぞれ[大][鏑]と文末に註記した。
  2. [9]この点は、山村が「明治41年以来、伊豆大島から購入して、住宅地、街路等に試験的に植つけ、意外の好成績を得ていた大島桜」と述べていることであろう。
  3. [10]試験場であり農場であり、また育苗場でもある。通称、石神試験場。
     なお、この那珂郡村松村大字白方に開設された「石神」試験場については、設置時期や場所、名称について山村次一の回想、『大煙突の記録』『鏑木徳二氏の生涯』その他の文献とではそれぞれに一致しない点がある。ここでは以下に違いを述べるにとどめることにする。
    (a)1909年(明治42)に「白方富士の腰に日本鉱業により煙害調査のための農場設置される」とするのは『東海村文化財保護・活用計画(案)』(p.28)。
    (b)1911年(明治44)に「煙の被害を受けることのほとんどない那珂郡村松村(試験設備、苗圃等十五町歩)にも開設し、試験を開始」とするのは『鏑木徳二氏の生涯』(p.13)。
    (c)1911年(明治44)11月に「那珂郡村松村に試験農場を開設」とするのは、『鏑木徳二氏の生涯』(p.112)。
    (d)1911年(明治44)には「煙害の及ばない那珂郡村松村白方(東海村)にも、[日立村にあったものと]同様な試験場を作っている。この村松村の試験場は、大正三年には、石神村(東海村)に移転した」と書くのは、『大煙突の記録』(p.167)。
    (e)「常磐線石神駅(現在東海駅)の北一キロの所に設けられた石神試験場(那珂郡村松村大字白方、広さ五町歩)」とするのは『伝記久原房之助翁を語る』(p398)。
    (f)「樹林の苗圃は…五町歩、之と接して採種畑十町歩」とルポする『日立鉱山』。
    ──試験場設置場所についてみれば、白方富士の腰(当時の表記なら村松村大字白方字富士之腰)にあったとするなら、現在の東海駅から北西に1キロメートル余で、石神内宿・石神外宿に接しており、かつ駅名が「石神」であることから、村松村にあっても石神試験場と認識され、かつ当初の5町歩から10町歩拡張されときに当時の石神村内にも農場が及んだかもしれない。『大煙突の記録』が言うような村松村から石神村への移転はなかったのではないか。時間があったときに調べておきましょう。
  4. [11]綿引遠山・酒井鋒滴子著、1915年11月、酒井正文堂刊。
  5. [12]『日立鉱山史』のこの記述は、諏訪台社宅に1934年(昭和9)に建てられた桜塚碑と関連するだろう。碑面には「大正六年角弥太郎諏訪台に桜樹を植う」とある(ひたち碑の会『日立の碑』)。

大島桜の植栽状況

日立鉱山による大島桜の植栽経過を示す[13]。1924年の助川山(当時は高鈴村大字助川)以外は、宮田(当時は日立村大字宮田)に存在する社有地と国有林に限られる。

植栽年度植栽面積 植栽場所
1913年(大正2)17大雄院製錬所附近
1914年(大正3)19本山旧製錬所附近
1915年(大正4)82神峰山東面、製錬沢奥、本山玉簾附近
1916年(大正5)57大雄院沢平道両側、神峰山附近
1917年(大正6)120製錬沢西方、神峰山下一帯、本山熊之沢附近
1918年(大正7)41石灰山附近
1919年(大正8)40本山大角矢一帯
1920年(大正9)49大白峯一帯
1921年(大正10)25諏訪鉄索東部鹿ノ子作
1922年(大正11)55鹿ノ子作より隠作土塁防火線まで
1923年(大正12)48隠作の残り
1924年(大正13) 42助川山
合 計595
  1. [13]『日立鉱山史』p.148

