史料 久慈町の交通
— 物と人の動き —

目次 ── 一、交通線の発達[常磐線の開通]|二、現今主なる交通機関[近代の輸送手段]|三、鉄道[大甕駅からの出荷・大甕駅乗降客]|四、道路(一)国道[宿場の衰退]|(二)県道[新設される県道]|(三)里道[里道七本]|客馬車[村松村から見ると] [ ]内解説


こちら 久慈町割山の聖徳太子碑 において、碑の建つ地点から太田へ向う道と村松へ向う道路の開設時期を1897年(明治30)の常磐線開通前後ではないかと推測していたが、「久慈町郷土誌」に1901年(明治34)と1904年(明治37)に造成されたとの記述があった。いずれも常磐線開通後である。調査不足でした。そこで久慈町内の交通について広くふれている本史料を紹介する。

史料について

 1940年久慈町周辺地図
  国土地理院地図より 1918年当時、この地図にある常北電気鉄道とゴルフ場はまだない。

凡例

第十二章 交通

一、交通線の発達

久慈町は従前交通甚だ不便にして、第十五号国道陸前浜街道の字大甕を通ずるあるのみにして、隣村との交通も僅かに不完全なる里道に依るのみなりしが、明治二十九年日本鉄道海岸線の敷設せらるゝや當町地内を南北に貫通し、隣村多賀郡坂上村水木との境に大甕停車場を建設せらる。市街を距る北方約十八町なり。尋いで當町を起点として北大甕停車場を經て平潟町に通ずる縣道を明治三十一年一月に開通せられ、同三十二年十二月南坂上村を経て東京街道を新に開通せられたり。こゝに於て南北に通ずる二縣道及汽車の便開くるに至り、明治三十七年六月新に鉄道線路に沿ふて字鬼越より東小沢村大字留に通ずる里道を開通し、旧時殆んど人力車によりては交通不可能なりし我が久慈町は、陸路の交通自由なるの地となり、人力車業を營むものも漸次増加するに至れり。久慈川は川水少く従って交通上の便益を與へ、且つ隣村東小沢及石神村、村松村との交通を助くること尠なからず。

郵便局は明治二十五年十一月に設置せらる。同三十三年九月より電信の開通ありて、今や鮮魚の如きは商賣が東京其の他に於て價格を尋ねて後購買するが如き便益を得るに得たれり。

常磐線の開通

久慈町の交通の発達は、1897年の常磐線の開通にともなう大甕駅設置をきっかけはじまる。従来は交通不便の地であったが、それを契機に県道をはじめ新に里道までが整備され、人力車さえも通わなかった久慈町が町内だけでなく隣の東小沢村や久慈川をこえて石神村やその先の村松村との行き来もたやすくなったと言う。

県道では明治31年1月が開通した久慈町を起点として大甕駅を経由し水木、河原子そして平潟への海沿いの道が代表的なものである。

常磐線の開通は、その3年後の電信の開通とあいまって久慈町の漁獲物は東京ばかりでなく各地の市場価格をみながら販売先を決めることができるようになり、町の漁業者の利益となったと。

二、現今主なる交通機關

本町に行はるゝ交通機關は人力車・馬車・自轉車・荷車・船・汽車・郵便・電信・電話等にして、各割合に古き歴史現状を表示せん。

種別   創設      現在數      種別   創設      現在數

鉄道  明治二十九年   一      船   不詳     二八九

人力車  不詳      六      客馬車          一

荷馬車  〃       九      郵便  明治二十五年   一

自轉車  〃      六一      電信  明治三十三年   一

荷車   〃     五〇七      電話  明治四十四年   一

近代の輸送手段

鉄道・人力車・荷馬車・自転車・荷車などの人や物の輸送手段は近代の所産である。人力車以下いずれも平坦な道路があってはじめて利用可能となる。船が交通機関に分類されて数値があげられているが、大半が漁船のことであって、貨物輸送船ではないだろう。

三、鉄道

常磐線は那珂郡石神村より東小澤村留を經て本町に來り、割山より權現山をすぎて本町を南北に貫通し多賀郡坂上村水木地内大甕停車場に達し、さらに北して平仙臺方面に通ぜり。然れ共其の通過地域たるや本町中殆ど聚落を見ざる地方にして、其の停車場は位置本町市内より十八町の距離を有す。之れ本町産業發達の一障害たるは疑ふべからず。日常生活上の不便も亦誠に僅少にあらざるは町民の等しく感得する所なり。吾人は常にこの大不便をしのぎて本町の生産品を停車場に輸送しつつある車馬の往来を見る毎に彼等の努力の多大なるに敬服せざるを得ざるなり。

[久慈町各所より大甕駅への距離と所要時間表 略]

[大甕駅発着時刻表 略]

[大甕駅大正3・4・5年度出入貨物累年比較表 略]

[大甕駅大正5年度及び大正5年度月別貨物出入表 略]

大甕駅からの出荷

1916年(大正5)度の大甕駅での出貨量300トン以上をあげると、鮮魚891トン、木材770トン、石材738トン、麦661トン、石灰372トン、塩干魚357トンとなる(総計4444トン)

