史料 日立工場戦災をしのぶ座談会記録
『昭和二十年六月十日—日立工場戦災記録—』より
凡例
- ◦座談会が行われたのは、昭和32年(1957)8月21日である。出席者の所属・役職は昭和32年当時のもの。
- ◦縦書きを横書きに改め、仮名遣いはそのままとした。
- ◦[ ]内は、ページ作成者の註である。
- 1 爆撃をどの程度予想したか
- 2 地下防空濠について
- 3 三笠宮殿下の御来場
- 4 六月十日当日の思い出
- 5 艦砲射撃、焼夷弾による被災
- 6 殉職者の追憶
- 7 終戦の日の思い出
- 8 戦災復旧の苦心
[内容細目]
- 大西定彦(現在 日立製作所副社長 戦災当時 日立工場長)
- 駒井健一郎(現在 日立製作所専務取締役 戦災当時 日立工場副工場長)
- 松野武一(現在 日立製作所常務取締役 戦災当時 日立工場副工場長)
- 小宮義和(現在 日立製作所取締役 戦災当時 日立工場電線部長)
- 伊藤俊雄(現在 日立製作所取締役 戦災当時 日立工場経理部長)
- 万田五郎(現在 日立土地株式会社取締役社長 戦災当時 日立工場総務部長兼勤労部長)
- (司会)玉村秀雄(現在 日立土地専務取締役 戦災当時 日立工場第一勤労課長兼警防課長)
- (紙上参加)森島貞一(現在 株式会社東洋伸銅所取締役社長 戦災当時 日立製作所常務取締役)
目次の詳細についてはこちら 昭和二十年六月十日—日立工場戦災記録— に載せました。
[出席者]
一、爆撃をどの程度予想したか
- 松野 先ず大西さんにおうかがいしたいのですが、爆撃を受けるだろうという予感、予測がありましたですか。
- 大西 そうですね、それより先に僕は、海岸工場は非常に運のよい工場であると思つています。
そもそも海岸工場を作ろうとしていた時は昭和三、四年の不景気のどん底の時です。
当時日立工場長の高尾さんに従つて僕は外国を廻りましたが、GEに行つた時にね、この不景気の時に日立は、五十万坪の土地を買つて工場を建てるということを聞いたが本当か、とGEから質問されたのですよ。
それで高尾さんは、にやにや笑つて、大体そのような話をしていたが、まだ土地を買つたかどうかよく聞いていないという返事をされましたがね。
その頃高尾さんが外国を廻られたのは、世界中の大きな工場を見て、最も近代的な工場を建設する構想をたてるためだつたのですからね。高尾さんはよく知つておられましたがその時具体的な返事はされなかつたけれども御自身としては、不景気のどん底に土地を買つてどうするかというGEの問に対してはちよつとギクリとされたようです。土地は買つたが一体工場はどうなるだろう、自分の一生のうちに建つだろうかというような気持は抱いておられたようで、汽車の中でそのことを高尾さんと話した時、高尾さんは『そうだな、一生のうちに半分は建つかな』(笑)ということでした。
外国から帰つて来て、不景気のどん底だからなんにも仕事がありやしないよね。だから昭和電工さんの電解槽をやることになりましたが、これは電気品ではありませんしねえ、うちでやつたことなどないですよ。まあ仕事がないから乗るかそるかやつて見ようということです。それには山手では出来ませんから海岸に一つ工場を作ろうというわけで、海岸工場の第一番目に製罐工場を作つて、そこで電解槽を作ることになつたのです。多胡宇之助さんとか、あの時の工具係という連中を集めて、電解槽を試作して山手で種々の試験をやつたりしたのですが、その電解槽が運よく行つたのですね。あの時電解槽が失敗したら昭和電工さんも苦境におちいるし、結局うちも金が貰えませんしねえ。そうなつたら共倒れだということを覚悟でやつたのですよ。それが昭和電工さんもうまく行つたし日立もそれでかせいだということで、海岸工場の振出しが先ず具合が良かつたわけです
それからあとは戦争時代になつて、予定よりも需要が多くなり、少しづつ知らないうちに工場が建つて来たのですね。ですから大東亜戦争という時には 立派な工場が出来上つていたのです。
それを最後につぶされる瞬間にも三笠宮様がお出でになつて、電休日だつたのを繰りかえてお迎えし、休みとなつた日に爆撃されるということになつたのです。どうせあれだけの工場施設だからやられることは時期の問題なのですね。それが就業中にやられたら、何万かの犠牲者を出したろうし、拾収つかないことになつたと思いますよ。
先ずそういう風に海岸工場は出来る時からつぶされる時まで遅が良いんだね。
それからこゝにお出でになる方々も、防空壕に入つても壕が不発弾のために助かつてしまうというわけで、このように運が良いわけだね。
それからその次に小平さんが見えて、もう一ぺん必ず復興するのだと決意をせられ、復興に起ち上たと同時に終戦になつたが、もし終戦までに大きな工場があのまゝ残つて、多数の従業員が残つていたら、経営面で重荷になつたのだろうし、非常に身軽にしてくれたわけだねえ(笑)それから大きな機械は案外壊れていなかつたしね。
そりやあ、いつかはやられるだろうとは思つていましたがねえ、しかしいまある工場が爆撃でつぶされることよりもあれだけの従業員を無事にどこへ逃げさせるかということ、敵が上陸して従業員が皆捕虜になるかどうかという破目になつたときに、どうしたら従業員を無事に待避させることができるかということを随分考えていました。それで皆さん御承知のように疎開工場というものの一つの例としては従業員が一日の間ずつと歩いて、その晩には疎開工場に着いて、そこで一晩寝て、また翌日歩いてもらうようにするため、第一線のルートは本山から入四間に行つて、最後に郡山の方まで逃げるというような経路を考えました。それには一団体が一万人以上ずるずるとは行けないからね。まあ我々の待避過程といゝますか最後の段階について一番心配していました。多賀工専の校長さんの早川富正さん(艦砲で亡くなられた)から、日立の全従業員(三万一千人)が敵の上陸の場合待避する計画があるそうだが、多賀工専の生徒一千余人も一しよに入れてくれという話がありまして、引受けましようというわけで、待避のルートを書いて上げたらそれを持つて帰りましたがね。
