赤沢官有地立木伐採問題について

川崎松寿

明治三四年、横浜の貿易商ボイエス商会が横浜の住人松村常蔵らから多賀郡日立村赤沢の地の鉱業権をえて、赤沢鉱業合資会社を設立して経営にあたったが、『赤沢銅山沿革誌』は、それが近代的体制によるものであるものの、やはり鉱毒に対する地元民の不安の念のおさえがたいことを記している。そして、この不安の念を極度に刺戟したのが、その三年後に起きた赤沢鉱区山林の立木伐採問題であった。そのころ、赤沢鉱業合資会社は、栃木県人大橋真六と横浜の住人松村常蔵の実権下にあったが、その問題は、日露戦争中の好況下に一攫千金をもくろんだ彼らの、地元民との約定を無視した行動であった。

赤沢鉱区山林(もと原野、明治三一年国有林に編入)は、鉱毒予防とは別に、水源涵養地として、むかしから二、三の例以外は、立木伐採が禁じられていた。ところが、明治三六年一二月、この山林の拝借人兵藤祐三郎、吉原藤五郎が、拝借地全部の立木を三万一五〇〇円で赤沢鉱業に売渡す契約をしたのである。鉱業側は、この立木で「炭焼ヲ営ミ一方ニハ敷木使用及製煉ノ燃料」(陳情書控)にしようとするものであった。

これを知った地元民は、兵藤に談判するとともに、鉱業側に対しても「一 赤沢立木売買ヲ取消シ直ニ立木伐採中止之事、二 鉱業ノ順序ハ鉱毒除害方ハ曩ニ高橋元長(明治二九年当時の鉱主、鉱区拡張に際し地元民と鉱毒問題で対立、適当な除害法を行なうことで許可をえたが、まもなくその鉱業権を松村に譲渡する)ヨリ提出ノ設計工事ヲ終了スル間者採掘製煉等直チニ中止之事」(赤沢鉱業合資会社事務員川添常吉あて大字宮田代表者根本兼松ほか一一名連署要求書控)を要求した。しかし、兵藤らは「他ヨリ口実ヲ以テ云々スルモ決シテ御採用無之御取計被下度」(赤沢鉱業川添常吉あて吉原藤五郎書簡写)と鉱業側に回答し、鉱業側もまた「伐採中止之件ハ貴所方ト曩ニ御契約セラレタル関係人兵藤吉原両氏等へ直接御談判ノ外無之モノト存候…鉱毒除害工事ノ件ハ…高橋元長ヨリ提出セル設計ハ採用可致場合ニ無之候間…」(日立村長佐藤仙三部あて大橋真六書簡)として応ぜず、けわしく対立するにいたった。

話し合いは進展せず、翌明治三七年七月六日にいたり、「此侭ニ捨措クトキハ日ナラスシテ全山焦土ニ帰スルハ言ヲ俟タズト弐百拾有余戸ノ人民一時ニ蜂起シ七月七日ヲ以テ杉室大雄院境内へ馳セ集リ一同鉱山事務所ヘ就キ伐採中止ヲ要求セント協議中ノ折柄地方警察ヨリ部長及数名ノ巡査出張アリ懇篤ナル説諭ニ応シ総代トシテ委員拾弐名ヲ撰ビテ登山シ警官立合之上」(陳情書写)、鉱毒除害法の即時着工と立木伐採中止の要求を通告したが、拒絶されたため、七月二八日県庁を経て農商務大臣に立木伐採中止請願に対する「陳情書」を提出した。

この結果、郡長、県庁技師らの現地視察があり、八月八日高萩小林区署から赤沢官有地立木伐採の中止命令が鉱業側に出された。そして、その後も地元民の所期完徹の交渉はつづけられ、九月になり赤沢官有林の保安林編入措置が講じられた。ここにいたって大橋らは、ついに銅山経営を断念し、その買い手を求めた。そして、その買い手として、明治三八年一二月の久原房之助の登場をまつのである。(引用史料は日立市根本甲子男氏所蔵)。

 茨城県郷土史の会『会報』第6号(1973年1月)


川崎松寿さんは日立市郷土博物館に勤めておられ、茨城県史編纂事業に専門委員としてかかわっていました。著書に『日立文学散歩』(1984年)があります。鬼籍に入っておられます。

茨城県郷土史の会も今はなく、その会報は入手困難です。そのためここで紹介することにしました。

なお兵藤祐三郎の名はこちらの 史料「赤沢銅山沿革誌」 にもでてきます。

[要約]

上記の記事を年表仕立てにすると、次のようになるでしょうか。