榊橋が出来る頃
現在、久慈川に架かっている榊橋が出来上ったのは(昭和5年7月)私が東小沢小学校の5年生の時でした。 橋の工事には2年間ぐらいかかったと思います。以前の橋は木橋で、現在の橋の上流側にあって、低いもぐり橋でした。今でもその橋の杭が残っているはずで、川の水位がさがると、杭が見えると思います。
川の中にピーア(橋脚 ピア)を何か所か作っていたのを覚えています。いつか工事中に大洪水があって、ピーアが型枠ごと斜めに傾いてしまい、それを起したこともありました。工事をやったのは郡司とかいう請負師だと聞いています。砂利は現地調達で、砂利あげの船が川岸につないでありました。
久慈川の榊橋の付近は、私たち、こどもの時の水浴びの恰好の場所で、川岸はすぐ深くなっており、ここからピーアのところへ次々と泳いで行くのが楽しみでした。友達が砂利を取った跡の砂利穴の深みにはまったことなどもありました。
橋を架け替えるまでは、国道も9尺(2.8メートル)幅の狭い道路で、車の交通量も少なかったのが、橋が完成してからは1トン車のトラックが段々と多く通るようになりました。
写真:日立市郷土博物館提供
日立市郷土博物館『市民と博物館』第21号(1986年9月20日)
久慈川榊橋覚え書き
現在の榊橋の開通式は、当時の記念写真の日付によって、昭和5年7月のことと推定できる。
この橋梁工事の設計書が、施工者である県に残っていないので詳細は分らないが、付近に住む古老の話によると、この工事には2年間ぐらいの歳月を要したという。
ピイア(橋脚)の工事方法は、川の中に井戸枠のようなものを作り、この中にコンクリートを詰めて、内部の土砂を堀り上げ、土砂とコンクリート自体の重みで沈下すると、更にその上にコンクリートを打って、徐々に井戸枠を下げて行く工法で、おそらく井筒式のケーソン工法であったと思われる。
橋の欄干の部分には、榊橋の名にちなんで、サカキ枝葉をデザインした鋳物製の飾板がとりつけられていたことが、写真から確認できる。この飾板は太平洋戦争中に金属回収ということで、取りはずされ、供出させられた。
このように写真によって、完工当時の橋の様子をみてくると、昭和初期に設計施工された榊橋は、現在盛んにいわれている文化性を加味したデザインの公共施設であったことがうかがわれて、大変興味深い。
写真:日立市郷土博物館提供
『市民と博物館』第21号(1986年9月20日)