このように爆撃よりもその先のことを心配しておりましたが、それが爆撃で止まつて、敵の上陸という事態に至らずして、終戦を迎えましたことは、海岸工場としては大きな犠牲を払いましたけれども、それでもなお我々が考えていたよりも軽い形ですんだということができると思います。 - 森島 北九州に敵機が来襲し、八幡製鉄所も爆撃を受けたという情報が入つた時、いつかはうちの工場もやられるかも知れないと覚悟はしていたね。
- 伊藤 しかしあれだけの大爆撃を受けるとは思いませんでしたね。焼夷弾を食うとは予想してバケツリレー消火訓練などやつていましたからね。
- 駒井 一トン爆弾はうちが一番早かつたですか。
- 伊藤 郡山なんかもやられていますが、五百kgですよ。
- 小宮 立川辺の飛行機会社がやられましたが、その時は二百五十kg爆弾で、昼間に相当やられて従業員が死にました。だから工場の中に人間をおくことは危険だ、防護団員なんかも一応は逃げろという指令が五月頃出たんですよ。それで短時間に従業員を外へ逃げさせること、その代りに早く帰つてこなければいかんということだつたが、行つてしまうと仲々帰つて来なくつてね。鬼は外(大西さんの略符号は以前オニ)とか何とか言つて…(笑)
- 大西 一トン爆弾は大阪の住友金属が日立より先にやられたね。
- 駒井 愛知時計が早かつたですね。
- 大西 あれは待避して帰つて来るところをどかんとやられたのでタイミングが非常に悪かつた。うちと違つて不幸だつたですね。
- 小宮 太平洋爆撃の記録を読むと、小さな爆弾がなくなつてその代りに一トン爆弾、ベトン[註]用の爆弾を工場爆撃に使つたという終戦後の記録を読んだことがありますよ。
- [註 ベトン:フランス語で、コンクリートのこと。小さな爆弾(250kg)がなくなったため、1トン爆弾が日立に落とされたという小宮の発言は検証の必要があろう。海岸工場の地下に工場があると米軍は探知して、より大きな1トン爆弾を投下したのだ、という話を日立製作所の従業員の方から聞いたことがある。その噂を否定する小宮の発言である]
二、地下防空壕について
- 駒井 地下防空壕についてはあそこへ入れば安心だと思つていましたね。
- 大西 あれは軍の人が来るたびに、工場の真ん中にあのような小山があるのに横穴な掘らない手はない。地下工場を作るのに最も適当である。とやんやと言われてね。なるほど最後は地下工場でやらなければならない時が来るかも知れないとは思つたがね、僕自身は反対だつた。なぜかというと、どうせ爆撃のため地下工場でやらなければならないような時は、自家発電によらなければなりませんが、工場でディーゼル発電をやつてもいくらも生産にはならないですよ、金だけは非常にかゝつてね。工廠などで大きな軍艦を修理するというような場合ちよつとの修理で五万トンの軍艦を動かすような効果が期待できるのなら別ですがね。はじめから生産工場でやつても、いくらもプラスにはならないということで、地下工場の計画が変つて皆の待避する場所にしようということになつたのですよ[註]。はじめコンクリートを全部巻く予定だつたが戦況が不利になつて資材も手に入らなくなつてしまつたので一部分しかコンクリートを巻けなかつたのですよ。予算も三百万円というのは半分はコンクリートを巻く予算でした。
- [註 軍の指導を受けて地下工場建設が検討された。しかし経済性の問題から計画は変更され、防空壕となったことが示されている]
- 小宮 大西さんはあの当時はドイツの森の工場に相当する沢の工場をやれといわれましたね。(笑)
- 大西 地下工場というのはだめだ、むしろ安全なのは沢工場だ。というのは日立あたりは割合沢が近くにあるものだから同じやるなら沢工場にした方が良いだろうというわけで、電線工場が行きましたね。お祭り騒ぎでした。
- 万田 地下防空壕は僕らは大丈夫と思つていましたね。[註]
- [註 地下工場は危険だと大西は言った。しかしそれは後追いの考えではないか。万田は「僕らは大丈夫だと思っていました」と反発する。しかし最も丈夫で安全と思われた西側の防空壕から多くの死者をだした。一方、一番危険だとされた本館に近い防空壕の上に落ちた爆弾は不発で、多くの幹部が生き残った。この矛盾について万田は発言を続ける。万田は、参加者7人中発言はもっとも少ないが、発言はこの章に集中する。第4章で遺体の処置について苦労したはずだと司会者から発言を求められた万田は一言「忘れましたね」だった]
- 大西 ズリが出て、それが爆撃の原因となるとは少しも考えなかつたからね。だからむしろあゝいう風なことまで気がつけば、どこか他の方の鉱山のカラミの方にでも横穴を掘つてズリを出しておいて他の方にばーつと爆弾を使わせたらよかつたと思つていますよ。(笑)
- 伊藤 あれは、岩盤だというのではじめたのでしたね。
- 大西 鏡徳寺側のふもとが割合固いので、あそこに立派な防空壕を作つて三笠宮様がお出でになつて御視察中に空襲があつたらその中に待避して頂くというのでわざわざ待避所を作つたのですが、あそこのやられ方が一番ひどかつたね。だから宮様にあそこへ待避して頂くような事になつたら大変な事になりましたよ。その時は幹部も皆入るからね。宮様も工場幹部も全部やられてしまうところだつた。
- 松野 後藤登一郎さん(需品部長)はあそこで死にました。
- 万田 宮様もあの壕を御覧になられて、これなら大丈夫だといわれたのではなかつたですか。
- 大西 あの中まで御案内して見てもらいましたね。
- 万田 何と言われたか言葉は正確に覚えていませんが、よく出来ている。これなら大丈夫だというような意味のことをいわれたように思います。
- 大西 一番ひどくやられたものね。
