日立鉱山煙害のもう一つの予防策
大煙突と積極的予防法
排煙から亜硫酸ガスを取り除くことを考えなかったのか
1905年(明治38)末、長州閥の久原房之助が茨城県多賀郡日立村の赤沢銅山を買収し、日立鉱山と名称を変え、豊富な資金と積極的な新技術の導入をもって、日本有数の銅山へと成長させた。久原が最初に地域とのあいだで解決を迫られたのが、鉱毒水問題である。これを「補償」によってのりこえる。
ついで煙害問題である。生産が急速に増大していくと、排煙がより広範囲かつ激しく樹木や農作物に被害をもたらした。その時、久原がとった解決方法は、高い煙突を建設し、高い位置から排煙することにより亜硫酸ガスを稀釈することであった。1915年(大正4)大煙突の建設(こちら『日立鉱山の大煙突』を参照)である。
このとき日立鉱山では排煙から亜硫酸ガスを取り除くことを考えなかったのか。この問いは、1960年代の「公害」が認識される時期以降の考え方で、亜硫酸ガス回収技術がなかった時期に求めるのは、一般的には後付けの考えだとされがちである。
しかしそうではなかった。日立鉱山では大煙突建設前に検討されていたのである。『日立鉱山史』(140頁)に次のようにある。
如何に賠償問題の圓満解決に奔走しても、その根源を衝かなければ、事態は益々紛糾するのみであることは自明の理であるから、事務所に於ては固より官廳指令[1]前に積極、消極両面の豫防法が檢討されていた。積極的豫防法としては、
等が立案研究されたが當時未だ経済的に成功するの域に達し得なかつた。
- 一、排煙中の亞硫酸を酸化せしめて硫酸を製造する。
- 二、煤煙中の硫黄を利用して二硫化炭素を製造する。
- 三、溶鑛爐に重油を注加し、これに依つて生ずる硫化水素と有害成分たる亞硫酸を化合せしめて硫黄を生成する還元法を採用する。
- [1]官廳指令:政府は煙害の原因は、亜硫酸ガスと煙塵の作用であるとして、1912年(大正元)に日立鉱山に麦・葉煙草の成育期に亜硫酸ガスの量を1.5/1000内、その他の月は3/1000以内に稀釈することのできる施設を造るよう命じた。
研究に成功したが
『日立鉱山史』111頁に次のような記述がある。
明治四四年六月 硫酸工場操業—現在の塵炭場附近、粉鑛焙燒による鉛室法(現在取払済。当時、既に硫酸工場を建設したことは刮目に値するが、皮肉にも製品の販路なく、操業を中止したと云う。)
この1911年(明治44)に操業を開始した硫酸工場は、排煙中の亞硫酸ガスを回収する目的だったものと思われる。1908年(明治41)に大雄院跡地に中央製錬所の建設がはじまり、1912年までに10基の溶鉱炉が動き始めた。その流れの中での硫酸工場の建設であった。
鉛室法とは大きな鉛ばりの部屋(鉛室)の中で二酸化窒素を触媒として二酸化硫黄を硫酸に変える方法で、19世紀後半にはヨーロッパで普及していた。これは「積極的予防法」の一つとして研究された「排煙中の亞硫酸を酸化せしめて硫酸を製造する」に該当する。鉛室法による硫酸工場を建設し、研究をおこなった。研究は成功し、排煙中から亜硫酸ガスを回収することができた。しかし硫酸は売れなかった。
排煙から取り出した硫酸、二硫化水素、硫黄は当時の市場では売れなかった。売れるあてのない硫酸が日立鉱山にたまり続ける。そこで次善の策として「消極的予防法」である高煙突による稀釈排煙法と農作物の生育時期にあわせた制限溶鉱法が採用されたのである。
日立鉱山煙害問題における「積極的予防法」と「消極的予防法」は、企業経営と技術と社会を考える今日的材料を提供していよう。
その後
排煙から硫酸を回収する事業に本格的に乗り出したのは、1951年(昭和26)排煙硫酸工場の稼働によってである。
工場建設の目的は、敗戦後「當山亦異常な減産と原價高に當面し、何等かの劃期的施策を必要とするに至」り「一つには事業經営の合理化の一助として、二つに乏しき國内資源の完全利用の一方策といたしまして、三つには煙害絶滅の一手段たらしめ」ることであった[2]。つまりこの時期になると硫酸は売れるようになっていたのである。
そして1972年の自溶炉の完成である。製錬方式の変更によって「従来73%台であった亜硫酸ガスの回収率が、98%」[3]となった。
その4年後の1976年、自溶炉は休止となり、日立鉱山における銅溶錬72年の歴史は閉じる。
- [2]『日立鉱山史』412頁
- [3]『日立鉱山史追捕』1986年刊