鮮魚・塩干魚は久慈町であるが、石灰は世矢村(常陸太田市)、木材・麦は出荷地は里川及び久慈川流域左岸の村々であろう。

大甕駅乗降の旅客數は割合に少く到底近傍の助川水戸の比にあらざる、大正三年度に於て約八万人なりしが、大正五年[1916]度は十三万人を超え、漸次其數を増しつゝあり。其の旅客の多くは商業取引のものと學校参観人となるも久慈町の特徴を語るものとして注目に値すべし。

[大正3・4・5年度乗降客数、主要方面別乗降客数統計 略]

助川驛より降客及助川への乗客何れも第一位を示せるは、日立行の従業者の本驛に乗降するが故ならん。

[大甕駅からの主要駅への距離・運賃表 略]

[大甕駅からの客馬車・人力車運賃表、発車時刻表 略]

大甕駅乗降客

大甕駅の利用者の多くは「商業取引のものと学校参観人」だとしているが、近年大甕駅の利用者が増えているのは、助川駅との乗降客で、それは「日立行」つまり日立鉱山・日立製作所の通勤客によるものであるという。1916年段階ですでにこうした状況が生まれている。

四、道路

(一)國道

濱街道と称し水戸市より來り、東小澤村、坂本村を經て本町北部に入り、大甕附近の山地と台地との界線を限りて大甕神社の邊より北折し多賀郡に入り、遠く仙台に通ず。この道路は延長三百八十七間三尺、砂利にて固められ修理もよくとどけり。されど之を利用するものは殆んど坂本村住民にして本町民のここを往來すること稀少なり。之れ全く常磐線開通の影響にして昔日は繁昌せし旅館數戸あり。所謂大甕宿は旅客一同の疲勞を慰する処たりしが、今は僅かに料理店を兼業し居るたるに過ぎず、故に現今にては時々行商人の往來するか、日立鉱山の出稼人を見るのみ。然れ共なほ太田町より來る多賀方面行の貨物及び大甕停車場に集る物貨乗客の往来するを以て交通盛にして、乗合馬車・人力車・荷馬車等往来す。

宿場の衰退

浜街道(この時は国道15号)を久慈町民が利用することは少なく、しかも大甕神社前の大甕宿は常磐線開通により衰退しているという。こうした事態は他の従来の宿場についても言えることであろう。遠距離間の物と人の輸送は鉄道にとって代わった。一方太田町方面からの多賀郡への物資及び大甕駅への物資と人の往来が多くなったことを指摘する。

(二)縣道

太田町より久慈町に通ずる縣道は最もよく修繕せられ砂利にて固められ堅牢なり。坂本村より来たり台地の南縁を略茂宮川に並行して来り、地先にて常磐線を横断し来り割山を過ぎて久慈町字新宿町に入る。

この道路の開通せしは明治三十四年にして、其の以前には坂本村に通ずる道路は南高野の台地を上りて台地上を過ぎたりしなり。この道路を最も多く利用するものは本町の魚商人と坂本村、東小澤村の住民となり。道路平坦にして坂路は僅に割山より本町市街に入る所とに一ヶ所あるのみなれば荷車を用ふるに便なり。毎朝未明より魚商人の勇ましき車の響きを聞くべし。坂本村・東小澤村等より野菜其の他を久慈町に運搬し、本町よりは肥料、雑貨等を求めて往来す。

久慈町本町より起り行戸を経て大甕駅前を通過し、水木河原子等に通ずる県道は明治二十九年十一月開通せられたるものにして、本町民が水産物を停車場に運搬するの唯一の通路たり、台地上は平坦なるも濱の坂の急坂路を有すると雨後泥濘を來すこと多きことは大なる缺点とす。故に下濱の魚商は多く字泉町より三反田を通りて台地上に出で本県道に合するによれり。常磐線により本町に出入するもの皆本道路に依る。久慈町大甕間十八町あり。

本町に通ずる道の延長は二千三百三十間あり。

新設される県道

久慈町の西の外れ割山にある聖徳太子碑を傍らを通り太田町に向う道は、1901年(明治34)に建設された。道路は平坦で、唯一の坂道は割山の常磐線踏切(たしかに前後の標高差は約5メートルある)。主な利用者は久慈町の魚商人と隣りの坂本・東小沢村の村民が野菜を持ちこみ、帰りには肥料や雑貨を手にして帰る、と説明する。

久慈町から大甕駅そして水木・河原子への県道開通はここでは明治29年11月とあるが、「一、交通線の発達」では、明治31年1月とする。いずれが正しいものかわからない。しかしこの県道は北の高台にある行戸への急坂をのぼらなけらばならず、そのため本宿の魚商人はゆるやかな字三反田を経由する里道(現在のくじ保育園の西側の道)を用い、東側からやってくる県道に入り、大甕駅に向う。