- 万田 この本の附録に、岩間君の遺書がありますね。その中に『まだ不完全な壕に入れる。我々のように地埋めにならなくても生埋めになるものあり』[註1]と書いてあり僕は非常に気になるのですが、僕が僅かに慰められますのは……大西さんは覚えておられますか……、それは大西さんからも言われたことですが、総本部の壕が他の壕にくらべて一番危険な状態だつたのです。他の壕は高台の下から入つて行くわけで土かぶりは厚いわけですが、本部の壕は高台の上から入つて行く斜坑なものですから土かぶりが少いんですね。危いから早くコンクリートで巻けと営繕課長に言つておりましたが、とうとうコンクリート巻きをしないうちに爆撃されてしまつたわけです。ですからその壕に入つておりましても、ほかの壕は大丈夫だと思つておりましたが本部の壕が危い、いつつぶされるか、いつつぶされるかとばかり思つておりました。ですから岩間君の遺書を見ましても、本部の壕が一番危かつたのが幸いにして落ちた爆弾が不発弾だつたために助かつたのだからと、この点で慰められるのです[註2]。
- [註1 岩間正二課員の遺書の該当部分の原文は「未ダ不完全ナル壕ニ人ヲ入レル我々ノ如ク地埋ニ会ハナクテモ生埋ニナルモノアリ」である。]
- [註2 私たちが読むことができる戦災体験談は、死を免れた人々のものである。当然である。しかし死者の体験談が残されている。それが岩間正二課員の手帳に記録された「遺書」である。その一部を万田は引用する。「不完全な防空壕に入ったため、土砂に押しつぶされて死ぬばかりでなく、出口をふさがれて生きながら死ぬこともあるのだ」。工場として不完全な壕にしておいたことへの自責の念。万田自身、最も危険とされた本部の防空壕で恐怖にさらされながら、結局生きのびたこと。岩間課員と万田を分かつものは偶然であった。偶然は平等に訪れるのだ、が万田の岩間課員そして防空壕で亡くなった人々への釈明となっている]
- 大西 あゝいう大きな爆弾でね、土かぶりが皆ガクガクに崩れてしまうことは考えなかつたものね。
- 伊藤 この岩間君の遺書に『横穴壕にはガス管或は鋼管の如き中が抜けて音の伝わる如きものを用意する必要あり』とあるが、これは今の炭坑などで生埋めになつているのはみなこれで助かつていますね。これ非常によい教訓ですよ。
- 大西 何かパイプの大きなものを置いておくべきだつたのでしよう。つぶされることを考えればそんな手はあつたのだけどねえ。僕はとに角コンクリートで巻け巻けと言つたが、残念なことにセメントが欠乏してしまつてね。
- 駒井 何人か何日目かに生きて帰つたことがあつたでしよう。あれはコソクリートを巻いてある壕ですか。
- 万田 あれは山側の壕の中です。
- 松野 地盤のよい、岩盤のあるところですよ。岩盤といつても水成岩ですがね。
三、三笠宮殿下の御来場
- 大西 御来場の前のごとについては、やはりお出でになる日取りが繰延べになつて六月九日と日がきまつたのはごく僅か前で、あわてゝ電休日を六月十日に切換えてお迎えしたことですね。
それから宮様のお出でになつた当日の御案内の方法についてはほかの時よりも制限といゝますか、御注意といゝますか、そのようなことは少かつたように思います。
宮様は各所を廻つておられましたから割合気楽に御案内してよいということでした。
宮様を御案内することについてはそんなに記憶に残るほどの変つたことはありませんでした。
ところが爆撃の直後お出でになられましたことは大いに驚きもし感激もしました。
宮様がお出でになつて、すぐ『これから昨日廻つた通りもう一ペん廻るんだ』と申されましたので、こちらは工場の服装である普通の国民服のまゝで、昨日と違つて改まつた調子でありませんから、私も『御案内しましよう』とさつさと気軽に出かけたところ、さあ山あり谷ありで歩けませんやね(笑)途中でもう犠牲者の死体がひつかゝつたりしていましてね。そうしましたら多分侍従の人だつたでしようか、その人がもうやめたやめたといつて盛に僕の袖を引つぱるのです。僕は引つぱられても宮様はさつさと先にお出でになられるのだからね。(笑) - 松野 どの辺まで御案内されたのですか。
- 大西 変圧器工場まで行きました。
- 松野 そうですか。ポンプ工場の方からお歩きになられたのですか。
- 大西 それから先はあまりにひどかつたので、帰られましたがね。あとで戦災の写真ができたら送るようにとのことでしたのでお送りしました。
- その写真は宮様から天皇陛下に御覧に入れました由承わつておりますが、それで天皇陛下も、日立工場のことが非常に御記憶に残つておられたのですね。(注 翌二十一年十一月、天皇陛下には茨城地方御巡幸のみぎり、日立海岸工場を御視察せられた。)
- 玉村 私は警備の責任上宮様がお出でになつておられるうちに爆撃があつて、もし御怪我でもあつたら、腹を切つて申訳しようと思つた位で、徹頭徹尾心配しました。何事もなく無事に大甕にお送り出来て、本当にやれやれと重荷を下した感がしました。ですから六月九日も生命がけだつたわけです。
- 伊藤 御来場の御予定は最初はいつだつたのですか。
- 玉村 二月末頃の御予定だつたのが延期になつていたのです。
- 森島 最初県庁からだつたと記憶しているが、三笠宮殿下が二月末頃御来場になるという連絡があつて、その時僕は、万一御来場中に空襲を受けたら、宮様に待避して頂く防空濠が出来てないから延期してもらうようにと、万田総務部長にだつたと思うが、指示し県庁に連絡をとり延ばしてもらつたのですよ。それからもう一度、四月頃だつたか工場の周辺の民家を疎開するごつた返しの騒ぎの頃御来場の話があつて、その時も工場の周辺があまりにもごたごたしているので延期して頂いたのです。だから六月九日御来場のお話は三度目のことなので、休日を繰替えて、九日は全員出勤してお迎えしたのです。
- 駒井 三笠宮様の来られた時は空襲警報か警戒警報はありましたかね。
- 玉村 何もなかつたと思います。
- 小宮 嵐の前の静けさだ(笑) 一機位は来たかも知れませんね。
- 大西 ちよつと警戒警報があつたかも知れませんが、とに角工場御案内の間は何もありませんでしたね。
