史料 高萩炭礦閉山提案書 1967年

史料目次 ── はじめに|現在までの操業経過|最近6カ年間の収支の実態|自然条件と安定出炭の困難性|炭働員の急減と稼働率の低下|櫛形礦への集約|結論|転礦者(退職者)の取扱い|転礦者の取扱い


高萩炭礦(株)が経営する高萩炭礦(所在地は茨城県高萩市高萩)は1967年(昭和42)5月終掘し、8月14日に閉山となる[1]

会社から閉山(終掘、閉鎖)提案が高萩炭礦労働組合に対してなされたのは、同年2月3日の緊急労使協議会の席上のことであった。そこで示されたのが、ここに紹介する「企業統合による高萩礦の終掘閉鎖について」という文書である。

翌4日代議員大会、翌5日に臨時大会が開かれ、労組は閉山を承認した。

なお国(石炭鉱業合理化事業団)への整理促進交付金の申請は同年3月1日、鉱業権の消滅は同年8月14日に受け、交付決定は翌15日であった。

閉山提案書の内容をごく簡単に要約すると(1)赤字経営が続いている(2)切羽の深部への移行にともない出水量が増大(3)断層帯にぶつかり安定的な出炭の見込がたたなくなった(4)労働者不足と稼働率の低下、以上が閉山理由で、そして高萩礦の閉山後は櫛形礦に集約する、としている。「企業統合」の意味はここにある。だが統合先の櫛形炭礦は6年後の1973年に閉山することになる。なお退職者と櫛形炭礦への転礦者の取扱いについて末尾で会社側は提案している。

史料について

[本文]

企業統合による高萩礦の終掘閉鎖について

1)はじめに

 昭和37年第1回の調査団派遣による石炭鉱業の実態調査が行われ爾来政府当局は石炭鉱業のあるべき姿を求め関係諸機関を動員し、検討を重ねてきましたが石炭界をめぐる諸状勢は日を逐って厳しさを加え企業の体質は悪化の一途をたどり、もはや常識的な弥縫策を以てしては、全面崩壊必至と判断され一昨年来改めて抜本策が練り直され、去る7月石炭鉱業審議会による最終答申、次いで閣議決定が行なわれたものであります。

ご承知の通り、その内容に於ては曾て前例のない、1,000億円に上る負債の財政資金による肩代りを初め安定補給金、坑道掘進補助金など確かに抜本策にふさわしいものであるかも知れませんが要は、ビルド、スクラップの強化であり少くとも将来10カ年以上に亘る安定出炭と、45年度に於ける黒字転換が可能であるかどうか即ち、埋蔵炭量の外に雇用問題、自然条件等を含むビルド諸要件が満たされ体質整備が出来るか否かの決断を迫ったものであります。

2)現在までの操業経過

 当社は昭和15年6月資本金250万円で設立され、その後4回に亘る増資により現庄授権資本13,600万円(払込資本金5,100万円)となっております。その間昭和20年5月東邦炭礦株式会社より現在の櫛形礦を買収し操業を続けて参りました。

高萩礦の鉱区は茨採第97号外9鉱区で、面積1,340ヘクタール(約400万坪)となっており、当初10年間は秋山坑、北方坑、手綱坑、千代出坑および閉口坑の6坑により海水準下40米以浅の区域を沿層斜坑で採掘し、太平洋戦争下の旺盛な需要を賄って来たのであります。

終戦後は、一時極端な出炭減を見ましたがやがて戦後復興の基幹座業としての使令を担い石炭産業の全般が活況に突入しようとしたとき、高萩礦地区に於て昭和21年3月から24年12月までの4カ年間に亘る大争議が行われ、経営基盤は根底から覆されようとしたのであります。然しながらこうした苦難の中から漸次身命を賭した真剣な労使の活働が始まり、昭和22年来開さくを続けて来た新礦(現高萩礦)は同26年6月開坑され今日に到って居ります。

開坑以来昭和38年10月までの間は海水準下200米以浅の二次採掘でありましたが、同年10月以降は下部斜坑地山地区の採掘を行って来ております。因みに昭和27年度以降の出炭、人員、能率の推移は別紙(1)[2]の通りであります。

3)最近6カ年間の収支の実態

 昭和32年5月に行われた金融引締めは所謂神武景気に終止符を打つ結果となり一般景況は急激に悪化繊維、パルプを初め各業種に亘り売行不振、ストック過剰に悩まされ、過剰な重油のダンピングは石炭需要を極端に低下させ、重油の輸入規制にも拘らずこの頃から所謂「エネルギーの流体化」「消費構造変革」の傾向が一層顕著となって参りました。即ち昭和34年の初め頃から一般産業界の好転が見られましたが石炭界の不振は一向に改まらず、却って需要はほそり貯炭は増加する一方となり閉山、人員整理が相次ぎ、石炭鉱業の合理化問題が大きくクローズアップされたことはご承知の通りであります。

