史料 天明6年の洪水
水戸藩領大甕神社の記録から

天明6年(1786)7月、関東と東北を大雨が襲い、各地で洪水や山崩れが起こった。常陸国久慈郡久慈村(茨城県日立市)の大三箇明神(大甕神社)の祠官茅根が記録した『大三箇倭文神宮社記』(大貫幸男編で、筑波書林から翻刻本が出版されている)は、このときの久慈川流域の村々の様子や水戸、常陸国内、江戸の様子を生々しく描いている。久慈村近隣のありさまは、実際に目にしたものであろう。水戸や筑波、さらに江戸の様子は勿論伝聞だが、それほど時間をおいてからの記録ではあるまい。また神職としての意見・感想も述べられており、優れた記録である。

雨は、7月12日から降り始め、しだいに激しくなり、雷鳴もとどろいた。17日になってようやく雨は収まった。だが降りはじめてから4日後の16日に久慈川の水があふれだす。


凡例

  1. (1)縦書きを横書きに変え、史料には無い句読点と改行をほどこした。
  2. (2〕助詞のは(者)・て(而)・も(茂)・え(江)・と(与)は漢字のまま文字を小さくした。
  3. (3〕□は判読不明文字。国名と村名などを太字で示し、[ ]内は本ページ制作者による。
  4. (4〕史料本文に続けて読み下し文を付した。

[本文]

[読み下し]

[註]

  1. [1]去る卯の年:天明3年(1783)。この年の7月浅間山が噴火する。
  2. [2]村松:村松山虚空蔵堂。村松村(現東海村)にある。
  3. [3]供奉人:ぐぶにん。祭りの供として仕える人
  4. [4]申の刻:午後3時から5時
  5. [5]九つ時分:午前11時から午後1時
  6. [6]当村:久慈村 現日立市
  7. [7]明神:津明神のこと。現在では久慈サンピア日立の北東に建家に囲まれて(河原子の烏帽子岩を数分の一にした小さな岩の上に)あるが、当時は久慈川に面していたものと思われる。
  8. [8]宮田實『大甕より久慈濱あたり』は「久慈倭文祠官茅根陸奥守家包手記」よるとして、天明6年(1786)7月の条を引用している(96頁)。これを本史料と照合したところ、この位置からこの段落が終わるまでは次の文章となっている。
      根宿は天王社下迄、水寄セテ、新宿權現山迄ハ舟ニテ往來。刻々水嵩増シ逃レ殘リノ者入水ニ及ビ申候、家々ハ流ルヽモノアリ屋根ダケ水ノ上ニ見エ、名女戸ヲハジメ千福寺、寳隠寺ノ鐘ハ急ヲ告グル亂打ニ此ノ世乍ラノ水地獄ニテ候。
     異本があるのかもしれないが、この部分は洪水の悲惨さを強調するための著者宮田實の創作ではないか。ほかにはない異質の常套句や類型的な表現、例えば「寺の鐘は急を告ぐる乱打にこの世ながらの地獄」がみえるからである。
  9. [9]『久慈川災害沿革考』は『大甕より久慈濱あたり』と同文であるので1年前に刊行された同書から引用したのであろう。
  10. [10]北河原:留村の東部にある字。久慈川はここで北に折れる。
  11. [11]児島村:久慈郡。元禄5年(1692)に留村から分村。天保13年(1842)に留村に合村
  12. [12]竹瓦村:那珂郡 現東海村
  13. [13]久慈川は河口の久慈村の対岸に向渚とよばれる砂洲を形成しており、留村の北河原で流れを北に変え、久慈村の千福寺(現久慈小学校)下で海に入っていた。大雨時に北河原対岸の砂州を切り久慈川を直進させ洪水をふせごうとする留や茂宮・竹瓦・豊岡村などの上流の人々。それに対し河口を船着き場にしていた久慈村の人々は流れが直進すると船が入れなくなるとして、砂洲を切らせまいとする。明治に入って深刻な争いとなったことが『日立市史』(1959年刊 658頁)に紹介されている。
  14. [14]己れ:金蔵
  15. [15]石神:那珂郡 現東海村
  16. [16]米崎村:那珂郡 現那珂市
  17. [17]額田村:那珂郡 現那珂市
  18. [18]塩原村:那珂郡 現常陸大宮市
  19. [19]高部村:那珂郡 現常陸大宮市
  20. [20]下林村:新治郡 現石岡市
  21. [21]椎尾村:真壁郡 現桜川市
  22. [22]朝熊山:あさまやま。この場合、浅間山のこと

史料について

本記事は、大貫幸男編『大三箇倭文神宮社記』(ふるさと文庫 筑波書林刊)から採ったものである。

『大三箇倭文神宮社記』の内容は、おおよそ四つに分けられる。(1)大甕神社祭神のいわれ(2)年間の行事覚え(「年中諸事之覚」)(3)薩都宮への奉仕をめぐる争論記録(4)宝暦から明治にかけての神社と信仰に関わる地域の動き及び神職家の記録、の四つである。

