相賀砥の名称由来

島崎和夫

諏訪町の堂平では1970年代まで小規模だが砥石の生産が続けられていた。鎌などの農具を研磨するために利用された。

江戸時代、小宮山楓軒「水府志料」(文化4年成立 『茨城県史料 近世地誌編』所収)が大久保村の条に砥石について項目をたて、次のように説明している。

羽黒澤の奥ヌクトヤと云処より出す。宮田、助川、会瀬、諏訪、大久保、金沢、瀬谷七ヶ村にてほりとる。先年多くは会(相)賀砥と称し、諸方にひさぐ。

砥石は北は宮田村から(金沢村までは日立市域)南は瀬谷村(常陸太田市)の7ヶ村で生産される。それらは産地を異にしていても以前から相賀砥と称して、各方面に販売されている、というのである。

なぜ名称が相賀砥に統一されているのであろうか。

7ヶ村の一つ会瀬村は海に面していて、しかも唯一の漁村である。元禄以前は相賀村と言った。水戸藩第二代藩主の徳川光圀によって元禄11年(1698)に改名させられたのである。元禄以前の村名が「水府志料」が編纂された文化4年(1807)までこの地域で生産される砥石のブランド名として生きていたということになろう。逆に言えば、元禄以前からこの地域の砥石が、相賀砥として定着して、流通していたことを意味する。

この常陸国北部に分布し、採取され、加工された砥石が、一つの村の名前を冠して相賀砥と称されたのは、相賀村が砥石の各地への移出基地、積み出し浜になっていたからにほかならない。

本サイトに寒水石(大理石)を紹介する記事がある。その中の一つ「史料 諏訪村の寒水石、輸送中に海の底へ」に、明治12年(1879)日立市域のほぼ中央部にある諏訪村の山中から切り出された大理石が、会瀬村から船で東京に輸送される記事がある。諏訪村からなら河原子村という漁村が会瀬村とそれほど変わらない距離にあり、しかも坂道のない平坦な道を運ぶことができる。大きな坂を登らなければならない会瀬村へわざわざ運ぶ理由はどこにあるのか。

それは砥石を海上輸送していた実績が会瀬村にあったからだ、と考えられるのである。