- 森島 その晩大甕にお泊りになつてね、御陪食の話もあつたが、大した食事も用意できないので、やめにして、工場から僕だけお伴したのです。大甕で県知事や警察部長やお付の武官と話をしていたら、殿下がお出でになつて皆と一緒に食事をするとの仰せで、あわてゝ席を設け御一緒にお食事しました。鉱山からは福田重清氏が出ておられましたね。その席で殿下から『方々で工場が爆撃をうけているが日立はどうして爆撃されないのか』という御下問がありまして、或る人はアメリカ軍が日本を占領した時修理工場にする計画かも知れませんと答えるし、或は日立鉱山に白人の捕虜を収容しているからそのせいでしようと、うがつた説を唱える人もありました。翌朝、殿下は八時の汽車でお帰りになられる御予定でしたので、僕は七時半頃お送りするため、厚生園近くの僕の家から出かけて行きましたら、間もなく空襲警報です、空襲警報中は殿下は列車にお乗りにならないことになつていたので厚生園の待避壕にお入り願つたのです。その壕も僕が、二、三日前に見廻つた時は素掘りに簡単な掩蓋を施した粗末なものなので今尾二三郎君に角材を用いた丈夫なものに改造させたところ、それがお役に立ちました。宮様は壕内で退屈なさつたらしく芝生に椅子と机を出して御休息なさつていますと、土浦の方向に黒煙が上るのが見え、警察部長に電話で土浦被爆の連絡が入り、そのうち間もなくB二九の爆音が聞えて来て、いつもなら大甕の上空から海へ抜けるやつが真直ぐ国道沿いに北へ向つて行くんだね。これは怪しいと思つていたら日立の方から爆弾の音がする。上台がちつとも見えなくなつてしまつたのですよ。それから裏手の山の上から望遠鏡で見ると正しく海岸工場がやられているので、厚生園へ行つて殿下においとまを申し上げ、自動車ですぐ工場へかけつけました。途中で三波と四波に遭いました。山側門の所から惨たんたる工場の中を通つて海岸事務所へ辿りついたら、間もなく殿下がお出でになられたというので大急ぎで正門の所へお迎えに出ました。殿下は僕がおいとまをしたあとすぐ海岸沿いの県道を通つてお出でになられたようです。
四、六月十日当日の思い出
- [中略]
- 大西 僕はお互に注意しなければならないと思つたことですがね、あの日は休みでしたから工場へは出なくてもよかつたのですが、日立工事の広津さんと船木さんが用事があるということで前の晩から来ておりましたので、早目に工場に出て工場長室で話しておりました。そしたら、空襲警報でしよう。
空襲警報でも馴れつこになつているので、待避などしやしないよね。しかし僕は外を見ていたのだが、するとブーンと音がして来たので窓をあけて見ますと、B二九の編隊がこつちに向つてやつて来る。これはいかんとすぐ本部の防空壕へかけ込みました。ところが広津さんと船木さんは悠々たるもので、当時はそのような時に慌てないことがえらいという気風があつたのですね。(笑)
だからざーつと爆弾が落ちて来た時にはまだ室の中にいたのですね。それで仕様がなくて僕の机の下にもぐつていたのだそうですが、僕は防空壕へかけ込んで爆風でばーつとやられたがとに角間に合いました。 広津さん、船木さんは第一波が来てこれはいかんと逃げ出した時は道も歩けない位になつている。それから広津さんが、駈けられないのを船木さんが引つぱつて会瀬の畠の中へ逃げやつと第二波が来る前に田圃の中へ逃げられたからよいが、横着をしてはいかんというよい例だと思うね。 - 駒井 空襲警報は前からたびたび出ていましたが、空襲警報で艦載機が来ても割合待避はしませんでしたね。当日待避命令が出た時はB二九が頭の上に来ていました。
- 松野 あの時屋上監視哨に出ていたのは誰だつたかね。
- 玉村 塚本茂晶君ほか五名位でした。
- 松野 あれが命令を出したわけだね。待避命令を。
- 玉村 それを総本部から伝達しました。
- 大西 ラジオでは何か土浦方面をどうとか、こうとか言つていたね。
- 駒井 土浦方面がどうと言つた時からすぐ来たのですね。僕は待避信号が出て待避しかかつたが防空頭巾を忘れて来たのでとりに戻つたらもう間に合わなかつた。
- 松野 我々は空襲警報が出てから、本部へ出ることになつていました。
- 僕は総本部に出ていましたが、当日は割合早く空襲警報が出ていたのではなかつたのかな。
- 玉村 空襲警報の発令は七時五五分です。
- 駒井 我々も空襲警報で集つたわけですね。敵機襲来は何時ですか。
- 玉村 八時五一分です。
- 伊藤 警報発令から一時間位だつたのだね。
- 駒井 玉村さんは屋上に行つてたんじやないですか。
- 玉村 第一波が終つてから屋上に行つて見たのです。
- 松野 第二波の時は間にあわなかつたの。
- 玉村 そうです。
- 大西 僕は第一波のすぐあと工場全休を見ようと思つてね。今のちょうど創業小屋のあるあたりまで行つて見たのですが、そしたら誰かが『危いつ、危いつ』と言うんですね。そこで見たら第二波が来たんです。
- 駒井 大西さんが工場を見に行くというので、僕もついて行きました。そしたら行つたとたんにばーつというでしょう。
- 大西 第二波の時は漸くだつたろうな。
- 駒井 ようやく間に合つた。
- 松野 本部の壕にですか。
- 大西 そう。
- 玉村 危かつたですね。私は第二、第三波が次々と来るとは全く思いもよりませんでしたね。一波でたしか三十機だか来ていますからね。
- 駒井 一波であれだけやられたからね。
- 松野 僕ははずかしいことだが壕があれだけやられることは想像していなかつたですよ。四波がすんで駒井さんと一緒に居ましたね。そしたら奥の方の通路がつぶされたという連絡でしよう。こんな深い所で壕がつぶれる筈はないと、わざわざ懐中電灯をつけて見に行つたら、チヤントつぶされているんですね、それから向うへ出られないと言うんでしよう。あんなにつぶされるとは想像もしていませんでしたねえ。
