史料 斉昭の寺院破却
日立市域の場合

島崎和夫

水戸藩における寺院弾圧について、こちら 光圀と斉昭の寺院破却 でふれた(1)「村方願之上畳寺」に関する史料にくわえて(2)破却した寺院の僧侶の取締に関する史料(3)破却されずに残った寺院の弟子たちの還俗についての史料、合計4点を紹介する。

目次


凡例

史料1 村方願いのうえ破却

天保14年(1843)12月11日の山横目黒沢覚衛門(石神外宿村—東海村)から発せられた大沼村小泉、田尻村樫村、伊師本郷村橋本ら山横目あての回状。

以廻章啓上仕候、厳寒之節益御多祥奉賀候、然左之寺院當時無住之分ニ有之候処、村方へ申含破却願為差出候様、其最寄御同役様方へ可申合旨被仰付候間、御扱村之破却願御取受、早速私共迄御廻可被下候、右ハ御急キニ御座候間十五六日方迄ニ御廻し可被下候、若次第在之破却願兼候分ハ其譯御申越被致度候、御覧早々御順達可被下候、以上

  十二月十一日             黒澤覚衛門
     小泉杢兵衛様
     樫村庄左衛門様
     橋本東兵衛様
   覚
山部村長楽寺 宮田村薩埵寺 大久保村浄光寺
金沢村長清寺 川尻村宝幢寺 石名坂村地蔵院
右之分御扱切御取扱、早速否可被仰付候、以上

[読み下し]

廻章をもって啓上つかまつりさうらふ。厳寒の節ますますご多祥を賀したてまつりさうらふ。しからば左の寺院当時無住の分にこれありさうらふところ、村方へ申し含ませ破却願いを差しいださせさうらふやう、その最寄りご同役様方へ申し合はせべくおほせつけられさうらふあひだ、お扱い村の破却願いお取り受け、早速私共迄お廻しくださるべくさうらふ。右はお急ぎにござさふらふあひだ十五六日方迄にお廻しくださるべくさうらふ。もし次第これあり破却願ひかねさうらふ分はその訳をお申し越しいただきたくさうらふ。ご覧早々ご順達くださるべくさうらふ。以上

山部村長楽寺以下6ヶ寺は無住なので管轄区域のそれぞれの村に言い聞かせて破却願いを提出させ、黒沢覚衛門まで15あるいは16日までに届けるように、また理由があって破却願いを出せない村はその理由を書いて提出せよ、という指示であった。もちろん山横目独自の指示ではない。水戸藩寺社奉行所からのおそらく口頭での指示を文章にしたのであろう。

[解説]

光圀と斉昭の寺院破却 にあるように上記の山部村真言宗長楽寺、宮田村の真言宗薩埵寺、大久保村の浄土宗浄光寺(常光寺)、金沢村の曹洞宗長清寺、川尻村の真言宗宝幢寺、石名坂村の天台宗地蔵院の6ヶ寺は「筑波根於呂志」に記載された理由はさまざまだが、すべて破却となった。

破却の正当性

藩は破却を決めているのに、村から願いを出させる理由はどこにあるのだろうか。それは藩権力が一方的に寺院を破却することは正しいことではないという認識が当時の社会にあったからにちがいない。水戸藩が進める破却に正当性をもたせるためにいわば偽装を村に求めたということになる。

史料2 寺役御免・破却寺僧の取締

二人の役人(おそらく寺社奉行所)から山横目にあてた天保14年12月15日の達。

此度寺社御改正ニ付破戒之僧徒等追々寺役御免等願候様御領内立退又は出奔致候もの有之趣相聞候処、右之内ニハ路銭等手當之為境内山林無願伐木致候族も有之趣、尚又追々破却永無住被仰付候寺々之内、山林盗木等致候ものも有之歟ニ相聞、旁不済事ニ付、扱村々之内屹と心ヲ付、山守等へも相達置候、右様之儀無之様可被致候、此段申達候条早速順達可被成候、以上

  十二月十五日          大高崎之介
                  田邊 彦介

[解説]

藩により破戒僧だとされ、寺役から放逐された僧侶が処分に不満で水戸領内の居所を去ったり、失踪したりしているという。その者たちが旅の費用として境内の樹木を無断で伐採しているという。また破却あるいは永無住を命じられた寺のなかには境内の樹木を伐採し売却するものが現れていると聞く。そのようなことがないよう山守(藩有林管理を命じられた村民)らにも注意を喚起しておくこと。

