常陸国の海道(街道)

江戸時代の常陸国内の主要往還(道路)である、江戸海道(水戸海道)、棚倉海道、岩城相馬海道(岩城海道)、南郷海道、那須海道、茂木宇都宮海道、結城海道、瀬戸井海道、飯沼海道を紹介します。

例によって、海道はまちがいではありません。街道の文字が江戸時代において使われることはほとんどありません。こちら 海道と街道 をご覧ください。本ページで常陸国内の江戸時代における主要往還の名称とその経路について17世紀半ば成立の「常陸地理苞括誌」(以下苞括誌)[1]から紹介しますが、この史料でも「海道」が用いられています。街道でも道中でもありません。

なお起点がすべて水戸となっているが、それは史料「苞括誌」の性格によります。註の[1]を参照してください。

名 称 種 別 始点→通過地→終点 備 考
江戸海道 大道筋 水戸→土浦村→若柴村下総国境 下総国河原代村へ出る道筋
水戸より江戸への本海道
奥州棚倉海道 大道 水戸→太田村→新町村陸奥国境 水戸より奥州への本海道
奥州之内
岩城相馬海道
大道筋 水戸→助川村→中野村陸奥国境 陸奥国関田村へ出る道筋
奥州境八溝山迄
[2]
中道筋 水戸→大子村→黒沢上郷村八溝
山境
陸奥国之内南郷へ出る道筋
下野国之内
那須海道
中道筋 水戸→長倉村→鳥子村下野国境 下野国矢又村へ出る道筋
下野国之内
茂木宇都宮海道
中道筋 水戸→増井村→塩子村下野国境 下野国藍田村へ出る道筋
下総国之内
結城海道
中道筋 水戸→下館→下川島村鬼怒川端 下総国結城村へ出る道筋
下総国瀬戸井村
へ道筋[3]
中道筋 水戸→柿岡→八町村下総国境 下総国瀬戸井村へ出る道筋
下総国之内
飯沼海道
中道筋 水戸→息栖村→東下村銚子口 下総国飯沼村海上へ出る道筋

終点現市町村

江戸海道 若柴村:龍ヶ崎市 →河原代村:龍ヶ崎市
棚倉海道 新町村:荒町とも、のち徳田村。常陸太田市里美
岩城相馬海道 中野村:北茨城市 →関田村:いわき市勿来
奥州境八溝山迄 黒沢上郷村:上郷村。久慈郡大子町 →南郷:福島県矢祭町・塙町・棚倉町辺
那須海道 鳥子村:鷲子村とも。常陸大宮市美和  
茂木宇都宮海道 塩子村:城里町七会 →藍田村:鮎田(あいだ)。栃木県茂木町
結城海道 下川島村:筑西市下館 →結城村:結城市
下総国瀬戸井村へ道筋 八町村:結城郡八千代町 →瀬戸井:結城郡八千代町
飯沼海道 東下村:神栖市波崎 →飯沼村:千葉県銚子市

現道路名

江戸海道岩城相馬海道:国道6号
棚倉海道:国道349号
奥州境八溝山迄:国道118号
那須海道:国道123号・293号
茂木宇都宮海道:県道51号 水戸茂木線
結城海道:国道50号
下総国瀬戸井村へ道筋:—[4]
飯沼海道:国道51号

[註]

  1. [1]常陸地理苞括誌:正保国絵図作成事業(完了は明暦年中-1655-58年)で作成された道帳の写本。常陸国絵図の作成元となったのは常陸国で最も大きな水戸藩。したがって主要往還の起点を水戸にとったものと考えられる。江戸から見た水戸海道が水戸からみた江戸海道となっているように(『茨城県歴史の道調査事業報告書近世編Ⅲ』)
    「苞括誌」は『茨城県立歴史館史料叢書5 近世地誌Ⅰ』(2002年)に翻刻されている。
  2. [2]「奥州境八溝山迄」の道筋は『新編常陸国誌』では「南郷海道」とされる。「南郷海道」は「藩主や藩役人の巡見を除いては、公儀の通行は臨時にしかおこなわれなかった。このため本陣や脇本陣、宿継ぎのための常備の伝馬もなかった(『茨城県歴史の道調査事業報告書近世編Ⅲ』)
  3. [3]「下総国瀬戸井村へ道筋」は『新編常陸国誌』では「瀬戸井海道」とされる。
  4. [4]「下総国瀬戸井村へ道筋」は現在では一つの名称ではくくれないので、以下に通過地を示す。一つにくくれないが、大きく見れば、水戸—筑波山—古河(日光道中)という経路である。
    ─鯉淵村(水戸市)—住吉村(笠間市友部)—泉村(笠間市岩間)—山崎村(石岡市八郷)—柿岡村(石岡市八郷)—小幡村(石岡市八郷)—北条村(つくば市)—高道祖村(下妻市)—南当郷村(下妻市)—八町村(結城郡八千代町)─瀬戸井村(八千代町)

南郷海道・瀬戸井海道

いつから「奥州境八溝山迄」の道を南郷海道、「下総国瀬戸井村 へ道筋」を瀬戸井海道と呼ぶようになったのか。はっきりしない。
『新編常陸国誌』(宮崎報恩会版)が海道を説明する第六巻「行路」中の【陸路】及び【海路】の項は、栗田寛による明治中期の執筆である。出典は示されていないが「苞括誌」を抜粋したものであることは両者を対比してみれば一目瞭然である。しかも「苞括誌」は「新編常陸国誌」の著者中山信名の蔵書中にあった(『茨城県立歴史館史料叢書5』)のだから。
 その栗田が『新編常陸国誌』陸路の冒頭で「今ノ道路ハ、茨城郡水戸ヲ規程ノ地ト…」と書く。「今ノ」は栗田の執筆時点をさすものであるから、栗田は「苞括誌」を抜粋しながら、明治中期の時点で自身がもっていた情報によって「南郷海道」「瀬戸井海道」と直したのではないか。
 なお南郷・瀬戸井海道両方の道筋には、数多くの道標が残されている。それらのいずれにも「南郷海道(街道)」「瀬戸井海道(街道)」の文字は見あたらない(『茨城県歴史の道調査事業報告書近世編Ⅲ』)

なお南郷海道(街道)については、小澤圀彦「南郷街道の道順と呼称について」(『大子町史研究』第10号 1982)がある。