大煙突後の煙害2
史料 日立鉱山煙害調査書二

島崎 和夫

多賀郡役所の調査

日立鉱山の煙害にたいし、多賀郡全域を対象として1915年(大正4)9月16日から17年(大正6)3月末まで多賀郡会による調査がなされ、報告書が発行されたことは、こちら 大煙突後の煙害史料 多賀郡煙害調査書 で紹介した。

郡会の調査が終了してから3ヶ月ののち、1917年(大正6)7月から今度は多賀郡(役所)による調査がはじまる。そして調査報告書がまとめられる。

前記「大煙突後の煙害史料」において、参考文献として山口秀男「煙害調査会始末記」『郷土ひたち』第14号(1966年)をあげておいた。実はこの論考につづけて「煙害調査資料追捕 多賀郡役所の報告」と題する郷土ひたち文化研究会編集部による記事が載っている。この記事の元となった史料を確認できなかったのでペンディングしておいたが、原本ではないがコピーが最近日立市郷土博物館に収蔵され、閲覧することができたので紹介する。

史料は綴文書でその表紙には「自大正六年度/煙害調査報告綴/日立村調査主任」とある。その綴文書の中に「自大正六年七月一日/至大正七年三月卅一日/日立鉱山煙害調査書/多賀郡役所」の表題をもつ謄写版の印刷物がある。発行者は多賀郡役所、発行時期の記載はないが、おそらく1918年(大正7)中、調査期間は1917年(大正6)7月1日から翌18年3月31日まで。

目次は、(1)煙害調査起因(2)煙害調査方法(3)煙害調査規定(4)煙害調査主任心得(5)煙害調査成績(6)煤煙襲来月別調(7)煙害調査材料ノ試作並ニ成績(8)煙害調査概念(9)煙害調査員及町村調査主任職氏名(10)町村煙害調査員氏名の10項目が設定されている。

これらのうちから一部をぬきだす。
一、煙害調査ノ起因
大正五年通常郡会ノ決議ニ依リ、日立鉱山噴煙中ニ含有セル亞硫酸ガスガ如何ニ郡内ノ農作物並森林等ニ被害シツツアルカノ調査ヲ大正六年度ヨリ実施スルコトニ決定セラレタルニ依リ、直チニ郡ニ調査員四名、町村ニ調査主任一名宛計二十名ヲ置キ調査セシムルコトトシ、町村調査主任ハ当該町村長ノ推選ニ依リ郡之ヲ嘱託シ、調査区域ハ郡一円ニ亘リテ努メテ正鵠ノ調査ヲ期セシメタリ

1916年(大正5)の多賀郡会通常会で日立鉱山の煙害調査の実施が決議され、ようやく郡役所は重い腰をあげる。調査は1917年(大正6)度から開始することに決し、調査態勢が整えられた。

このあと同年6月26日に町村主任会議が開かれ、調査規程や調査方法、調査主任心得等を決め、7月1日から郡内の各町村で調査が開始された。このときは郡会の調査と異なって、郡内のすべての町村、南の坂上村から北の平潟町まで20町村が参加した。

八、煙害調査概念

以上ノ諸表ハ各町村煙害調査主任及本郡ニ於テ調査セル結果ヲ綜合シタルモノナリ
要スルニ日立村以南ノ町村ニ於テ襲来回数ノ最モ多カリシハ坂上村ニシテ、河原子町之ニ次キ、国分、鮎川ノ二村又之ニ次グ、高鈴村ハ全ク襲来ナシ、故ニ今後ト雖モ風向如何ニヨリ時々襲来アルヘキモ、激甚ナル被害ヲ現出スルコトナカルベシ
日立村以北ノ町村ニ於テ煤煙ノ襲来ハ高岡村ノ八十一回ヲ最多トシ、黒前村ノ六十八回之レニ次キ、松岡、松原、櫛形、豊浦、南北中郷、華川、日高、平潟、関南、大津等ノ町村順次ニ襲来アリタリ、即チ南方ノ町村トハ大ニ趣キヲ異ニシ、日高村大字小木津、豊浦町大字砂沢、櫛形村大字友部、黒前村、高岡村等ニ時々顕著ナル被害ヲ表ハシ、殊ニ山林ニアリテハ黒前、高岡ノ二村被害ノ焦点ナルガ如シ、元来作物減収ノ原因ハ其年天候ノ良否ハ勿論、土地ノ肥痩及栽培方法ノ如何並病中害其他種々ノ関係ニヨリ決定セラルヽモノニシテ果シテ何レノ原因ニヨリ減収ヲ来セルカ調査頗ル至難ナリトス
山林被害調査尚且然リ、故ニ被害調査方法トシテ簡単ナル坪刈法又ハ外観変色状態鑑定等ニテハ其目的ヲ達スル蓋シ容易ノ業ニアラサルベシ

煙害調査の結果概要(概念には「大まかな意味内容」という意味がある)が示される。

日立村以南の坂上村から高鈴村では被害がでていないという。しかし煙突からの距離に反比例して排煙の「来襲」が多くなる。隣村の高鈴村にいたっては「全ク襲来ナシ」。今後は「激甚ナル被害ヲ現出スルコトナカルベシ」と予測している。

一方日立村以北の地域での排煙の襲来は「南方ノ町村トハ大ニ趣キヲ異ニシ」ていると言う。山間の高岡・黒前の2村にもっと多く、おおよそ遠くなればその回数は少なくなるが、煙突からの距離には比例しない。

そして前回の多賀郡農会の調査報告と同様に、作物の減収、樹木の枯損被害の原因を特定するのは難しいと結論づけている。

備考
日立鉱山最近一ヶ年間本郡内に支出したる補償金額
大正三年分  拾万九千八百九十八円六十七銭(旧煙突当時)
自大正五年一月 至〃十二月 四万九千五百四十一円八十銭
自大正六年一月 至〃十二月 四万四千八百六十五円二十三銭

上は日立鉱山が煙害のため多賀郡の被害者に支払った補償金の書上げである。1914年から1916年にかけて55%の減少である。これは大煙突の効果であることにちがいない。しかしこの値をどう評価するかである。被害者側の視点でみるか発生源の側から見るかで異なるだろう。1915年(大正4)分が抜けているが、理由はわからない。1917年(大正6)年の補償額が前年と変わりがない。調査概要は、日立村以南では「激甚ナル被害ハ現出スルコトナカルベシ」といっているが、それは被害が激しかった1914年(大正3)以前に比較してのことなのだろうが、そうであっても劇甚期の半分の補償がなされているのである。そのあたりの事情については確かなことはわからないが、大煙突だけでは効果が薄いと考えて、その後別子銅山が行なっていた制限熔鉱を日立鉱山は取り入れたことによるのかもしれない。

その後の調査

多賀郡はこの1918年(大正7)3月末日で調査を打ち切ったわけではなかった。被害は少なくなっても、原因が特定できなくても、煙害と思われる被害はでていたからである。それは日立村が1919年(大正8)12月まで調査を続行し、多賀郡役所に報告していることからわかる(前出「煙害調査報告綴」)