- 大西 僕は第二波の時にね、地震のようにざーつ、ざーつと音がしきりにするので、これは壕がつぶされるのではないかと思つてね。奥の方へ入ろうとしたら宇野沢君だつたと思うが、余り奥の方へ行くと危いから戻つた方がよいですよと注意してくれてね。相当奥まで入つたがその間しきりにざーつと音がしている。これは困つた出口がなくなつたらどうにもならぬ。と心配しながら帰つて来たら出口のところが、ポーツといくらか明るく見えるのだね。それであゝどこかあいていれば大丈夫だと思いました。僕は手の時計がはずれて、血がついていたんだけどそんなことは気がつかないからね。
その時宇野沢さんだな、あれは。工場長がいるから大丈夫だ、落着けというてましたよ。
結局壕がざーつとつぶされ出したときには入つている人が不安を感じ出しているんだね - 玉村 児玉さん[註]は当日の行動を次のように語つておられました。以下メモをお読みいたします。[註 児玉常務:児玉寛一のことか。児玉は戦災当時日立工場の勤労関係の副工場長]
『当日は工場が休日なので水戸市にある学校工場の状況を見に行くつもりで朝自宅を出て日立駅(現在の旧駅側)に行き汽車を待つていた。その時B二九の第一波が海岸工場を爆撃した。自分は駅の構内外に居た多数の乗客を誘導して駅前のオープンの待避壕に待避させ、海岸工場の方を見ると煙塵が濛々として天に冲し、変圧器工場の方角から黒煙が凄じい勢で立昇つている。これは大変だとすぐに工場へ駈けつけた。
途中で眺洋館脇の国鉄踏切の処で八幡太郎の涌水の前の細い道を東島君(機械工務課長)が走つてくるのに会つた。『児玉さん大変ですね』といゝながら二人で踏切を通つて左へ曲り正門の方へ向つた。ポンプエ場の平海側の門の処に来た時『児玉さんこゝから入りましよう』という。自分は慌てていたのでそこに門があるのこ気がつかなかった。僕は『総本部へ行こう、来ている幹部が少いと困るから君も一緒に行かんか』というと、東島君は『私は海下本部の責任者だからそちらに人が少いといけないからこゝで大礼します』といつてた右に別れた。それが東島君との最後の別れになってしまつた。
ポンプエ場でもあちこち爆弾が当つて火が出ていたが皆一生懸命に消火作業をやつていた。海下食堂(省線門脇)のところに来たら吉田義弥君に会つた。吉田君はそこで何やら指図をしていた。吉田君ともこれが最後の別れだつた。
設計坂を上つて第二設計室の建家と研究所(第三設計室)の間の狭い通路に入った時、第二波の爆撃を受けたので、あの細い溝の中に伏せて待避した。
すぐポンプ工場の方を見ると今通つて来た食堂がやられて影も形もなくなつていた。
総本部へ行つたら大西さん以下幹部の人が無事でいたのでホッと安心した。
僕の部屋は本館の奥の図書室の隣だつたので、セーターだったか何かを取りに入つたが次の爆撃の後で行つたら自分の室がもうなかつた。
三笠宮様が来られる前に何とかいう陸軍大佐一行が下検分に来て宮様用の防空壕を見て行つたが、その壕が後藤君等の海北地区防護団の待避場所になつていて岩盤をくり抜いたがん丈なもので、絶対大丈夫の折紙つきだつた。後藤君は『児玉さんいざという時は私の壕に来なさい。絶対安全だから』と言つていたが、そこに入つた後藤君以下は全部亡くなつてしまつた。
和島藤助君(日立研究所副所長)は会瀬社宅から駈けつけて来る途中会瀬山側門の脇の素掘りの壕に入つて鉄帽の庇で頭蓋骨を砕いて即死されたのは痛恨事であつた。』 - [中略]
- 小宮 僕は電線工場の壕に出たり入つたりして、すつかり観戦しておつたのです。そうしたらちようど観兵式の編隊と同じだ。ちつとも編隊をくずさずにそのまゝぱーつと落していくんだ。一波二波三波四波皆一つもびくともせずそのまゝ落していくんだね、一つ位もどる奴もないんだね。
- 松野 小宮君は運のよい男だね。僕はとうとう壕に入つておつて見ないやねえ。(笑)
- 小宮 多賀あたりの上空で爆弾を落すとそれが最初横に見え、それから縦になつて、下へ落ちて来るんだね。それを濠に入つて聞いているのだよ。ざーつと雨のような音がするんだよ。それからドスンと音がすると命が助かつたと言つて外へ飛び出して行くんだね。
- 駒井 見ていて電線にも来ると思つたですか。
- 小宮 思つた。思つたが最後まで見とれというわけだよ。出たり入つたり、出たり入つたりして……。
- 大西 こわいもの見たさでね。(笑)
- 伊藤 あの編隊はすごかつたですよ。ふだんの編隊の時は凄味を感じないけど、爆弾を落す前から実に殺気がありました。
- 大西 それはね、落す瞬間は操縦士が速度、方向、距離をピツとしないとね。一番最初の分が落す。それと同時にパツと引くんですから、引いた瞬間には編隊がピンとしてないと当らないのだね。それをあなたがみたのだね。
- 伊藤 これはいけないと思いましたね。落さぬ前ですけどね。
- 駒井 爆撃は実に正確なものでしたね。
- 玉村 小宮さん電線から御覧になつておられまして、あれほどひどくやられているとはお思いにならなかつたでしようね。
- 小宮 どんどん燃えますからねえ。伝令を出したが帰つて来ないんですね。結局道が通れなくなつて行けないので、ポンプ工場の下のオープンの壕で見ておつたらしいんですがね。帰つて来ないから死んだと思つて心配しましたら、午後になつてぼちぼち帰つて来ましたよ。
- 駒井 本館の図書室のところがやられたでしよう。あの時本館の中におつて助かつた人はありますか。
- 玉村 あの時は誰も本館に居なかった筈ですね。私もあの時は防空濠の中へ入りました。
- 伊藤 本館がやられたのは一波ではなかったですか。
- 玉村 四波です。
- 松野 僕は駒井さんと一緒に居りましてね。工場があんなにひどくやられているとは思わずに、敵も案外やるものだなと言つたのも自分でも覚えていますがね、出て見たらもうてんでびつくりしちやつたんですけどね。
- 駒井 爆撃という概念が全然なかったのですね。ところで爆撃のあと、とに角海岸工場は壊滅したでしよう。爆撃の前海岸工場には二万人近く居りましたね[註]。爆撃のあとは人員の配分をどうしたのでしたかね。
