国内主要炭礦会社の出炭高
— 戦中から戦後 —

目次 ── 主な会社別出炭高|常磐地区の主な会社別出炭高|国内地区別出炭高


戦後まもなく発行された『石炭統計便覧』というものがある。その中に「主要会社経営炭礦出炭高表」という見出しがついた表がある。この表は経営者—炭礦—地区—年度の項目を設け、国内主要炭礦会社の炭礦別生産量を書き上げている。

ここでは炭礦別の出炭高は省略して紹介する。

なお常磐地区にかぎらず、炭礦を経営する企業と炭礦それ自体の変遷は激しいものがある。したがってここに紹介するものは1945年のアジア太平洋戦争の敗戦の年をはさんだ3年間という特異な状況の一断面であることを強調しておく。

史料について

主な会社別出炭高

表1 国内主要会社別出炭高表(単位:千トン)
経営者 地区別 1944年度
(昭和19)
1945年度
(昭和20)
1946年度
(昭和21)
炭礦名
三井鉱山 北海道 3,016 1,446 1,135 砂川・美唄・新美唄・芦別
九 州 6,668 2,832 2,636 三池・田川・山野
9,684 4,268 3,771
三菱鉱業 北海道 2,227 1,143 787 美唄・大夕張・日本夕張
九 州 4,483 1,862 1,771 崎戸・鯰田・飯塚・新入・方城・高島・上山田・勝田・粕屋
6,710 3,005 2,558
北海道炭礦汽船 北海道 5,280 2,607 1,813 夕張・空知・幌内・赤間・万字・新幌内・眞谷地・登川・平和・角田・遠幌
井華鉱業 北海道 1,520 749 589 赤平・奔別・歌志内・上歌志内・奈井江・新歌志内・弥生
九 州 735 355 385 忠隈・潛龍・芳ノ浦・唐津・三岳
2,255 1,104 974
明治鉱業 北海道 240 119 170 昭和・上芦別・庶路
九 州 1,367 683 655 赤池・豊国・平山・西杵・高田・立山・天道
1,607 802 825
宇部興産 西 部 1,893 722 797 沖ノ山・東見初・山陽無煙・本山
日鉄鉱業 九 州 1,679 810 758 二瀬・鹿町・稲筑・矢岳・神田池野神林
古河鉱業 東 部 478 233 280 好間
九 州 925 480 478 大峯・目尾・下山田
1,403 713 758
常磐炭礦 東 部 1,197 671 870 常磐・中郷・神の山
貝島炭礦 九 州 1,590 623 529 大ノ浦・大辻・岩屋
麻生鉱業 九 州 1,049 426 380 芳雄・吉隈・綱分・豆田・久原
日本炭礦 九 州 1,205 495 547 高松・山田・矢岳
杵島炭礦 九 州 815 392 405 杵島・北方・大鶴
嘉穂鉱業 九 州 384 178 193 嘉穂
雄別炭礦鉄道 北海道 742 338 452 茂尻・雄別・尺別浦幌
大正鉱業 九 州 289 156 177 中鶴
昭和電工 北海道 279 132 106 豊里
大日本炭礦 東 部 247 137 196 勿来・磯原
太平洋炭礦 北海道 266 110 267 太平洋
旧組合系[1]
経営者 地区別 1944年度
(昭和19)
1945年度
(昭和20)
1946年度
(昭和21)
東幌内 北海道 163 71 71
高 萩 東 部 231 117 154
沖宇部   西 部 184 64 117
萩 森 152 80 69
新 手 九 州 248 92 91
昭 嘉 205 65 56
早 良 233 51 77
江 迎 206 71 70
松 浦 201 107 81
豊 洲 173 71 97

[註]

  1. [1]戦時体制下における石炭の生産と分配に国家が介入することを目的に、1941年11月石炭統制会が設立される。この統制会に単独加入する大手(年産30万トン以上出炭)炭礦(鉱業権者)と地区統制組合(共販会社)に加入する中小炭鉱とに分れた。前者の単独加入の大手とは、三井鉱山以下の19社をさす。旧組合系というのは、後者の地区統制組合に加入していた炭礦という意味である。常磐の場合、福島県側は仙台地方石炭統制組合、茨城県側は東京地方石炭統制組合に属した(1941年10月12日付『大阪朝日新聞』記事 「石炭統制会設立要綱決定」 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫)。

国内における常磐地区の位置

国内の石炭産出地は九州、西部、東部、北海道の四地区である。西部は山口県、東部は常磐(福島・茨城県)。これら四地区で生産を展開する大手19社のうち、常磐地区では9位に常磐炭礦、18位に大日本炭礦の2社が入っている。

戦時下の生産

アジア太平洋戦争下の石炭産出は、1943年(昭和18)がピークである。翌44年から減少をはじめ、敗戦の年が底となり翌46年からの回復傾向は表の通りである[2]。戦時下の減少は、労働力と生産資材の不足によるもので、そのために勤労報国隊の編成や樺太の炭礦からの転換、朝鮮人強制連行が行われたものの、結果は表1の通り。

なお1945年度における出炭量の低下原因については、こちら 「茨城県内の炭礦一覧 1948—49年」 で『東部石炭年鑑 昭和23・24年版』の記述を紹介しておいた。参照されたい。

  1. [2]これは日本の産業全体に言えることである。日立鉱山の場合、産出粗鉱量をみると1943年ピークの83.5万トンから、44年は75.2万トン、45年26.6万トン、46年10.3万トンと低下し、翌47年に上向きに転じ、14.8万トンという推移をみせる(『日立鉱山史』p.427 1952年)。

