石名坂の地名由来

石名坂は江戸時代の常陸国久慈郡に所在する村である。現在は日立市石名坂町となってその名が残る。「いしなざか」と読む。

久慈川の榊橋を渡り、下土木内、神田、田中内を過ぎ、茂宮川を渡り、大橋の宿を離れてすぐに東に折れる道がある。国道6号の高架橋の下をくぐってすぐに左に折れる。かつての岩城海道である。真っすぐな坂道があり、のぼりきったところが石名坂の宿である。

国土地理院「電子地形図」を加工

目次


坂の由来

この由来について、中山信名「新編常陸国誌」[1]に次のようにある。

相傳フ、慶長中赤垣、十八道二村ヲ併セテ一村トシ、石名坂ト名クト云フ、村中ニ長サ九十六間ノ峻阪アリ、石名坂ト稱ス

慶長年間に赤垣と十八道[2]の2村をあわせて、石名坂と名づけた。その理由は村内に96間の険しい坂があるからだというのである。「新編常陸国誌」は翻刻されて、1899・1901年に刊行された。石名坂の地名由来が載る「村落編」は、中山の著述ではなく、編者栗田寛によるもので、この石名坂の由来も栗田の筆になる。栗田が言う赤垣村は不詳である。村内に字名(小名)として、赤羽根、赤羽根平、赤羽根後という三つの字がある。赤羽根は広い区域をもっていることがわかるだけで、赤垣と関係あるのか、ないのかわからない。

いずれにしても長くて険しい坂道があるからだと言う。これは以下に引用する史料に共通しており、たしかなことだろう。

ところで栗田は坂の由来は書いても、石の説明はしていない。片手落ちと言うよりも、石の由来がわからなかったから書かなかっただけなのであろう。

[註]

  1. [1]ここでは宮崎報恩会版『新編常陸国誌』(1981年再版本)を用いた。
  2. [2]十八道と石名坂については、こちら「十八道坂と四十八坂」を参照

石の由来

江戸時代の紀行文「南轎紀游」[3]、著者は成田鶴斎、二本松藩の人。時期は文政6年 (1823)。次のようにある。

此坂石ニモアラス土ニモ非スト云ヘル岩山也。是ヨリ以東、平潟、名古曾辺迄咸然リ。故ニ自由ニ洞門等ヲ穿ツ所以ナリ

石名坂は石でもなく、土でもなく、岩山 [4]を削ってできている。ここから東の勿来あたりまでみな同じである。そのことが洞門などを掘ることのできる理由なのだ、と言っている。実際に洞門になっているわけではないのだが、ともかく石でないのに石名坂というのは不思議だと言うのである。現在では舗装されているから、路面をみてもわからないけれど、坂の両側の切ったところを見ると、たしかにやわらかな岩である。

また石がゴロゴロしていたわけでもない。明治14年 (1881)野口勝一は「多賀紀行」において次のように述べている。

一橋を過き成沢村に入る。石坂磊落 [5]行歩甚た艱む。是より迤北一村を経、一林に入る毎に阪又阪、腕車 [6]乗し過く可らす、一乗一下繁忙厭ふへし。

石がたくさん落ちていて、歩くのにさえ苦しむ。ここから北は坂道が多く、人力車に乗っては降りるを繰り返す、と言っている場所は、石名坂ではなく、これより先、成沢の坂道に遭遇してからのことである。この違いは地質学的に説明がつくはずである。

  1. [3]古文書学習会編『道中記にみる江戸時代の日立地方』所収
  2. [4]岩とは石の大きなものを指すことが多いが、ここでは「石状で質のもろいもの。粘土状のもの」を指す。
  3. [5]磊落:ライラク 石の集まり、落ちるさま
  4. [6]腕車:ワンシャ 人力車

石明神の雷断石

とするなら、石名坂の石は何をさしているのか。江戸時代の道中記、紀行文には石名坂を登りきったところで、石明神の記事がある。

享保15年 (1730) 川上櫟斎「岩城便宜」 [7]

[石名坂]宿前ニ長きのほり坂有。 [中略]此先左の方石名坂明神有。此社石山也。是を雷断石と云。誠に鬼石を従たる有様也。景色よし。額に大御加大明神 と有。[中略]或説曰、雷断石石名坂の上ニあり、円三四丈高五丈許、土民相伝え言、むかし此石日々に長する事不止、天帝是をにくミ雷公霹をして、中より断て二ツとす、其壱ツハ飛去て河原子村ニ堕、其後此石不長と言。