- [註 6月10日の海岸工場出勤者は、本文の第5章「あゝ六月十日」によれば振替休日であったため1060人。そして爆撃による死者は634人。出勤者の約6割が亡くなったことになる。6月10日が通常通りの出勤日で、2万人近くが出勤していたなら、単純に計算すると1万人を超える犠牲者をだすところだった。6月10日は日曜日である。休日であることを知っていて米軍が攻撃したのかわからないが、ともかく犠牲者634人は偶然がもたらした数である]
- 大西 あのあと海岸工場の人々は発掘や、いろいろのことをする救援事業に相当数を使いました。それから、その他は山手に廻すとか、電線に廻すとかして女子とか学徒とかは帰してしまつたでしよう。
- 玉村 救援作業の話が出ましたけれど、児玉さんが鉱山の本山の坑夫さんをトラックで迎えに行つて応援してもらいましたが、あれは大西さんの御発意だつたのですか。
- 大西 あれはね、皆がいくら掘つてもざらざらくずれてだめなので、それならと僕が本山の河合氏にすぐ連絡をしたのです。『あなたのところの坑員の上手な人をニ、三十人貸さないかというと、われわれの所にもよくそんなことがあるから、十人位は板を巻きながらやる経験のあるのがいるが、十人位なら出そうということになり、トラックを迎えにやつて呼んで来たわけです。あの連中に掘つてもらった壕は壕掘りが大分早くなりました。
- 松野 炭坑の応援もあつたんですよ。
- 小宮 二、三日は電線工場からも人を出したんですが、もういらんといわれました。
- 松野 専門家でなければだめだつたのです。
- 駒井 掘つてもみんな崩れてしまうんですね、それで枠か何か組んで進んだのでしよう。
- 松野 枠を組んで矢板をズーッと順々にやつていたんです。私はトラックに上乗りして誰に工面してもらつたか知らんけど一升瓶を二、三本下げて本山までお礼に行きましたよ。
- 大西 河合さんというのは河合尭晴さんです。岡山の人なものですからよく知つていましたのですぐ連絡したのです。
- 小宮 森島さん、大西さんはしばらく電線の講堂で指揮をとられましたね。
- 大西 そうでしたね。爆撃のあとね。
- 小宮 ほんのしばらくでしたね。一週間も居られませんでした。
- 伊藤 ちようど私の室のすぐ前に不発弾が深くもぐつていましてね。最初知らずに出ていましたら憲兵が来て危険だからすぐのけというわけで私らはしばらく桜内クラブに移転しておりました。
- 松野 僕は大西さんから壕を掘つて死体を収容する方の責任者を言いつかつたんですよ。ところがその前に図面がちやんと整備されて横穴がどこに、建家との関係位置がどうあるとちやんときまつていたのですが、見当をつけて掘って見ても穴がないんですね。場所が判らなくなつてしまつて概念的なのですよ。例えばボイラー工場のこの柱の正面にあつた筈だなんていうのですが、そこを掘つても穴が見つからなかつたりしてね。あんなことは二度とないんでしようが、あゝいう時に関係位置をきめておくのは余程遠くの安全の所から山は山を立てゝと申しますか余程正確な方法をやつておかないといけませんね。これが僕の大きな戦訓でした。
- 森島 防空壕の入口が判らないので困つたあげく、図面の上で見当をつけて、上から掘つて見ようということで何日日か後に上から掘つてね。そうしたら掘つたところに冷い水溜りがあつて、二人程死体が発掘されたが、このことにもう少し早く気がつけばと残念がつたよ。
- 大西 僕は掘出しで困つたのは一週間壕を一生懸命掘つたが、いくら掘つても駄目でね、そのうちみんな疲労してくるし、予想以上の難事業でね。毎日来て見守つている家族の人達の姿にはげまされて壕掘りを続けたのですけどねえ。
- 松野 あれで今でも忘れられないのは、後藤登一郎さんの死体が仲々出なくて、後藤さんの遺族がたしかにこの辺に居る筈だというわけで、そこから動かなかつたりしたことがありましたね。
- 駒井 何日位発掘しましたか。
- 大西 一ヶ月はひたすら掘り続けましたね。
- 松野 やりましたよ。艦砲射撃、焼夷弾攻撃をうけてから一時やめていましたがね。
- 万田 いつ打切るかということが大分問題になりましたね。
- [註 発掘をいつまで続けるか。厳しい判断である。長時間の議論がなされたはずである。しかし司会者はあっさりと話題を変える。万田の提起を避けるようにして]
- 玉村 死体処理については万田さんが大変苦労なさいましたが、一つお聞かせ頂けませんか。
- 万田 忘れましたね。
- [註 話題を転換された万田の怒りが伝わってくる。同時にこの話題に触れる必要はないという万田の判断であろうか]
- 大西 焼くのに困つたね。
- 伊藤 どこで焼いたのですか。
- 大西 いよいよ困つて、田村勝人さんに頼んで、山手の乾燥炉で焼いて貰つたが、いやがつていたのを田村さんがとうとうやつたね。
- 玉村 あれで大量に処理できましたので、六日二十日の第一回の慰霊祭に間にあつたのですが、よく短時日にあれだけやれたと思いますね。
五、艦砲射撃、焼夷弾による被災
- 大西 僕の予想に反したのはねえ、爆撃を受けたからこれでもう日立工場はやられない。もう来ないから建家はこわれたまゝにしておいてその下で作業をやれば一番安全だ。工場の中に頑張つてさえいればよいと思っていました。
そうしたらその次の艦砲でね、こいつはちよつと予定が狂いましたね。艦砲射撃そのものよりは、どこまでやつて来るか、結局上陸して来て我々は一人残らず逃げることしか方法がないかと思いました。
僕は艦砲射撃の時の方が、爆撃の時よりもショックが大きかつたですなあ。 - 伊藤 艦砲は全部目標は工場だったんでしょう。それが百米とか、五百米とかはずれて社宅に命中したんですね。
- 大西 海岸工場は一トン爆弾でつぶされたが、まだ電線だの山手が残つている。ちやんと向うはそれを写真にとつてね。それを照準して射つたのですよ。やはり艦砲はみな山の方へ行つてるよ。海岸工場はやられなかつた。
- 小宮 平沢社宅、諏訪台社宅へ命中しましたね。それから桜内の社宅がやられておつた。ちようど電線は真中にあつて助かった。僕は電線の壕の中にいましたが、あの時はどしや降りの雨でしたよ。壕の中で半身水につかつてね、寮や社宅がどんどんやられるのを聞いてたわけです。
