昭和二十年六月十日—日立工場戦災記録—

1945(昭和20)年6月10日、日立製作所日立工場海岸工場はアメリカ軍のB29爆撃機による1トン爆弾の攻撃にさらされ、死者は634人にのぼった。本書はこのときの被災記録として最も詳しく、まとまったものであり、かつ日立製作所の公式記録である。

この本の出版から今年2015年で60年近くがたとうとしている。非売品であり、一般に配布されなかったため、読まれる機会は少なかったと思われる。今あらためて読んでみると史料としての価値も高い。入手は困難であるが、図書館で読むことができる。

目次につづけて内容を摘記した。

口絵写真 12頁
大西定彦巻頭題字/昭和20年6月10日日立海岸工場被弾図/当時の日立工場、日立研究所幹部写真/陶輪碑/陶輪碑背面銘刻/被爆炎上−海上地区第一、第二鋳造工場・海北地区変圧器工場/破壊の跡−海設地区日立研究所・海下地区大型電気工場/戦災後の海下地区工場/戦災前の海下地区工場/最近の日立海岸工場(昭和32年)/小平記念館
はしがき …日立工場長松野武一
一、運命の年昭和二十年 …1
二、日立附近における空襲の状況 …2
6月10日以前の茨城県北部(高萩町山林、前渡水戸飛行場、大津町へのアメリカ軍による)空襲概要
三、三笠宮殿下御来場 …3
三笠宮の6月9日海岸工場視察と9日の休電日を翌10日の日曜日に振替えた経過を記述。写真2葉(大西工場長より工場概況を御聴取/工場視察へ)を載せる。
四、戦災直前の日立工場の一般状況 …4
日立工場が昭和19年に軍需会社法による指定工場となり、陸軍・海軍・軍需・運輸通信省の管理下にあること、そして工場規模を(1)敷地及び建坪(海岸・山手・電線・山崎・高萩・小名浜の工場別に示す。海岸工場は建物坪数で6万316坪、全体の58%を占めていた)(2)従業員数(職員・工員・学徒・学童・挺身隊・勤労報国隊・応徴士・派遣工区分ごとに男女別人数を表によって示す。合計は3万859人。このほか応召入営者数を欄外に記す)(3)主要設備(4)主要製品(陸軍・海軍・航空兵器総局・軍需省・運輸通信省の5区分によって製品名を記載する)の4項目を表にして示す。
五、日立工場の防護態勢 …8
退避施設として、木造有蓋待避壕・素掘無蓋待避壕・作業用ピット利用・横穴利用・コンクリート地下防護室・横穴式地下防空壕をあげ、その数と収容人員を記す。とくに軍から地下工場として建設するよう督促のあった地下防空壕の仕様と平面図を添える。
六、あゝ六月十日 …13
6月10日の海岸工場出勤者は、休日防衛出勤者をはじめ1060人。通常の10%程度だったと言う。つまり海岸工場がこの日振替休日でなかったら、1万人を超える人々が働いていたことになる。午前8時56分の第1波から始まり同9時30分の第4波で終わるアメリカ軍爆撃機B29機の来襲の様子が時間を追って克明に記される。この日は、地下壕埋没者の救出作業が集中的に行われ、午後5時日立工場連合特設防護団総本部から次にあげる6項目の指示がだされた。
一、死体収容所は日立高等女学校(現茨城県立日立第二高等学校)とす。同所藤井庶務係員に引き渡すべし。運搬は各防護団にて実施のこと。
二、埋没者発掘は徹宵実施すべし。右に関しては田中(達次郎)営繕課長の指示を受くべし。
三、一般復旧作業は午後六時を以て終了すべし。
四、夜間各地区各防護団は当直者を残置し、交代勤務すべし。
五、一般従業員は死体発掘に協力せしめ、爾余のものは午後六時を以て退場帰宅すべし。
六、火災は日没時までに鎮火せしむる如く努力、消火に努むべし。
写真4葉(第一波被爆直後防護団員の活動/爆撃の被害甚大/高尾副社長被害状況調査/連合特設防護団総本部)を載せる。
七、必死の救助作業も空しく …22
地下防空壕での死者が多かった原因について、「われわれは地下防空壕を退避のために設置し使用したのに対し敵は地下工場があると見てこゝに攻撃を集中したところに原因がある」と述べるなど詳細な分析がある。地下防空壕の発掘作業は、11月27日まで続けられた。写真11葉(6月11日総蹶起大会/総蹶起大会における連合特設防護団幹部/総蹶起大会に集った人々/6月20日第一回合同慰霊祭々壇/海下地区原動機工場/海下地区直流工場/海下地区鋳造工場附近/会瀬地区ボイラー工場及びその附近/海岸事務所裏側/東設計室/7月15日施餓鬼供養)を載せる。
八、艦砲射撃を受く …31
7月17日深夜のアメリカ艦隊の砲撃について「防空壕に被弾して死亡するもの、逃げおくれて倒壊家屋におしつぶされるもの、直撃弾に倒れるもの等惨状は目をおおわせるものがあり」とし、鹿島女子寮(日立市助川上町)の寮生が防空壕での直撃弾により22人死亡。田手沼青年学校寄宿舎では寮生と派遣工、茨城師範学校・福島経済専門学校の動員学徒が死亡した。日立工場では寮や社宅居住者128人が死亡したことを記す。
九、焼夷弾により全市焦土化す …34
7月19日深夜、B29による焼夷弾投下による被災状況が記される。市民の死亡原因は直撃弾によるもの、地下壕での窒息によるもの、火炎にまかれたことによるものとする。21日の日立工場部長会議において大西定彦工場長から5項目の戦災復旧対策が示され、電力・水道・電話の復旧、戦災休暇、本土決戦に備えた5日間の疎開休暇、戦災相談所の開設、臨時給与の支給などが行われた。図・写真3葉(日立製作所茨城地区各工場所在地略図/日立病院結核病棟/日立工場青年学校寄宿舎)を載せる。
一〇、戦災による犠牲者 …41
6月10日から8月1日までの空襲(艦砲射撃含む)による従業員等の死者の氏名を所属ごとに職名とともに記される。
(1)6月10日空襲による死者634人。内学徒9人(仙台工業専門学校2人・宮城工業5人・福島経済専門学校1名・多賀工業専門学校1人)・外来人夫45人・防衛召集中戦死者40人の項目もある。
(2)6月10日空襲による従業員自宅死者35人。
(3)7月17日艦載機の空襲による日立工場と多賀工場の死者2名。
(4)7月17日艦砲射撃による従業員等死者200人が工場別(日立116人・多賀71人・水戸13人)に記される。内学徒として茨城師範学校(茨城大学教育学部)12人・福島経済専門学校(福島大学経済学部)5人・日立市立中学校(茨城県立日立工業高等学校)2人、仙台造兵廠工員9人の名がある。
(5)7月19日焼夷弾攻撃による死亡従業員(日立工場14人・多賀工場2人)
(6)8月1日水戸市焼夷弾攻撃による従業員等死者(水戸工場の5人、多賀工場の挺身隊1人・水戸女子商業学校1人)

