陸前浜街道久慈川の架橋時期
茨城県歴史の道調査事業を手伝っている時に、岩城海道(現在の国道6号)の久慈川に橋が架けられた時期を調べたことがあった。簡単にわかることだとたかをくくっていたが、調べはじめるとそうではなかった。
その架橋時期は、明治28年(1895)6月のことだと東海村村史編さん委員会編『東海村史 通史編』(1992年)の本文ではなく年表にあったが、説明はなかった。ほかの文献にあたったが記載はない。調査を中断した。『茨城県歴史の道調査事業報告書近世編III』(2015年)にも「明治二八年(一八九五)、木橋が架けられ、昭和五年(一九三〇)鉄筋コンクリートの橋[榊橋]が元の木橋の上流約二〇メートルの箇所に架けられた」と報告した。
詳しくはわからない。これで解決と思ったが、本サイトで紹介している野口勝一「多賀紀行」に、明治14年(1881)に野口が人力車で橋を渡っていることに気づいた。とするならまだ見落としがあるかもしれないと調査を再開。見落としていました。以下、報告します。
1 寛政年間(1789-1801) 著者不詳「岩城浜街道中記」(古文書学習会編『道中記にみる江戸時代の日立地方』所収)
久慈川 舟渡しなり
2 文政6年(1823) 成田鶴斎「南轎紀游」(同前)
石上村ヲ過、久慈川橋ヲ渡リ 〈大橋/ナリ〉
寛政から文政の時期に橋が架けられたことになる。成田鶴斎は、棚倉海道の河合においても「久慈川橋ニテ渡ル。ココニ至テハ川幅モ広ク水ノ流モ穏ナリ」と記している。
3 文政10年(1827) 小宮山楓軒「浴陸奥温泉記」(同前)
久慈川舟渡し
4 明治14年(1881)8月11日 野口勝一「多賀紀行」
久慈川は疎造なる土橋を以て人を渡す。
水戸方面からやって来て、石神外宿村を過ぎてからの記述である。人力車に乗って渡っている。「疎造」は「粗造」か。木橋ではなく土橋である。
5 明治28年(1895)6月 『東海村史 通史編』(1992年)
六月 石神外宿の渡しに木橋架設さる
この時は木橋である。明治14年段階であった土橋はその後流失し、明治28年に木橋にして作り直したのだろう。しかしまた洪水で壊れてしまう。
[補遺] 上記『東海村史 通史編』がいう明治28年6月に木橋が掛けられたとの記事の出典らしきものを見つけました。『明治二十八年茨城県統計書』(明治30年7月10日茨城県発行 茨城県立歴史館写真版による)の「著名橋梁ノ長及幅」に次のようにありました。
橋名:榊橋 所属郡市名:那珂郡、久慈郡 橋質:板 長:53間 幅:2尺 架設年月:明治28年6月 架設経費:2074円6厘 川名:久慈川
ちなみに、久慈川にはすでに落合橋(木橋 明治8年3月)と幸久橋(木橋 明治13年)が架けられていました。
追記 2022-07-29
6 明治35年(1902)9月28日 『珂北利水沿革史』(1956年 p245)
陸前浜街道の東小沢と石神村間、久慈川に架せる木橋榊橋は過ぐる三十五年九月、大洪水の際流失して暫くの間渡船であつたが漸く四十年に至つて架橋が實現した。
明治35年9月の洪水で木橋が落ち、5年後の明治40年に再び橋が架けられたというのである。この時の久慈河洪水については、当時新聞が報道しているものと思われ、機会があったらさがしてみます。
明治36年(1903)4月 小川芋銭スケッチ「久慈沿岸下土木内断橋」(部分)
水庭久尚「小川芋銭と日立地方」より
水庭久尚「小川芋銭と日立地方—スケッチから来遊時期をさぐる—」(『郷土ひたち』第48号)に、小川芋銭の「久慈沿岸下土木内断橋」と題する明治36年4月のスケッチが紹介されている。下土木内(日立市)から対岸の石神外宿を描く。主題は久慈川に架けられた橋の「断橋」。だんきょう。途中でこわれて切れた橋という意味である。たしかにところどころ橋の板が落ちているのがわかる。橋脚が低い木橋で、欄干はない。流れてくるものが橋脚や橋桁にぶつかって壊さないよう流木よけの丸太が上流側に備えられている。潜り橋あるいは沈下橋、冠水橋、潜水橋ともいわれる橋の構造である。明治28年に架けられたという木橋であろう。川縁へおりていく人影が見える。堤防はない。渡し舟に向っているのだろうか。
こうしてくると、橋がいつ架けられたか、という問いはそれほど意味があるとは思えなくなってくる。橋を架けては、流され、船渡しにもどる。そういったことが幾度となく繰り返されてきたのである。今のところ文政6年の橋の記事がもっとも古いが、さらにさかのぼる史料が現れても不思議ではないし、その間にあって記録にあらわれない橋があってもよい。
その点では、昭和5年(1930)7月に潜り橋からコンクリート製の橋が架けられたことは、画期だったといえる。
「榊橋」と名前がもらえた。潜り橋には名前はなかった。存在していなかったかのように。[と書いたが、明治28年の項の補遺に記したように、この記述は誤りです。公費で建設するのにやはり橋名は必要であったということでしょう。]
下の写真(日立市郷土博物館提供)は榊橋の開通式に集まった多くの人々。コンクリート製の永久橋に寄せるよろこびと期待の大きさがわかる。
榊橋については、田口捨雄「榊橋の出来る頃」・水庭久尚「久慈川榊橋覚え書き」(日立市郷土博物館の広報紙『市民と博物館』第21号)があります。
ちなみに陸前浜街道那珂川にかかる橋は、茨城郡細谷村(水戸市城東)の舟渡から対岸の枝川村(ひたちなか市)に明治18年(1885)10月に木橋の「浜路橋」が架けられたが、11年後の明治29年9月の洪水で流され、渡し船にもどり、大正元年(1912)11月に鉄橋「寿橋」が架けられたという(伊藤剛「橋ものがたり 茨城県の橋」『虹橋』第61号)。