大窪枕流

宝暦9年(1759)2月29日大久保村に生まれる。通称匠作、実名光慶、枕流は号。祖父宗精(実名光倫)、父匠作(実名光明)も郷医。大窪光茂は子。文政3(1820)年10月21日、62歳で歿する。その墓碑は大久保町の正伝寺跡墓地にあり、文と書は大窪詩仏である。

枕流が詩仏宅に滞在している時の医者としての力量をものがたるエピソードを詩仏が墓碑に次のように著している。脚色、誇張がまじっているように思えるが、詩仏が言いたいことは伝わってくる。

かつて枕流(光慶)は江戸に遊び、私(詩仏)の家に滞在した。郷里の人で江戸の藩邸に勤めた者がいた。咳嗽を患って長く治らなかった。枕流は診察して、肺に腫れものがある。吐剤を用いれば治ると言った。その人は江戸藩邸の藩医の診察を受けた。その医者は痰だから、そのうちに治ると言った。患者はその藩医の診察を聞いて、吐剤を飲むことを嫌がった。そして枕流のところにやってきてそのことを言った。枕流は、私は民間の田舎医者だ。見立てを間違えたかもしれない。藩医の診察に従ったらよいだろう、と言った。枕流は家族に告げた。あと十五日もすれば、必ず膿を吐くだろうと。はたしてその言葉どおりになった。その家族は驚いてやってきた。枕流は治療の方法はもはやないと答えた。患者は病をかかえたまま郷里に帰り、家に戻った途端死んでしまった。このことは私(詩仏)が間近に見たところである。枕流にこのことを書いて後に伝えるべきだと言った。枕流は、私は肺の腫瘍を治すことは何度もあった。その声音、容貌より察するだけでなく「一にその胸腹を按じて之れを知る。しかして心に得、手に応ず。言語・文字をもって伝うべからざるなり」と。

いとこ枕流は名医だが、水戸藩お抱えの医者は薮医者だ、と詩仏は言っているのである。そして医学書を読むだけでは医者になれない。学者ならそうでいい。しかし医者ならば患者の身体に聞いてみることだ。そうすれば心に響くものがあるはずだ。それによってはじめて適切な手だてを講ずることができる。それらは言葉や文字によって伝えることができるものではない、と言うのである。

権威にたよるな。おのが感覚を研ぎ澄ませ。こう詩仏は言っているのである。

[蛇足]この「人」欄で紹介している大窪詩仏・大窪光慶・大内正敬・柴田新兵衛の4人に共通しているのは、化政期の人々であること。一方、光慶の子である光茂と新兵衛の弟方庵の二人に共通しているものがある。天保期に生きたのである。お読みいただけたらご理解いただけるものと思う。しかし光茂・方庵の2人と詩仏たち4人のちがいを単に「生きた時代のちがい」では説明したことにはならない。どう説明したらよいやら。時間をいただきたいと思う。

墓碑から

日立の碑』から墓碑全文を紹介する。

[墓碑正面]

枕流大窪先生墓

[碑文]

君姓源氏大窪諱光慶字子敬號枕流伯父赤城先生第二子也母赤須氏君夙承箕裘以醫為業其術精其業行數十里外輿馬相迎殆無虚日其起癈活死來不知幾千百也甞遊江戸寓於予家有郷人役於藩邸者患咳嗽久不愈君一診曰肺臃也用吐劑而可治矣其人又請診於藩之一醫醫曰痰也何難治之有其人聞醫言之容易不欲用吐劑来告君君曰我草澤俚醫恐診之誤汝宜受其治其人退矣君告其族曰後經十五日必応吐膿既而果如其言其族駭来告君君曰無治可施舁病歸郷到家則死矣是予所親視固謂君曰此事」宜書傳於後君曰我治肺臃数矣不惟察其聲音容貌一按其胸腹而知之矣然得於心應於手不可以言語文字傳也嗚呼君之於伎實多古今未發之論其他異事奇術往往存於郷人口碑  文公之世蒙錫命之寵及今公賜金賞之君以寳暦己卯二月廿九日生文政庚辰十月廿一日病卒行年六十二葬哲勝山先塋側如其世系祖杏軒考赤城二先生碑審載之今略焉銘曰
術者精於專 其行在於精 起廢或活死 遠近争相迎 實者名之賓 有實故有名 二蒙錫命寵 寔是子孫榮 不惟子孫榮 足顯爾所生
     文政五年歳在壬午秋九月 従弟行撰并書

[読み下し文]

君、姓は源氏大窪、諱は光慶、字は子敬、号は枕流、伯父赤城先生の第二子なり。母は赤須氏。君、つと箕裘ききゆうを承けて医を以って業と為す。其の術は精しく、其の業は数十里の外に行わる。輿馬よば相い迎えて殆ど虚日無し。其の廃を起こし死を活かし来たること、幾千百なるを知らざるなり。
かつて江戸に遊び、予が家に寓す。郷人の藩邸に役する者有り。咳嗽がいそうを患いて久しくえず。君、一たび診て曰く、肺臃はいようなり、吐剤を用いなば治るべし」と。其の人、又診を藩の一医に請う。医曰く、「痰なり、何ぞ治り難きこと之れ有らんや」と。其の人、医の言の容易なるを聞いて、吐剤を用いるを欲せず。来りて君に告ぐ。君曰く、「我は草澤そうたく俚医りいなり、恐らく之れを診るを誤てり、汝、宜しく其の治を受くべし」と。其の人退く。君、其の族に告げて曰く、「後十五日を経て、必ず応に膿を吐くべし」と。既にして果たして其の言の如し。其の族、おどろき来りて君に告ぐ。君曰く、「治の施すべき無し」と。病をかつぎて郷に帰り、家に到りて則ち死す。是予が親しく視る所。固く君に請いて曰く、「此の事宜しく書きて後に伝うべし」と。君曰く、「我肺臃を治すこと数々なり。惟だに其の声音、容貌より察するのみならず、一に其の胸腹を按じて之れを知る。然して心に得、手に応ず。言語・文字を以って伝うべからざるなり」と。
嗚呼、君のわざに於けるや実に古今未発の論多し。其の他、異事・奇術、往々にして郷人の口碑に存す。文公の世、錫命の寵を蒙り、今公に及んで金賞を賜る。れ君、宝暦己卯二月廿九日を以って生まれ、文政庚辰十月廿一日病没す。行年六十二。哲勝山先塋の側らに葬る。其の世系の如きは、祖杏軒・考赤城二先生の碑に審らかに之れを載す。今略す。銘に曰く。
術は専に精し 其の行は精に在り 廃を起こし或いは死を活かす 遠近争って相い迎う 実は名の賓なり 実有り故に名有り 二たび錫命の寵を蒙る まことに是れ子孫の栄 だに子孫の栄のみならず なんじ所生しよせいを顕わすに足る

語意

参考文献