大島桜単純林の失敗

久慈郡中里村入四間の関右馬允も1922年(大正11)に日立鉱山から大島桜の苗木の提供を受け、所有地1.7ヘクタールに植えた。順調に成育していたが、10年ほどたったある日、突然コクゾウムシに似た害虫が発生し、葉柄をかみ切られ葉がすべて落ちてしまった。鉱山が植えた200ヘクタールの林も同様であった[14]

今日では常識となった単純林の弊害が起こったのである。関右馬允の回想をつぎに紹介する[15]

 大正一一年春、鉱山より無償交付の苗木を植栽して、入四間の林業史に特筆すべき事績を残した後に(と記憶する)大島桜に害虫が現われてビックリした。
 この頃迄に、激害時代に植付けた大島桜は一〇年余になり素晴らしい成長率を示して、まず雑林だけは、あと濃煙が来ても安心と思う程になり、大正末期に秋田市で開催された煙害関係の大規模の展覧会に、私の大島桜林一・七ヘクタールの全景と、部分との写真を出品して得意で居ると、その頃から成長が急に鈍くなって了った。
 気を揉んで居ると、昭和初期になり梅雨期に、穀象に似た体長五ミリ位の害虫が現われ葉柄を噛み切って大被害となった。この虫は葉を喰害するのでは無く、葉柄の汁を吸うらしく無数の虫が夜間に集まって、葉柄を噛み切り全樹を丸坊主に落葉させ惨害を蒙らせるので、緑葉が全形のまま地上に落ちて居る状況は全く惨憺たるものである。
 早速、鉱山に行き係員に相談した所、鉱山で植栽した二〇〇ヘクタール余の林も此の被害で全く処置なしと困って居る処なので、現物と害虫を、岐阜の名和昆虫研究所へ送って前後策の教を乞うたが何日経っても到頭何の返事も無く、鏑木先生の言われた、雑林の単純林化の危険を如実に体験した訳で、鉱山で多額の費用を投じて奨励した大島桜は、悲惨な終末を告げたのであった。
  1. [14][15]関右馬允『日立鉱山煙害問題昔話』p.37(1963年刊)

樹種別植栽状況

日立鉱山が行なった植林について数字を押さえておこう[16]。山林である社有地241町に山村が言うように被害林を地主から買い取ったものも含まれているかもしれない。わからない。

国は荒廃した国有林・部分林・大蔵省所管地を放置しておけない。水源涵養林であったり、そうでなくとも土砂崩れによる洪水を想定しなければならない。1910年に日立鉱山に対し砂防工事と植栽を国が命じた理由は「国民の生命と財産を守る」ことにあったからである。国の当然の命令である。

樹 種社有地 国有地 部分林地大蔵省所管地 計 構成比
大島桜 198 165 200 32 595 町  67.5 %
黒松 23 100 12314.0
16 98 11412.9
あかしや 1 24 252.9
やしゃぶし 1 20 212.4
ひさかき 2 20.2
扁柏[ヒノキ]  1 10.1
合 計 241 210 398 32 881100
構成比 27.4 23.8 45.2 3.6 100
  1. [16]『日立鉱山史』p.149

民有地への苗木無償配布

1915年(大正4)大煙突完成と同時に日立鉱山は日立村ほか17ヶ町村に大島桜のほか黒松、杉など29万本の無償配付を行ない、その後37年(昭和12)まで無償配布を続けた[17]

樹種配付数構成比
黒松364.8 万本  71.1 %
大島桜72.514.1
39.37.7
[クヌギ]15.23.0
扁柏[ヒノキ] 122.3
ヤシャブシ5.91.1
アカシヤ2.50.5
10.2
吉野桜ほか0.20
 計513.4100

この数値からは、被害林の所有者が建築用材としての杉やヒノキではなく、自給用・販売用いずれにせよ燃料となる黒松を望んでいたことがわかる。逆に言えば、多賀郡、久慈郡では建築用材としての杉、ヒノキの需要はそれほど多くはなかったということであろう。

  1. [17]『大煙突の記録』p.195