里川は茂宮川に入るか

島崎和夫

風土記に登場する渋川は茂宮川のことか?

「常陸国風土記」久慈郡の条に薩都河(里川)が「渋河」に入るとあり、その渋河を茂宮川とする説があることは、こちら 薩都河は渋河に入る でふれた。

渋川=茂宮川説にたつ小宮山楓軒「水府志料」の記述を紹介しよう(薩都河は江戸時代以降は里川と表記されるので、以下里川とする)

あらためて「水府志料」[1]から引用する。

風土記、久慈郡の條に、有小水、名薩都河、源起北山、流南同入澁河とあり。此川[里川]の事成べし。然れども澁川といふもの、今ある事なし。文字誤りなる歟。今考ふべからず

「水府志料」をまとめる以前に楓軒は、彰考館があつめた「常陸国風土記」を読んでいた。その彼の目にも「渋川」と読めたのである。しかし渋川はなく、誤記ではないか、というのである。

この記述に小宮山は次のように頭書している。

追考、渋川ハ今ノモミヤ川ノコトナルベシ。古ハ里川、久慈川ニイラズシテ、モミヤ川ヘ入タルコト、大里組ノ條ニアリ。

渋川は今の茂宮川のことで、昔の里川は久慈川に合流せず、茂宮川に流入していたことは、大里組の条にある、というのである。その該当記述は大里組磯部村(常陸太田市)にあり、次のとおり。

里川を隔て内田の地に、大内屋敷といへるあり。いにしへは里川、小澤村より大橋川[2]へ流るゝといへり。しかれば此地に川ある事なければ、内田、磯部は續ける地也。

楓軒はかつて里川が小澤村の地点で大橋川(茂宮川)へ流れ込んでいたという話を古老から聞いた。楓軒はその話と「常陸国風土記」の記事を結びつけた。

(1)楓軒は19世紀の伝聞によって8世紀の記事を解釈しようとする。千年もの時をこえて結びつけるのは、飛躍しすぎではないか[3]

(2)里川は流路も長く、流域面積は茂宮川と比較にならないほど大きい。そのように水量がゆたかで大きな川が茂宮川という小さな川に「合流」することはない。

(3)古く里川は小沢村で東流し、真弓の山々からの水を集めながら久慈村の南で久慈川に合流していた、というならその可能性は否定しない。

したがって私は楓軒の説はとらない。「南に流れて同じく渋川に入る」という風土記の記述をそのままに解釈するだけである。

里川と茂宮川の流れ

[註]

  1. [1]水府志料:文化4年(1807)成立。著者小宮山楓軒。『茨城県史料 近世地誌編』に収録
  2. [2]現代歴史学の感覚で言えば飛躍だが、江戸時代には千年前の古代であってさえも身近に感じられたのかもしれない。
  3. [3]大橋川という名称は現代では使われていない。現在の茂宮川のことだが、江戸時代には次のように大橋村(日立市大和田町)附近の流れを大橋川、その下流を茂宮川と言うと「水府志料」に次のようにある。まず大橋川について大橋村の条から引用する。
      大橋川 源真弓山大沢[弁天沢]に発し、又一ツは長谷村より出て小目村に合し、大森、田中々より流れ来り、此村に入りて大橋川と称す

    次に茂宮村の条

      茂宮川 即大橋川の下流茂宮、兒島、留、久慈のはなれ山下まで、久慈川に合す。

里川下流の茂宮川でアユが獲れる

「水府志料」茂宮村の条に続けて次のようにある。

水戸義公、曾て近江より源五郎鮒と称する魚を取りよせられ、この川[茂宮川]に放させられしと申伝ふ。故に此川の鮒、他に比するに味尤佳なり。仍此川の上下村々すべて茂宮の鮒と称す。又川の名も茂宮川と称す。

茂宮川で獲れる徳川光圀に由来するというフナは美味なるがゆえに、茂宮村の下流だけでなく上流で獲れるフナも茂宮の鮒といい、それゆえ全体を茂宮川というようになったと名称由来が語られている。茂宮川の名産はフナなのである。

その茂宮川について、川上礫斎(水戸彰考館員)の「岩城便宜」[4]という道中記に次のような記述がある。

[田中々村の]宿末ニ橋有。土橋也。田中々と大橋の境也。此川里川の末也。鮎の魚有。大雨の節ハ水出て陸へ上ル。

茂宮川は里川の下流で、アユが獲れる。大雨になれば、アユも川からあふれ出てくる、と川上は記す。鮒を鮎と書きまちがえたのではない。

アユは里川の名物である[5]。アユは傾斜のある流れの速い川に生息する。平野部の水田地帯をゆったりと流れる茂宮川に棲む魚ではない。

(1)茂宮川は里川の下流。(2)里川の名物アユがフナ名物の茂宮川で獲れる。川上礫斎が言っているのは、どういうことか。

  1. [4]享保15年(1730)成立。『道中記に見る江戸時代の日立地方』
  2. [5]茨城県史編さん近世史第1部会編『近世史料Ⅳ 加藤寛斎随筆』に次のようにある。
      鮎ハ当国ニてハ里川を第一の佳品とす、首を小サク、肉多く、味過れて吉とすと云、次ニ保内、頃藤、田気辺よし、大子辺も是に次ぐ、頭小サク肉あり、然共里川ニ不及

里川は洪水時に茂宮川に分流した

楓軒が「水府志料」をまとめた19世紀において、里川は落合村(常陸太田市落合町)で久慈川に合流していた[6]。落合村の条に次のようにある。

里川の流、此村にて久慈川に合す。故に落合と名づく。

「元禄国絵図 常陸国」[7]にも里川が南下して落合村で久慈川に合流しているさまが描かれている。

川上礫斎が道中記を残した享保期、18世紀のはやい時期に、里川があふれそうになるとき、それは久慈川も満水の状態であるときだが、(1)久慈川に合流する地点より上流で里川の堤をこえて水流は茂宮川に流れ込んだか、(2)あるいは磯部・内田・落合での大氾濫をおそれて上流の小沢から茂宮川へ水流をみちびき、水量を分散させることが行われたのではないか。

楓軒が聞いた古い話とはこのことかもしれない。現代の流れをみると小沢付近で両川の間はわずか1キロメートルにすぎない。ありえる話ではないか。

そのような事態に川上礫斎は遭遇した。それをそのまま「此川里川の末也。鮎の魚有。大雨の節ハ水出て陸へ上ル」と記録したのだと私は解釈する。

  1. [6]1952年に里川と久慈川の合流地点の変更工事が行われ、合流点は約1キロメートル下流に移動している。
  2. [7]元禄9年(1696)から同15年(1702)制作。国立公文書館蔵。同館のウェブサイト デジタルアーカイブ で閲覧できる。