常磐地区の主な会社別出炭高

常磐地区について会社ごとにやや詳しくみておこう。出炭高を会社別に示す。

表2 常磐地区出炭高表(単位:千トン)
経営者 炭礦名 所在地 1944年度
(昭和19)
1945年度
(昭和20)
1946年度
(昭和21)
古河鉱業 好間 福島県 478 233 280
常磐炭礦 常磐 福島県 1,141 607 733
中郷 茨城県 50 58 101
神の山 茨城県 6 6 36
合計 1,197 671 870
大日本炭礦 勿来 福島県 242 132 178
磯原 茨城県 5 5 18
合計 247 137 196
高萩炭礦 高萩 茨城県 231 117 154
県別合計 茨城県 292 69 291
福島県 1,861 972 1,191

回復がはやい茨城側炭礦

規模が小さいゆえなのか、1945年の落ち込みも激しい(44年の1/4程度)が、回復も早い。常磐の中郷礦は、そうしたなかでも逆に出炭高を伸ばすという他の炭礦とは異った動きを示している。中郷礦には朝鮮人強制連行が行われており、45年5月現在で166人(内坑内に104人)がいた[3]ことが理由のひとつかもしれない。

  1. [3]炭礦の社会史研究会編『聞きがたり茨城の炭礦に生きた人たち』解説

国内地区別出炭高

表3 国内地区別出炭高表(単位:千トン)
地区 規模 1944年度
(昭和19)
構成比
(%)
1945年度
(昭和20)
1946年度
(昭和21)
構成比
(%)
北海道 大手筋[4] 13,570 27.5 6,644 5,319 23.6
その他 839 1.7 328 483 2.1
14,409 29.2 6,972 5,802 25.8
推移100 48 40
東 部 大手筋 1,922 3.9 1,041 1,346 6.0
その他 1,512 3.1 804 1,215 5.4
3,434 7.0 1,845 2,561 11.4
推移1005475
西 部 大手筋 1,893 3.8 722 797 3.5
その他 2,069 4.2 835 1,102 4.9
3,962 8.0 1,557 1,899 8.4
推移1003948
九 州 大手筋 21,189 42.9 9,282 8,914 39.6
その他 6,341 12.9 2,679 3,347 14.8
27,530 55.8 11,961 12,261 54.4
推移 100 43 45
総計 大手筋 38,574 78.2 17,689 16,376 72.7
その他 10,761 21.8 4,646 6,147 27.3
49,335 100 22,335 22,523 100
推移 100 45 46
  1. [4]大手筋:たとえば1944年度の大手筋の総計出炭量3857.4万トンは、表1の三井鉱山以下19社の合計に一致するので、大手筋とは年間30万トン以上を生産する炭礦会社をさすことがわかる。したがって「その他」は年間30万トン未満の中小炭礦会社による生産活動の結果である。

九州と北海道で9割、大手19社で8割

1944年における国内石炭の産出高は4934万トン。(1)九州地区が56%、ついで北海道30%で、この二つの地区で9割近くを占める。(2)「大手筋」つまり表1にある19社が78%を産出している。圧倒的な高さである。

常磐地区の石炭が占める割合は7%に過ぎない。宇部地区も常磐と同様。

中小が強い西部と東部

九州・北海道に比して、西部と東部においては大手と中小の生産規模の差は大きくない。拮抗しているか、西部では中小が大手を上回っている。

回復がはやい常磐地区

1944年を100とする産出高の推移をみると、国内全体としては100—45—46だが、東部(常磐)においては、100—54—75という回復ぶりである。この理由について1946年1月28日付『茨城新聞』の記事(見出し「出炭量割当を超過 茨城炭田出炭意欲上昇」)は以下の4点をあげる。[5]

第一にあげられている回復理由、経営者と労働者の関係が家族的雰囲気にあり、また労働運動が低調であることによるという指摘はプロパガンダ臭がする。新聞記者の考えかたでもあると同時に取材先の茨城県の考えかたであろうが、戦時下の国民精神総動員運動を引きずっている感がぬぐえない。敗戦から半年たったにすぎない。変われと言うのは酷だろう。

むしろ第二と第三にあげられている、労働力の確保がうまくいったこと、大消費地東京を控えて石炭の鉄道輸送に便宜が加えられたことが回復の最大理由、つまり労働力と輸送力が回復の決め手だったのではないか。

なお次のような指摘がある[6]。

中小炭鉱の場合は既に述べたように維持を要する坑道も短かく機械設備と称すべきほどのものは小型捲上機の外にはこれと云うべきものもなく、もつぱらツルハシとスコップの筋肉労働に依存して来たので、労働力の充足に伴つてその生産は急速に回復することが出来たのであるが、大手筋炭鉱においては機械化が広く行われているだけに生産力の荒廃も著しく、したがつてその回復速度も遅かったのである。

しかも、こちら 茨城県内の炭礦一覧 1948—49年 において指摘したように、常磐地区においては労働力の充足率がたかく、あわせて使用権(請負掘・斤先掘り)を設定している炭礦が多いことが出炭量の回復に寄与していることも考えられる。

  1. [5]炭礦の社会史研究会編『新聞記事にみる茨城地域の炭礦と社会 昭和編2』p.5
  2. [6]通商産業省石炭局編『高炭価問題と合理化の方向』p.49(1953年)