- 大西 艦砲の時はちようど家内が水戸の家からやつて来てね。待避しないというのを僕がむりやり庭に待避させたんですよ。そしたら電柱ヘゴツンと何か当つたのだね。電柱を見ると大きな疵がついているのだな。それでピカッと光るでしょう。これは爆撃ではない。これはいかんと艦砲の最中、家内のいやがるのを手をひいてあの平沢の横穴壕へ入つたのです。
- 伊藤 破片が大分とんでいましたよ、僕の家にも三、四発入つていましたからね。
- 小宮 鹿島神杜の横の女子寮がやられましたね大分。
- 松野 あゝあの辺もひどかつた。
- 玉村 たびたび戦災を受けましたが、一番困つたのは焼夷弾で焼けて食うものも、着るものも何もなくなつた時が一番御心配なさつたと思いますが。
- 大西 僕は焼夷弾の時は、みな馴れつこになっていましたからある程度せいせいしたと感じたねもう。艦砲では人命に被害も多くこいつは困つたなと思つたけれどね。
- 駒井 焼夷弾は一番覚悟ができていたんじやなかつたですか。大体来るべきものが来たからこれで一人前になつたということで。
- 大西 東京の人にでも自分の家が焼かれて、あゝこれで順番がすんでせいせいしたと言つて居た人が随分居ましたからねえ。
- 松野 焼けない人はおつき合いが悪いということになりまして、肩身がせまいといつてね。(笑)
- 小宮 僕は艦砲射撃で電線工場は助かつておりますので焼夷弾の時も大丈夫だと思つていたのですよ。そうしたら玉村さんと宇野沢さんが来ましてね。無駄に工場に居つてはいけないから逃げろ、工場長命令だというので一度は山へ逃げたんだが、又工場に入つたんだ。その時は十人位しか来なかつたよ。それで焼夷弾を拾つたのだが拾い切れなかつた。いよいよ逃げようと思つたら裏に、日月さん(日月紋次氏 絶縁物工場長)が山崎工場へまだ移さないクロロナフタリンが沢山おいてあつて、それに火がついてしまつたんだ。その中へ紛れ込んじやつたから、とうとう死ぬかなと思つたが何とか抜け出してね。消防ポンプはまだ大丈夫だから出せと言つたところ、結柴という課員がね、それは児玉さんが山手工場を消すために持つて行つちやったというんですよ。困つたからこんどはバケツリレーで消せというんで朝までかゝつて消しておつたんです。そしたら大西さんが軍刀を持つて来てくれまして、おゝ生きていたかと握手してくれました。(笑)
惜しいと思いましたね。電線工場は何としても最後まで助かるものと執念深く思つていましたからね。 - 玉村 私はあの時は小宮さんは頑張っておられましたけど、とに角ワニスエ場がありましよう。あれに火がついたら皆さんが死んでしまうと思いましてね。
- 小宮 いや大半は山崎工場へ移つておったんです。少しだけ残つておった程度です。
- 大西 焼夷弾の時は電線工場を一番心配しておつた。電線工場のすぐ横の平沢に居つたからね。ずつと見ておりました。燃えている最中行こうと思つたけれど、どうしても入れなくつて少しおそくなつてね。
- 小宮 電線工場はよそがやられた後からやられました。町より遅かつたですよ、だから助かると思つていました。
- 玉村 電線工場は遅うございました。平沢が一番後でした。僕も平沢社宅は助かると思いました。
- 大西 焼夷弾でやられた比率は全国の都市の中でも日立市が一番大きい方ではないですか。
東京や何かも全部加えれば大きな比率でしようが、一回の爆撃であれだけやられたのは恐らく日立市などが一番ではないでしようか。 - 伊藤 艦砲で追出されちやつて、無人のところをやられたのですからね。
- 大西 だから結局向うは一トン爆弾を使い、艦砲を使い、焼夷弾を使うというように日立に対し計画的に徹底的にやるつもりでおつたんだろう。もう一つ広島のような原子爆弾をやられたらひどかつたよ。物は考えようだよねえ。(笑)
- 駒井 前にいろいろとやられていなかつたら原子爆弾を持つて来たかも知れませんね。
- 大西 そうかも知れませんね。
- 玉村 私はあの当時感じましたし、今でもそう思つておりますがあの当時の主脳部の方々があれほどの混乱した状況下で、誰一人逃げかくれしようとしなかつたこと、これには私は感激しましたね。
大西さんが泰然自若としておられるものですから、自然何となく安心めいた気持になりましたが、およそ幹部の方も落着いておられましたね。 - 大西 逃げようとしても逃げる所がないやね。(笑)
- 伊藤 それはやっぱり日立精神でしよう。
- 小宮 工場に対する愛情が強いんじやないですかな。
泰然とか何とか言うよりも、社長から預かつたものを何とかして大切にしようという愛情を感じているからねえ。 - 大西 まあ恐らく国内に残つていても、第一線のいわゆる矢玉の中をくぐって来たのと同じ経験だからなあ。
- 大西 まあ恐らく国内に残つていても、第一線のいわゆる矢玉の中をくぐって来たのと同じ経験だからなあ。
- 松野 矢張り一種の責任感ですよ。それからこんな表現の仕方があるのかどうか知らんが僕は日立が爆撃される前までは、爆撃された経験のある中島飛行機の連中が社用で日立へ来た折などね、警報が出るとすぐそわそわしてしまうのですね。当時大和魂がないように思つたけどねえ。しかしあの艦砲射撃をうけたあとというものは、後の方で気がつかないのにドアがバタンとしまつたりするとすぐビクッとするでしよう。それはまあ責任感はあるから仕事はしますけどねえ。動物の保存本能といゝますか、ビクッとするところは皆さんもあつただろうと思いますね。
- 大西 爆撃後は空襲警報が出るとよく遠隔待避をやりましたねえ。すぐ近くに高射砲陣地のある鮎川の沢の所にねえ。すると高射砲が横の方でボーン、ボーンと射つんだな。だから空襲そのものよりも高射砲の音でビクッとしちやうんだな。(笑)考えて見ると高射砲陣地の近所へ待避するなんて場所が悪いね。どうして我々はあそこへ待避することになつたのかなあ。それよりは会瀬浜の船着きの所の横穴の方があとから考えるとよかつたと思うよ。
