水田のない村

こちら 北ハ水田に富、南部は陸田多く で、江戸時代前期に水戸藩領において水田のない「皆畠方」の村があったことをふれておいた。史料は寛永21年(1644)の水戸藩「御知行割郷帳」[1]である。寛永18年水戸藩はじめての全領検地の直後のものである。

田がない村はあっても畠のない村はない。その逆はない。

田のない村は384ヶ村中4ヶ村。鹿河原(常陸太田市)、竹瓦と亀下(東海村)、下土木内村(日立市)の村々はいずれも久慈川下流域に立地する。しかも鹿河原をのぞき、参考にしめした水田比が5%の留児島村を入れると久慈川最下流にある。それらの村高の構成を表に示した。

「皆畠方」の村石高内訳

村 名  村 高(石)  田 高(石)  畠 高(石)   現市町村  
鹿河原37.3730.00037.373常陸太田市
竹 瓦193.7910.000193.791東海村
亀 下341.1090.000341.009
下土木内 361.9380.000361.938日立市
[参考]留小島439.66723.190416.477

山間の村は豊富ではないが安定した沢からの水が確保できるから小規模ながら水田は得やすい。

すぐかたわらをゆたかな水量をもったおおきな川が流れていても田がない。考えられることは、排水がわるく、葦のしげった低湿地がひろがっているかたわらで、深くぬかるんだ田に足をとられながらあるいは腰までつかりながらの米づくり(田植え、草取り、刈取り)は容易ではなかった。

泥をすくい盛りあげて畠にする。そうすれば麦粟稗などの穀物も野菜類、商品性の作物も栽培でき、それらを食料とし、あるいは売って現金を手に入れ、自給できないものを購入する。暮らしはなりたつ。江戸初期、田は必須ではなかった。

「皆畠方」の村が土木技術の進歩や経済上政治上の理由から水田をもつようになる(享保の大開発)。江戸時代において米がもつ意味や村のなりたちを考えるうえでの手がかりを「皆畠方」は提供している。

明治38年(1905)測図の国土地理院五万分の一地形図「湊」の一部をとりだして下にしめす。竹瓦・亀下の集落周辺に水田はなく、地図上では空白、つまり畑地の印になっている。この時期になっても低地の水田化はすすんでいなかったことがわかる。

[註]

  1. [1]『茨城県史料 近世政治編I』に翻刻。この史料は史料名にあるように水戸藩内の村々のうち家臣に知行地を与えている村の石高と知行主の名前その知行高を書きあげたもの。384ヶ村が記載される。知行地の含まれていない村(藩直轄領)およそ70ヶ村は書き上げられていない。したがってその70ヶ村中に「皆畠方」の村があるかもしれない。この史料以外に田畑の割合について水戸領全体を見わたすことのできるものはない。
  2. [2]鹿河原村:久慈川ぞいにあって、天保13年(1842)に花房村(常陸太田市)に編入したという(『茨城県の地名』)。