本史料の成立事情に関する記事がある。天明2年(1782)2月23日の条に続けて「右此記録往昔より有之處紙損し、文字不定ニ付今般古記を雑録に模し後人のため差置申候。此儀吉凶ともに宜敷書きつぎ可申候。以上」。こう記したのは、茅根家澄。美山の号をもつ。寛政5年(1793)12月20日に77歳で歿している(「茅根美山顕彰碑」『日立の碑』所収)。天明3年からの記述は、書体が変わっていることから、「書きつぎ」されたものであろう。書き継いだのは、家澄の子の家包と思われる。本記事で紹介するものは(4)のなかの天明6年の二つの記事で、家包の記録と考えられる。

なお本項は大貫幸男編『大三箇倭文神宮社記』とは読みを異にする。それは以下に述べる理由による。

必要があってこの本を手に取ってみると、興味をひく記事がたくさん収録されていた。しかし数多くある「欠落」の表示と文章のつながりに疑問があったので、原本を確認しなければ利用は難しいと感じていたところ、偶然コピー(のコピー)を見ることができた。コピーは全部で243枚。形態上大きく二つに分けられる。一つは、綴じられた竪帳(19丁からなる)を開いて左右2頁分をコピーしたもの。もう一つは、1丁ずつ開いたうえで半丁(1頁)ごとにコピーしたもの。1丁が開かれてコピーされた理由は綴紐が失われ、1丁ずつばらばらだったからである。そこで汚れ、虫損などの史料の状態、書体の違い、文章のつながりをみながら原状の復元を試みた。何丁かが失われているようで、完全に揃えることはできなかった。

これら二つの記録とも表紙・表題はない。「大三箇倭文神宮社記」という書名は編者の大貫氏が付したものであろう。「おおみかしどりじんぐうしゃき」と読ませるのか。

附録 水戸藩領内の天明6年水害史料

上記の「大三箇倭文神宮社記」の外に以下のような史料がある。もちろん見落としているものがたくさんあるでしょうね。

上記のうちから 加藤寛斎「北郡里程間数之記」 中の記事を以下に紹介する。天明4あるいは6年は寛斎が生まれる前後。つまり体験や直接の見聞を記録したものではない。なにかしら元となる記述があったのである。そういうものとして利用されたい。読点はこのページの制作者。文章は平易であるので、そのままに示す。

天明四辰春より追々穀物引上、桑葉艸木ノ葉刻、煙草ニ入吸フ、夫食の糧ニも入ル、人々是か為ニ病を患ふ、身ヲ持たる者蔵俵物御郡方にて改む、封印ニて預置、出穀御停止入穀御免、諸国穀払底、弥以直段上ル、辰ノ七月五日夜ゟ砂降、七日別多く降、空中悉赤く光り、白昼闇ノ如シ、昼行燈にて凌く、信州浅間山焼夥敷、山岳崩、近国民屋田畑丸損し、或ハ熱湯ニ人家ヲ浸シ溺死、数十ケ村海道塞、人馬通路なし、利根川川上山津浪ニて大洪水、民屋、竹木迄流失、人馬死する数かそうるにいとまあらす、翌年諸大名衆へ被仰出、開発御普請始と云トモ□りたく、山今ニ荒蕪多シ
天明六午正月元日、ひのへ午ノ日日蝕、此年雨降つゝき夏迄冷気、六月迄□釣事なし、堀井白打ニテ埋ル、七月連日雨降つゝき、就中十五十六両日震動して車軸*を流し降事恐しく、譬ヲ引に物なし、諸国大水、水戸下町本四丁目迄高瀬船を入ル、馬場伊藤孫兵衛屋敷二階より船ニ乗、下町市中普く水入、屋根ニ上り、木ニ挙、間ニ合ぬものハ柱ニすかり、数刻を待 上ゟ助船を出シて救給ふ、新舟渡、細谷普く家流失、或ハ土地ヲ失ふものあり、家ニ乗、上川ゟ海ニ流れ通るもの数不知、御助船十二艘出ル、枝川人家残少ニ流失、御蔵濡俵村々へ御貸出ニ成ル、御府内ハ尚更江戸中溺死人幾千万といふをしらす、助船百艘を以救ハせらる、堺町芝居座其外小高き所御救小屋立、御炊出被下、家根ニ上り命拾ふたるもの多くと云、下谷田村何某も十六日ゟ廿四日迄日数九日梁の上ニすかり命を拾ふとそ、天明七未春ゟ夏迄諸国飢饉、餓死人当国ニ来り、道路ニ充満せん、就中南部津軽之もの多く餓死セりと聞
  1. *車軸:しゃじく。(雨滴の太さが車の心棒ほどもあるという意から)雨あしの太い雨が降ること(日国)