一一、工場施設の被害 …66
6月10日、7月17日、7月19日それぞれに工場別に建屋と施設の被害状況を記載する。
一二、日立市の被害 …72
被災当時の日立市役所の調査報告から「日立工場関係分」を含め被害家屋と死傷者数を記載する。合計死者数を1266人とするが、日立市ではその後の判明分を入れてこの数より増えている。
一三、遺芳とこしえに …73
附録一 岩間正二課員遺書 …77
海岸工場ポンプ製作課准職員の岩間正二課員の遺体が昭和20年10月26日に地下防空壕で発見された。左手に握られていた手帳には遺書が記されていた。その全文を翻刻する。
附録二 日立工場戦災をしのぶ座談会記録 …85
昭和32年8月21日に行われた日立工場の当時の幹部たちの座談会の記録である。出席者は、大西定彦(工場長)、駒井健一郎(副工場長)、松野武一(副工場長)、小宮義和(電線部長)、伊藤俊雄(経理部長)、万田五郎(総務部長兼勤労部長)、玉村秀雄(第一勤労課長兼警防課長)に紙上参加として森島貞一(日立製作所常務取締役)のあわせて8人である。( )内の役職は戦災当時のものである。
座談会の一部をこちら 史料 日立工場戦災をしのぶ座談会記録 に載せました。
あとがき …115