寺から離れなければならなくなった僧たちの組織的な受入態勢ができていなかった(つくらなかった)ことが、このような事態を生んだ。寺から追い出し、樹木の伐採に目を光らせばそれで済むと藩は考えたのであろう。

斉昭の寺院破却に教団はどう対応したのか。機会があったら調べましょう。

*永無住:以後住持を置かない寺とすること。

史料3 寺院弟子の還俗

破戒僧でもなく、寺が破却されたわけでもないのに、寺から追われた若い僧たちがいた。その彼らを村が受け入れるよう指示した達。

差出人は山横目小泉杢兵衛(大沼村)、宛先は同役の3人。時期は天保14年11月23日。

奉呈上候、寒威甚敷候処、益御多祥奉賀寿申候、然寺院共之弟子期日帰俗被仰付候ニ付ハ、数年坊主罷在、寺徳ニ暮シ居候者俄ニ俗躰ニ罷成此□之経営難渋ニモ可有之候間、厚キ御了簡ニ村々帰俗之僧侶親類有之役介ニ相成候歟、又近村ニモ聢与いたし候縁家有之、引請世話□致し候ものハ難儀も無之候得共、孤獨之族出家仕候類ハ、村役人共ニ夫々取計、口過罷成候様いたし置、其上ニ帰俗被仰出候ふりニ候間、御扱之村々出家帰俗有之ニ御立入被遊、各々口過相成候様御申聞可被成旨神道掛り様より御達ニ相成申候、扨亦病身廃疾等ニ帰俗いたし候共口過キ不罷成類ハ、其段村役人より願出、御済口之上出家ニ廻り候様是又御申聞可被下候、仍村々帰俗之僧徒生処、名前別紙ニ申上候、御披見可被下候、以上

  十一月廿三日            小泉杢兵衛
   樫村、橋本、小峯

*小峰:小峯源九郎。島名村(高萩市)の山横目

[大意]

予定した日に帰俗(還俗)を命ずる寺院の弟子の件については、数年間僧侶を勤め寺の収入で暮らしていた者が、突然に一般人になると生計も立たないこともあろう。親類の世話を受けるか、近くの村に親類縁者があって世話してくれる者がいれば苦労もないだろうが、独り身の者が出家していたら村役人たちが暮らしがなりたつように取り計らってから、還俗を命じたようにするので、管轄下の村々の調査を行うこと。これらのことは神道掛から達があったので知らせる。また病身、障碍がある者で還俗しても生計がなりたたない場合は、そのむね村役人から願い出れば出家を認めることとする。そこで村へ返す僧徒の出身村・名前などを別紙にまとめたので、ひらいて見てほしい。

[解説]

この別紙について形式をたもったままweb上に載せるのは難しいので、記載内容を整理して以下に示す。

南は大久保村(日立市)から北は手綱村(高萩市市)出身の弟子たち27人が還俗を命じられている(上記の山横目3人の管轄区域でのこと。日立市域全体のことではない)

村名 名 前 所属寺院 年齢 宗派
大久保村 藤吉倅  至岫 南酒出村(那珂市)蒼龍寺弟子 曹洞宗
杢兵衛倅 主水 真弓(常陸太田市)徳善院弟子 29 山伏
下孫村 與一郎甥 左膳 長谷村(常陸太田市)密蔵院弟子 21 山伏
油繩子村 市次郎倅 一明 天神林村(常陸太田市)白馬寺弟子 19 曹洞宗
会瀬村 角蔵倅  明麿 六反田村(水戸市)六地蔵寺弟子 13 真言宗
助川村 嘉一倅  峯丸 助川村大聖寺弟子 11
新次郎倅 徳丸 大塚村(北茨城市)西明寺弟子 11
久兵衛倅 覚明 大雄院弟子 13 曹洞宗
嘉衛門倅 恵善 大山村(城里町)□昇光院弟子 14
權兵衛倅 泰賢 戸村(那珂市)龍昌院 18 曹洞宗
仲衛門倅 湛然 島村(常陸太田市)宝金剛院弟子 23 真言宗
善五郎倅 空御 大塚村西明寺弟子 27
宮田村 政介倅  豊丸 那珂西(那珂市)宝幢院弟子 9
十三郎倅 大棟 鱗徳院随身 16
金蔵倅  泰免 戸村(那珂市)龍昌院弟子 17 曹洞宗
冢三郎倅 天號 杉室大雄院弟子 20
平四郎倅 範淳 常州神崎寺(水戸市)弟子 24 真言宗
傳之衛門倅 全了 岡田村(常陸太田市)普門寺弟子 51
滑川村 本仙倅 仙明 大雄院弟子 13 曹洞宗
徳三郎倅 透林 大雄院弟子 14
明盡 助川村鏡徳寺弟子 20
權之介倅 孝道 馬頭村(那珂川町)乾徳寺弟子 27
川尻村 常宝院 無住
友部村 治三郎倅 大匠 上手綱村(高萩市)能仁寺弟子 14 天台宗
庄五郎倅 正乗 頃藤村(大子町)長福寺弟子 曹洞宗
秋山村 大二郎倅 連兵 大雄院弟子 14
手綱村 関蔵倅  來洌 大子村(大子町)永禅[源]寺弟子

