縄文時代に畑作

江戸時代の前期の水戸藩領に水田のない「皆畠方」の村が久慈川下流域に4村もあったことをこちら 「北ハ水田に富、南部は陸田多く」 で紹介しました。1村なら誤記の可能性がありますが、4村となると見のがすわけにはいきません。

これらの村はその後、水田を獲得していきますが、江戸時代の村にとって水田稲作は必須ではなかったと言えます。

これが江戸時代初めの一時的なものではなく、通時的な事象なのだとしたら、遡って近世初頭、中世、古代においても「皆畠方」の村が存在したことになります。

つまり「畑は水田に先行する」と考えられます。

とすると稲作以前に畑作の存在を想像したくなります。

稲作がはじまって弥生時代となりますが、そのときすでに畑作は存在していたのではないか。

弥生時代に先行するのは縄文時代。縄文時代中期になるとゆたかな自然につつまれ、人々は集落をいとなみ、一定程度定住し、獣を追い、魚介類をとり、木の実を採集し、それらを焼いたり煮たりして生活していたと理解される採集経済の縄文時代(40年前の知識です)

ですが、そこに畑があって耕作が行なわれていたのではないか。むしろ縄文時代の広汎な畑作なしには稲作を受けいれることができなかったのではないか。言いかえれば弥生時代は縄文時代の畑作なしには始らなかった。

縄文時代に畑作があった。

これは考古学の常識、通説に反します(40年前の知識)。しかし、どんな作物をどのような道具を用いて栽培していたかはわかりませんが、考古学的に見つかっていないだけのことかもしれません。縄文時代の畑作を前提にしてこれまでの発掘調査の成果を見直したり、今後の調査方法に変更をくわえてみれば、畑作にかかわる遺物や遺構が発見されるやもしれません。

以上は、村にとって稲作は必須でないことが通時的事象ならば、という假定に基づいています。この假定がまちがっているなら本項の「縄文時代に畑作」は成立しないのですが。