久慈町割山の聖徳太子碑
久慈川流域の生産と流通
2017年12月撮影
日立市久慈町割山の常磐線踏切脇に「聖徳太子」と刻まれた大きな石碑が建っている。
その題額には「千三百年紀年」とある。表には建立者の名「桶師組合」が刻まれている。
大工、木挽、左官、桶屋などの職人たちは、それぞれ同業者集団として聖徳太子を信仰している。その「桶師」が聖徳太子の没後1300年を紀年して碑を建てたものである。
裏に回ると建立時期が「大正八年[1919]旧八月二十二日」とわかる[1]。さらに石碑建立にあたっての寄付者名、住まいと金額が刻まれている。一般的な石碑の形式である。
高さ2.5メートル。0.9メートルの台石にのっている。石工は久慈町の吉田角之祐。
建立者
建立者である桶師組合の組織人以下13人の組合員名が裏面下方に刻まれている。
組合組織人照沼安蔵・市毛春次郎はともに那珂郡石神村(東海村)の人、組合長宇野六之助は久慈郡幸久村(常陸太田市)、副組合長野上卯之太郎は那珂郡山方村(常陸大宮市)、幹事は二人、會澤政次郎は那珂郡木崎村(那珂市)、鈴木善之平は久慈郡久慈町新宿。一般組合員7人は久慈町の西野半吉・澤畑幸太郎・原倉吉・鈴木政吉の4人、久慈郡東小沢村神田(日立市)の黒澤芳松・萩谷丑五郎の二人、平野政之助は不明。
組合員はいずれも久慈川に沿った村々にひろがる。最上流は山方村、最下流は久慈町。
最下段の6段目に発起人5人の名がある。いずれも桶師組合の役員である。
寄付者
寄付者名は4段に分けて記載されている。
1段目
多額寄付者15人。やはり桶師組合の役員6人と一般組合員4人と多い。そのほか久慈町の材木店と個人各1、那珂郡嶐郷村鳥子(常陸大宮市)、同郡芳野村鴻巣(那珂市)、多賀郡黒前村山部(日立市)からの寄附がある。
2・3段目
「太田町材木商部」「竹商部」「桶職部」に分けられ、それぞれ10、6、31人の氏名が記されている。
材木商欄の10人は太田町の材木店が5、個人2、金融会社1、久慈郡山田村(常陸太田市)と同東小沢村留(日立市)が各1。
竹商の寄付者は太田町2、大門・松平(常陸太田市)各1、久慈町の船具商1、額田村舟場(那珂市)の建具商1の計6人。竹は桶のたがに用いられるから桶職人と結びつく。
桶職人の欄には31人。久慈郡東小沢村の留と児島に各1、久慈町6、多賀郡坂上村水木3、多賀郡河原子町2、同豊浦町川尻2(以上日立市域15人)、久慈郡太田町5、同幸久村河合1、同機初村幡1、同誉田村1(以上常陸太田市域8人)、那珂郡石神村(東海村)3人、那珂郡額田村(那珂市)1人、水戸1人、不詳3人(桶職の項目に久慈町の自転車店1店が含まれている。理由はわからない。後述)。
この内久慈町の二人と村名不詳の一人計3人は桶師組合に加入している。逆に言えば非組合員の桶職人は29人、北は川尻から南は額田までの範囲から組合は寄附を募ったことになる。
4段目
「久慈町海産物商」の人々22人と河原子町に一人の計23人である。
なお海産物商の項目に自転車店が2店入っている。当時は自転車を所有に町村税がかけられており、その用途はもっぱら運搬用だった(現代とはずいぶん趣がことなります)。海産物商との関連はわからないでもないが、桶師組合との関連はわからない。
以上が寄附者である。
三つの疑問
(1)材木商の人々を「太田町」と限定している理由はどこにあるのか。
材木商の人々は商人であるが製材も行う木挽職でもあるので寄附しているのは理解できる。また桶の材料の供給者でもあるから桶師組合からの寄附要請に応えたのだろう。しかし太田町と限定している理由がわからない。
⇒ 材木商が太田町に集中している実態を反映しているのではないか。久慈川・里川の筏による木材運搬の歴史を想像させる。
(2)久慈町の海産物商が名を連ねている理由は何か。
海産物商は聖徳太子信仰とは直接にかかわらない。
⇒ 海産物商は桶や竹籠などの有力な需要者であるから、桶師組合の働きかけの対象となったのではないか。