*随身:寺に身をよせて寺務などの世話をする人。

[解説]

所属寺院はもちろんすべて水戸藩領内。他領の寺院に口出しするわけにゆかない。

助川村出身が7人、ついで宮田村6人、滑川村4人。宗派別でみると曹洞宗が13人、ついで真言宗が8人。なかでも宮田村にある曹洞宗大雄院の弟子が5人(末寺の助川村鏡徳寺を入れれば6人)。これらの数字から曹洞宗ひいては有力寺院である大雄院の影響力排除が目的のひとつであったことがわかる。

これらの寺院は破却を免れている。その中の領内出身の若い僧たちをも還俗させようとしているのである。

この史料3を目にしたときとまどった。寺には住持一人だけではない、弟子もいるだろうし、寺で下働きをする人たちもいる。このことに頭がまわらなかった。破却は住持だけの問題ではなかった。他領に転身できずに宗教者として生きる道を閉ざされた若い僧たちがいたということである。

この別紙に続けて次のような記載がある。

尚々廃寺被仰付候も可然寺院ハ村願早々為差出候様ニとの御儀ニ御座候、至極御急キニ御座候、宜御承知可被下候

廃寺を命じても、村願いで処理するので、早急に提出させよという寺社奉行所からの指示であるので、急ぎ事を進めてほしい、よろしく、というものである。

史料4 寺院弟子の還俗は弟子からの願いによって

史料3が作成された三日後の天保14年11月26日の書状。差出人の覚衛門は史料1にも登場した山横目黒澤覚衛門。宛先は大沼村の山横目小泉。

一書呈上仕候、大雪ニ豊年之瑞相顕御同慶奉存候、然先日田邊様より御達ニ相成候諸寺院弟子還俗願之儀ハ、極内密御糺ニ致度旨田邊様より御達ニ御座候、其詮ハ萬一僧徒へ漏、萬一被逃去候様成義在之候ハ不相済、極密ニ被成度由被仰下、小子も小名濱附村々百姓愁訴一件ニ付出府いたし居、七日振ニ今日帰宅仕候處、此段帰宅次第急キ御文通可申旨被仰候間急キ早々申上候、以上
  十一月廿六日          覚衛門
   小泉大兄

[解説]

寺院弟子の還俗については「極内密」にすすめるようにと藩の役人からの達があった。万一漏れて、弟子が逃げ去るようなことがあってはならないからだという。「逃去」とは他領の寺院へ弟子入りすることだろう。他領に行かれては不都合なことがあるのか。

気になる文言がある。ささいなことだが「諸寺院弟子還俗願」である。これは弟子の還俗についても、自主的に願いをださせる形式をとるということである。寺院の破却同様、出家した者を強制的に還俗させることはあってはならない、という認識が当時の社会にあったことにほかならず、ここでも水戸藩は偽装を村に求めたのである。「逃去」されれば他領、ひいては幕府に露見することを怖れたのである。

さらに史料1・3・4の寺院と弟子の破却・還俗を村と弟子本人からの願いでだすようにと指示する文書は、寺社奉行所からでていないところに藩の作為を感じる。

これはともかく、斉昭の強引な寺院潰しを幕府がとがめることになり、退隠・謹慎処分に結果したのである。幕府が上野寛永寺の圧力によって動いたのは、封建支配の正当性にかかわる問題であったからだと考える。