従って最近に於ける石炭各社の決算は何れも悪化しておりますが当礦に於ける最近6ヵ年の収支の実態はどうかと申しますと別紙(2)[3]の通り39年度を除き極めて悪化し、41年度は1億4,000万円の赤字となっております。

4)自然条件と安定出炭の困難性

 昭和38年11月下部斜坑右1片に於て待望の地山区域の採炭に入ったのでありますが、二次採掘のみを行って来た当礦の第一線にとって、地圧、湧水、断層など従来と異る自然条件は極めて重大な試練でありました。殊に左1片、左2片と深部へ移行するに従って、湧水は逐次増加して来ましたので下部開発のための積極的な排水対策として、昭和40年1月より排水ボーリング2本の掘さくを実施し450KWポンプ4台を購入設置し不時出水並に将来の強制抜水に備えたのであります。

そもそも自然条件は人智(技術)と人力(労働力)の有機的結合、即ち総合力の発揮によって初めて克服し得るものでありますが湧水に加えて、内断層の岐れと思われる断層帯を克服し安定出炭を維持することは現在の技術水準と不安定な労働力を以てしては殆んど不可能であり、経済的な可採炭量は左2片を以て限界と判断せざるを得ないのであります。

5)炭働員の急減と稼働率の低下

 第一回調査団の答申以来、離職者対策の行き過ぎと相俟って離山ムードが助長され、当礦に於ても別紙(3)[4]の通り炭働員の著しい減少を見ております。勿論その充足を計るべく“ヤマ”をあげて凡ゆる手段、方法を尽して努力してきましたが雇用する一方では退職者があとを絶たず、結果は減少の一途を辿っている実情であります。

然らば如何なる理由によるものであるかと言えば、第一は一般的な坑内労働の忌避、第二は坑内労働条件の相対的な低下と考えられますが、これらはたとえ抜本策の完全具体化を見たとしても直ちに問題が解消されるものとは思われません。(勿論労使と政府の力で可及的速やかに解決しなければならない重大な事柄でありましょう。)

このような炭働員の減少に加え稼働率の低下が合理化途上に大きな障碍となったことも衆知の事実であります。当方としましては最後の方途として旧臘来貴組合に対し、再三炭働員の増強と人員構成の是正を計るべく間接員(坑外員を含む)より直接員[5]への転換について協力方を要請し、当方に於ても極力努力致しましたが残念ながらその成果は上らず出稼率については85%の維持を目標に信賞必罰を以て、その向上を期待して参りましたが若干の上昇をみたに止り、誠に遺憾な結果に終りました。

6)櫛形礦への集約

 このような労働諸問題は石炭界一般の傾向でもありましょうが、特に当社の場合に於ては当礦のみならず櫛形礦に於ても全く同様であり直接員の確保如何と稼働率向上が“ヤマ”の存廃を決する重大要件となっております。

当礦の閉鎖は上記の外自然条件の悪化が重なり、これらが根本の理由でありますが二山を統合し埋蔵炭量の多い、而も良質炭の櫛形礦を両礦の労働力結集により全社的な視野に立って開発することに積極的な意義があるわけであります。

殊に櫛形炭については、既にご承知の通りここ数年間貴重な研究を重ねて参りましたが所謂、原料炭として転換が可能となり研究段階からいよいよ実用化の段階へ進んで来たのであります。即ち有機肥料として脚光を浴びつつあるフミン酸の製造原料、或いは製鉄用還元剤(砂鉄および粉鉱利用)或いはコーライト[6]、その他活性炭の原料等々幅広い分野に於て原料炭への脱皮が現実化しつつあるのであります。

このことは新しい需要分野の開拓ということのみに止らず燃料としての石炭需要が決定的な衰退過程にある現状に於てまさに画期的な成果と申すべく櫛形礦開発への意欲を一段と駆り立てることであろうと期待されます。

7)結  論

 顧みますと当地区炭礦の歴史は明治、大正、昭和の三代に亘り、当社創立以来、既に四分の一世紀を経過しその間幾多の先輩労使が地底の困苦と戦い時に災魔の跳梁に泣き、時に“ヤマ”をあげての喜びにわく。誠に“ヤマ”ならではの血と汗の哀歓の歴史でもありました。

企業の繁栄と従業員並に家族の幸福を願い今日まで労使が一丸となって努力したにも拘らず時勢の推移と自然の厳しさには抗し得ず、今日の事態に立ち至ろうとは偶々皮肉にも現在の出炭が良いだけに諦めきれぬ思いでありましょう。