石明神は、大甕明神をさしていることがわかる。

川上礫斎は水戸彰考館員。「岩城便宜」を著した2年後の享保17年に三十四歳で歿する。櫟斎は社がのる大きく鬼が石を従えているような形をした雷断石の由来について一説を紹介している。この石は石名坂の上にあって、大きく、しかも日に日に成長していた。そのため天帝の怒りをかって、雷の神によって二つに割られ、一つは河原子まで飛んでいった。これ以降、石が成長することはなかった。川上礫斎は一つは元の場所、つまり石名坂に残ったと言っているのである。大甕明神は石名坂にあると川上礫斎は述べる。


雷断石 大甕神社

しかし、この記述に朱筆で次のような書き込みがある。

右大ミか明神ハ久慈村内ニ久慈の鎮守也。石名坂に非す。石名坂明神ハ別ニあり。雷断石ノ義、色々のせつあり不詳

朱筆の通り大甕明神は久慈村に所在する。櫟斎の間違いである。しかし石名坂村の鎮守は「岩城便宜」が著された当時は、「大ミか明神」だったのである。享保年間(1716-36)に成立した「御領内鎮守神名附」(日立市郷土博物館蔵)によれば次のような経緯がある。

石名坂村にあった羽黒権現は、元禄7年(1694)5月に水戸藩によって潰された。社領は久慈村の大甕明神に附属させられ、神職の内蔵助は大甕明神の禰宜に命じられ、羽黒権現のあった地は御立山として藩に取りあげられたのである。つまり大甕明神は久慈・石名坂両村の鎮守となったのである。

朱筆の通り石名坂明神があるとすれば、それは後年つまり朱筆された時期に鎮守が復活していたということである。だが石名坂明神は現存しない。

雷断石についていろんな説があることは、櫟斎も「或説曰」と断って紹介している通りである。朱の書き入れをした人物はわからない。

とは言うものの、この後も多くの旅人は坂の延長線に「石明神」をとらえている。

寛延年間 (1748-51) 著者不詳「岩城道中記」[8]

宿の入口大坂有り。石名坂といふ。 [中略]宿より十弐三丁行、左の方に石明神有り。大甕倭文神宮也。此山全体石山也。 [中略]此上より海辺ミへて景色なり。

寛政年間 (1789-1801) 著者不詳 (仙台藩士)「岩城浜街道中記」[9]

[石名坂村]入口に坂有、石名坂といふ。 [中略]路傍西方に石明神の社有。天甕神を祀るといふ。廻り四五丁の間、高サ廿丈程の大石の上に社有。東北の方眺望よし。

文政10年 (1827) 小宮山楓軒「浴陸奥温泉記」[10]

石那坂上ルコト四百六十歩。コレヨリ山ニ入ル。西ニ山アリ、東ハ大海眼下ニ見ユ。石明神を拝ス。大石巖々タル上ニ建セタマフ。是則雷断石也。

これら史料は、石名坂の石が石明神 (大甕明神、大甕神社)の雷断石であることを示している(というか石明神の石は雷断石のことなのだが)。石名坂村の宿はずれから約1キロメートル東の岩城海道ぞいに石明神はある。しかも宿の通りの一直線上にあり、現在では石の周囲に木々がしげるが、かつては雷断石を望むことができたかもしれない。

つまり石名坂は石明神、あるいは雷断石に向う坂と考えたい。

  1. [7][8][9][10]古文書学習会編『道中記にみる江戸時代の日立地方』所収

石名坂の「名」

坂と石の説明はつきました。そこで「名」です。上の小宮山楓軒の紀行文に「名」が「那」とあるように、「な」の音に漢字「名」を宛てたものです。なまえの「名」ではないと考えます。とすると「な」は何か。格助詞の「の」ではないか。石の坂。以下説明します。

辞典によれば格助詞あるいは連体助詞に「な」があります。しかし平安時代以降使われなくなっていると言います。小学館『日本国語大辞典』は次のように説明します。

体言を受け、その体言が下の体言の修飾にたつことを示す上代語。同様の連体格助詞に「の」「が」「つ」があるが、「な」はきわめて用法が狭く、上代すでに固定し、語構成要素化していた。【語誌】連体格助詞の「な」は、上代において既にかなり固定化し、「まなこ」「たなごころ」「さながら」といった一部の語にその構成要素として見出される程度になっていた。

他の辞典も同じような説明です。上代語 (奈良時代まで)であり、限られた語の結合にしか使用されておらず、現在では一語化して用いられている語の中にわずかに残っているにすぎない、というのです。「うなばら」「みなと」も例にあげています。しかし『日本国語大辞典』が用例として江戸時代寛永10年 (1633)の俳諧集「犬子集」の「色々に袋の数やそめつらむ はたけ芥子の花ぞ咲ける〈貞徳〉」をひいていることからも、石坂もありかと。

この点については門外漢ですので…。