(3)石碑をこの場所に建てた理由は。
中央の●が碑の位置 1906年 国土地理院5万分の1地形図を加工
石碑はとくに道路改修によって移転することが多い。しかしこの碑は動いていないだろう。碑の台座にあたる部分に「右太田方面約三里 左村松方面約一里 東大ミカ駅方面」と刻まれている。この表示と実際の方向にズレはない。つまり碑は太田と村松(虚空蔵尊)への分岐点[2]に建つものであり、近年の道路拡幅で多少は動いているかもしれないが、基本的に動いていないと考えてよい。
話しを戻すと、桶師組合員は那珂・久慈両郡にまたがり、非組合員の桶職人は久慈郡太田町と久慈町を中心に西は那珂郡の山方村(常陸大宮市)、南は水戸、北は多賀郡の豊浦町川尻にひろがる。
であるのになぜこの地なのか。
桶師組合員13人中5人が久慈町の人であることも碑の設置位置に影響しているだろうし、碑は東つまり久慈の町内を向いている。久慈町を出ようとするときに目にするものである。目立つ場所におきたいと言うこともあろう。
材木と海産物で思い出したことがある。1927年(昭和2)7月に設立された常北電気鉄道株式会社(のちに日立電鉄)が当初企図したのが常磐線大甕駅を中継点として、太田町の背後にひかえる久慈郡域の林産物・農産物の販路拡大および久慈町・河原子町・会瀬浜で漁獲・加工された水産物の内陸部への供給だったことである。
ちなみに常北電気鉄道の常北太田と大甕間の開通は、まず大甕・久慈浜間が1927年12月27日営業運転を開始し、久慈浜・常北太田間が1929年7月3日であった[3]。太田町と久慈町、さらに常磐線大甕駅(久慈町所在)をむすぶ鉄道が敷設される事情がこの碑からうかがえるのである。
⇒ つまり久慈川左岸の太田町および右岸の石神村のそれぞれの後背地がある。それらと久慈町をむすぶものとして林産物と海産物そして海産物の容器としての桶、その材料の木材・竹などの流通の歴史があった。その結節点である久慈町割山の常磐線踏切近くに建立位置が選ばれた、ということではないだろうか。
馬頭観世音碑
聖徳太子碑のすぐ後ろにけっして小さくはないが隠れるようにして馬の供養碑である「馬頭観世音」碑がある。1931年(昭和6)5月に建てられ、建立者は「牛馬商」3人である。常北電気鉄道の開通から2年。太田町と久慈町・大甕駅間の物資輸送を担っていた馬車は電気鉄道の開通によって無用となっていく。太田町と久慈町・大甕駅間の輸送は鉄道に奪われてゆくが、生産地から鉄道の駅までは依然として馬に依存していたし、鉄道開通によって農産物、林産物の流通が盛んとなり、それによって輸送量の増大があったろう。馬頭観世音碑が建立されたのは、そんな時期であった。
[註]
- [1]現在では聖徳太子が歿したのは推古天皇30年(622)2月22日が定説となっている。しかしかつてはいろいろの説があった。桶師組合の人々は推古天皇27年(619)説をとったのであろう。
- [2]久慈町の中心街から西の太田と南の村松へ向う道がいつごろできたのか。わからない。江戸時代は久慈川の渡船によって久慈村と豊岡村(その先には村松の虚空蔵尊がある)が結ばれていた。しかし地図に示したように1906年段階では踏切から常磐線に沿って道があり、東小沢村留から常磐線をくぐり、鉄橋の上流で橋(潜り橋)を渡り、石神村亀下にでる。この道と橋は常磐線が開通してから設けられたのではないだろうか。
町中から太田へ向う道もまた江戸時代にはなかった。1876年の「久慈村全図」(日立市郷土博物館蔵)に現在の近藤米穀店から踏切までの道は、水田の区画に上書きするように朱線がひかれている。この絵図には常磐線の線路敷も朱線で上書きされていることから、太田への道も常磐線敷設に前後して設けられた道路である可能性が高い。
とすると常磐線開通(大甕駅開設)を境にして久慈町周辺において道路の再編成が行われたことが考えられる。 - [3]『日立電鉄四十年史』(1968年)