然しながら人生に於けるさまざまな運命、或いは航路の迂余曲折があるように企業に於ても然りであります。

この上は会社も従業員も夫々に新しい方針を樹て再び前向きの姿勢を以て生れ代ろうではありませんか。

会社としましては別紙(4)[7]に於て提示しましたように直接員の大半の方々と間接員相当数の方々には櫛形礦への転換に協力して頂き、又近い将来開発を予定している小木津地区への進出にも協力して頂かなければなりません。

その他の方々も全員(自立希望者、自力による転職者、高令者等を除く)心配のないよう弊社系列会社に於て吸収を計る所存でありますので本提案の趣旨を御理解頂き別紙の提案[8]と併せて御諒承下されるようお願い申し上げます。

  (閉山の時期は昭和42年8月30日とします。)

 

[別紙]

転礦者(退職者)の取扱い

1 退職条件

(1)退職手当 現行退職手当規程第4条「事業上の都合による解雇」を適用する。
(2)身体障害者見舞金 八級以上の者に対し  30,000円
(3)殉職遺族見舞金 在山遺族の一名限りに対し  15,000円
(4)停年間近の者に対する措置 42年中に停年に達する者には夫々の勤続期間に応じて停年者の特別功労金(39年10月協定)を支給する。
(5)支払方法 上記の退職手当及見舞金は50%は閉山時とし、残50%は退山時、若しくは分譲住宅(社宅)購入時とする。
(6)其の他帰郷旅費 42年9月末までの帰郷者に対し
①旅費実費
②荷物運送費実費、但し最高額は10,000円を支給
を支給

2 福利厚生施設の利用

(1)社  宅 閉山後6ヵ月間従来通り使用を認める。但し其の間に土地、建家を評価し特別廉価で希望者に分譲する。
(2)電気料金 閉山後6ヵ月間は従来通りとし、其の後は東京電カヘ移管する。
(3)水道料金 閉山後6ヵ月間は従来通りとし、其の後は高萩市に移管、又はサービスセンターに於て実費徴集する。
(4)浴  場 閉山翌月よりサービスセンターに於て実費を徴収する。
(5)塵介糞尿処理 閉山後6ヵ月間は従来通りとし、其の後は高萩市へ移管。
(6)サーピスセンター
  高萩営業所
存続させる。
(7)第一診療所 存続させる。
(8)理髪所、美容室  存続させる。

3 雇傭の確保

(1)就職斡旋 本人の協力を前提として全員就職出来るよう斡旋に努力する。
(2)閉山管理事務所の
 設置
総務課内に閉山管理事務所を設置、就職斡旋、閉山業務を取扱う。
(3)就職斡旋協議会 円滑な斡旋の推進を計るため、閉山後6ヵ月間を限り本協議会を設ける。

4 其の他の諸取扱い

            別途協議とする。                   

転礦者の取扱い

転礦条件

1.転礦者の範囲 直接員は全員とする。
2.転礦者の身分 所内配転であるので身分は従来通り勤続年数は夫々継続する。
3.転礦有給休暇 転礦のためのケ処見、保安教育のため有給休暇(平均賃金)2日を与える。
4.転礦者の賃金及び歩
 立
転礦後2ヵ月分は過去3ヵ月間の平均実績本人給を個別に補償する。其の後は櫛形礦の歩立のあり方及び本人の2ヵ月間の実績を勘案して決定する。
定額給者の賃金2ヵ月間は本人の手持本番給とし、其の後実績を勘案し櫛形礦ベースにより本番給を決定する。
その他は櫛形礦の賃金体系による。
5.通勤手当 現状は収容社宅が整わないのでバスによる通勤とする。通勤期間は一ヵ月500円の通勤手当を支給する。
6.転宅手当 世帯主 5,000円   単身者 1,000円
7.転宅有給休暇 世帯主のみ一日
8.転礦の期日 別途協議
9.転礦一時金 直接員30,000円  間接員20,000円  坑外5,000円
3ヵ月勤務したとき

[註]

  1. [1]高萩炭礦閉山の概略については、当時の新聞記事が参考になる。1967年2月6日付、6月26日付の『いはらき』新聞である。炭礦の社会史研究会編『新聞記事にみる茨城地域の炭礦と社会 昭和編3』(pp.243-244)に収録されている。
  2. [2]別紙(1):本史料には欠
  3. [3]別紙(2):本史料には欠
  4. [4]別紙(3):本史料には欠
  5. [5]直接員:坑内で出炭に直接的にかかわる採炭・掘進・仕繰(支柱含む)・充塡の作業に従事する。間接員:坑内で間接的に出炭にかかわる運搬・機械・電気・工作・その他の職種をさす。
  6. [6]コーライト:コークス
  7. [7]別紙(4):本史料には欠
  8. [8]別紙の提案:本史料には欠