(三)里道

本町に通ずる里道の延長は十里三町四十間ありて

1.久慈町泉町より南高野の聚落に通ずるもの

2.新宿町より南高野に通ずるもの

3.久慈町字舟戸より渡船にて対岸大砂洲に出て石神豊岡に通ずるもの

4.離山上をすぎ上舟戸の小聚落を連ね更に渡船によりて東小沢村留に通ずるもの

5.行戸町より海岸崖上を通りて字古房内に至り、更に水木に達するもの

6.大甕停車場に至る縣道の途中より分れ、鐡道線路を横切り、大甕の聚落に達し、濱街道に合するもの

7.割山にて縣道より分れ、常磐線路にそひ東小澤村留に達するもの

其の他各道路間を接續するもの等にして、就中7等は最もよく修繕せられ、中には青年團員の修繕せるものもあり、されど畑地の間を通ずるものには車を通ずる道幅あるべき筈のものを耕作者のため狭められたる部分なきにあらず。

されど一般に毎年晩秋に手入をなすに依り形態は完全なり。たゞ土質腐植質土なるを以て雨天に際して泥濘甚しく歩行も困難なる所あるは遺憾なり。

右の中1は南高野より本町に野菜類をひさぐ者の通路たり。

3は村松虚空藏に参詣する本町民及多賀南部の人士の通路たり。

里道七本

里道(村道)のうち他の地域とつながる道路を7本あげる。

1と2は江戸時代以来の西方の台地に向かう道。南高野村を経て石名坂村の岩城海道に出る、そこから真弓方面に向かうこともできる。
 3と4は茂宮川と久慈川の渡船。3は村松の虚空蔵尊参詣の道。
 5は北(水木)へ向う江戸時代以来の道。
 6は大甕神社へ向う道。現在の日立商業高等学校から大甕ゴルフ場内を抜け、国道15号線(通称陸前浜街道)に出る道でもある。
 7は割山の常磐線踏切手前から南に折れ、常磐線にそって東小沢村留に向う道。1904年(明治37)開通。

船渡し 江戸時代に久慈の宿屋敷から南の字舟戸(舟戸=フナド=舟渡)の山を越えて茂宮川にでると、そこに舟渡しがあった。江戸時代末期の久慈村の絵図に「船頭給」と書かれた土地が数筆描かれている。大正中期にも残っていた。それが「4.離山上をすぎ上舟戸の小聚落を連ね更に渡船によりて東小沢村留に通ずるもの」である。

明治に入ると字舟戸の東、久慈川河畔から砂洲状の対岸にも船渡しができた。それが「3.久慈町字舟戸より渡船にて対岸大砂洲に出て石神豊岡に通ずるもの」である。舟戸の坂を昇り降りしないで済むようになった。1906年(明治39)の国土地理院の地図にこの砂洲に道が描かれているのは、この船渡しによるものである。明治に入っての荷馬車での輸送に対応したものである。

大正中期においても依然として船渡しが存在したのである。

客馬車

 太田大甕間、太田久慈間には明治四十二年頃より乗合馬車開通し、追々其数を増し、大に旅客に利便を与えつゝありしが、大正六年七月に至り郡内有志者により久慈交通株式會社なるもの組織され、爾来時間の確守と回数の増加とにより一層の便利を感ずるに至れり。今一日に往来する客馬車数と時間、停車場を示せば左の如し。

 客馬車

  1.客馬車往復數  一日三回

  2.停車場  太田.幡.岡田.小目.大和田.石名坂下.久慈.大甕

  3.時間   片道一時間半

  4.賃銭  太田.幡間      五銭

       太田.岡田間    二十銭

       太田.小目間    二十五銭

       太田.大和田間   三十銭

       太田.石名坂下間  三十五銭

       太田.久慈間    四十銭

       太田.大甕間    四十銭

 自働車

  1.自働車往復數  一日四回

  2.停車場  客馬車ト同ジ

  3.時間   片道三十分

  4.賃銭  太田.幡間      十銭

       太田.岡田間    三十五銭

       太田.小目間    四十銭

       太田.大和田間   五十銭

       太田.石名坂下間  五十五銭

       太田.久慈間    七十銭

       太田.大甕間    七十銭

村松村から見ると

久慈川河口の砂洲の一部は那珂郡村松村大字豊岡である。その村松村の尋常高等小学校編の「村松村郷土誌」(『東海村史編纂資料Ⅰ』所収)に記述される久慈町について交通に関連する部分をぬきだして紹介しよう。

久慈郡久慈町ハ久慈川口ニ臨ミ、本村豊岡ノ一部ト相対ス、[中略]本村ヲ距ルコト二里三町ナレトモ海岸通リヲ為セバ一里余ナリ、[中略]交通、便宜シク太田町大甕間ハ馬車ノ往路アリ、大甕ニハ停車場アリテ鮮魚其他ノ海産物ハ此処ヨリ輸出セラル、東京久慈町間直通電信架設シアリ、以テ漁商業ノ盛ナルヲ見ルベシ、本村[村松村]人ハ種々ノ買物ノ為メ常ニ往来シ、本村ハ此地ヨリ魚類ノ供給ヲ受クルコト多シ、本村大字豊岡圷ノ男子ニシテ久慈漁船ニ稼ニ行ク者アリ

[この項は 2018-03-14 追加]