- 玉村 あの時分日立工場は三万数千の従業員が居りまして、それがあの職制で、従業員の構成は各種各様で、大変な時に一糸乱れずと申しますか混乱したような記憶はないんですが、大したものですね。命令がきかれなかつたということもありませんしね。
- 伊藤 幹部が生き残つておられたということが大きいね。
- 松野 六月十日爆撃の時に、社宅が殆んど被害をうけていなかつたことは助かりましたね。社宅が軒なみにやられたら大変な問題が起つたと思いますからね。
- 玉村 あの時幹部の入つておられた壕がつぶれていたら日立の歴史はよほど変つたでしようね。
- 伊藤 本部の壕の近辺の不発弾は何発ありましたか。
- 玉村 会計の横に二つ、設計の前に一つ、ボイラー室の横のところに半分爆発してばーつと吹きつけたあとがいつまでも残つておりました。ところで伊藤さん戦争保険では経理部長として苦労なさつたでしよう。
- 伊藤 あの時は戦争にまだ勝つつもりでいましたからね。大西工場長からも激励されますし、この機械はいくら傷んだ、この建家はどうなつていると、あの無茶苦茶にやられた工場を一つ一つ見て廻つたんですからね。それでやっと二億円位の査定になりましたかね。終戦になって一切御破算で金はもらえず、空手形に終りましたがね。
六、殉職者の追憶
- 玉村 殉職者について何か個々に思い出がございましたらお聞かせ願いたいと存じます。
- 大西 人間には本当に運不運というものがあつてね。ちよつとのところで生死のわかれ路になるんだね。
- 伊藤 第一波と第二波の中間にかけつけた人が多くやられていますが、死ぬために駈けつけたみたいになつてしまいましたね。和島さんなどもその例ですね。駈けつけて壕から壕へと移つて、助かつた人もありますしね。柴田君(正男氏)のようにこの壕に逃げて次の壕へ逃げていつたら前の壕がやられているというようなこともありますしね。
- 松野 関三郎さんという課長がいたでしよう。あの人は駅かどこかに居てね海下門へかけつけて、第二波かでやられて海下門の仮防空壕の所で生埋になつて亡くなつたのですが、駒井さんと僕で爆撃後に工場を見て廻つたとき、課長以上で最初に死体を見たのは関三郎さんでしたね。今の日立工場長の藤久保三四郎君は第一波後、家からかけつけたのですがね。タービン工場に入ったときに、第二波の襲来でタービン工場の中にたくさんのタービンのケーシングがつんであつたので、その下にもぐり込んで助かつたのですね。ですからかけつけた人で助かつた人も居りやあ、かけつけたため死んだ人もありやねえ、いろいろなんですね。
- 小宮 運だね、何といつても。
- 大西 殉職者の名簿を見ると、顔はうろ覚えだけれど、半分以上は知つているね、和島藤助さんとか幹部の人とかねえ。
- 伊藤 惜しい人ですね。
- 駒井 殉職者の遺族の人は全部消息が判つているのですか。
- 松野 全部判つているというわけでもありませんが、判るだけは今度の機会に調べようということになつています。
- [以下、戦災跡地・遺物の保存の話題を略]
七、終戦の日の思い出
- 玉村 終戦の時の御感想でもありましら何か……。
- 駒井 松野さんは神俣へ行つていましたか。
- 松野 神俣ではなくて、原の町です。高萩工場部を大西さんのいわゆる沢工場に疎開させる用事で斉藤君(哲夫氏)をつれて、前の日から泊りがけで行つてね。沢工場の敷地をきめて原の町から来たら当日重大放送があるといので、何か判らぬけど、高萩工場の庶務課長だつた樫村清直君と三人で、平で途中下車をして、樫村君の知人という新聞記者の自宅へ行つてあの放送を聞いたのですよ。
日立へ着いたらもう大西さんの演説が終つてもうぞろぞろぞろぞろ皆意気消沈して帰つてくるのに会つちやつてね。(笑) - 小宮 前の晩に今の電線部の今井部長が来てね。『小宮さん戦争は敗けたんですよ、もうだめですよ』というので『馬鹿なことを言うな』と言うと『東京ではドンドン書類を焼いています、もうあしたはつきり判りますから』という。それで僕が『あしたの放送はソビエトともう一ぺんけんかをするという放送だ、敗戦思想はだめだ。』と今井君に喰つてかゝつたのです。そしたら工場長から重大放送はラジオがないから社宅へ行つて聞けというわけです。そして聞いてがつかりしました。
もう今日は皆帰れと言うたら、毎日臨時給食の握り飯をやつていたがあれをどうしますかというから皆くれてしまえ、帰れというたら、しばらくしてから玉村さんからだつたか、工場長の放送があるからつれて来いというんだ。それから帰るのは待てといつて慌てましたね。 - 松野 大西さんはどんな話をされたのですか。
- 大西 混乱するなということは言いました。
- 小宮 大西さんはあの時国民服乙号という服装で、午後三時に玄関バルコニーに出られましてね。混乱するなといわれ、それから国を復興させる仕事かあるから日立はこれからもどんどん働かなければならないということ、それから戦争中ともすれば戦列から離れがちだつた人のことは今後は余り世話をできないということ、(笑)を言われましたよ。僕は大西さんの話を聞いて暗夜に灯を見た感がしましたね。
- 玉村 大西さんのあの時の御意見で食糧の確保ということを強調されましたね。それで万田さんが部長で食糧部ができて、大甕などの畠地を開墾しましたね。
- 大西 あの時は非常に危かつたですからね。
あの当時ですから一般的にアメリカというものに非常に嫌悪の念が強くて、アメリカ軍が上陸して来たら一億ちつ居とか、女はみな短刀を持てとかいろいろ言つていたが僕は腹の中ではアメリカは国民性としてそれ程の無茶はしないだろう。山奥へ逃げる必要はないだろう。
しかしどの程度を戦時犯として処刑するか、我々はもち論やられるだろうが、どこまでを残すか、相当の幹部のところを残してもらわないと結局復興はできないからね。日本民族を根だやしにするつもりなのか、或る程度復興させてくれるのか、そこいらに非常な危惧をもつておりました。
八、戦災復旧の苦心
- [略]