暇修館

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三つの名称

大久保村(日立市大久保町)の暇修館は当初は興藝館[1]といい、閉鎖されるときには大久保郷校といいました。三つの名前をもつのです。そしてそれぞれに役割も変わっていきます。なお当時の記録には、大久保村学館・大久保医学館としても現れます。水戸藩の郷校のひとつです。

興藝館に先行して二つの郷校が設立されていました。小川村(小美玉市)の稽医館、延方村(潮来市)の延方学校です。いずれも文化年間(1804—18)水戸藩紅葉郡奉行の小宮山楓軒によって設けられました。

そして水戸藩の天保改革の一環として天保6年(1835)開設の湊村の敬業館(ひたちなか市)、同8年太田村の益習館(常陸太田市)、同10年に大久保村に興藝館が開かれました。それぞれの郡奉行所の管轄区域—南・北(太田)・東(松岡)郡—にひとつずつ配置されたのでした。

はじめは郷医(村医者)研修の場として設立されましたが、暇修館と名称が変わるときに村医者だけでなく村の神官や郷士、庄屋、一般農民に門戸が開かれました。つまり医学を学ぶ場だけではなくなったのです。

そして大久保郷校と改称されてからは、武術の鍛練に力が入れられました。

[註]

  1. [1]藝と芸:「藝」とは、才能・学問・技術の意味です。「芸」はウマゴヤシに似た香草の一種です。興芸館では意味をなしません。藝と芸とは別字なのですが、文科省は常用漢字に藝を入れず、画数の少ない芸を藝のかわりに使うようにと言っています(脳の省力化ですね)。しかし本稿では文科省の「お達」とは異なる本来の表記をしました。

興藝館・暇修館・大久保郷校 略年表

天保10年(1839)6月27日 興藝館開館

初代館守は 大窪光茂 。光茂は大久保村の医者。かつて佐竹氏の重臣大窪氏の居城であった大窪城。その自分の土地を興藝館用地として藩に提供。

天保11年(1840)6月 藩主徳川斉昭は助川館(海防城)を視察したのち興藝館に宿泊。翌日大窪光茂は「傷寒論」を講釈。

天保14年(1843)9月 2代目館守に菅政友[2]

菅は水戸の町医の家に生まれ、延方村(潮来市)で医者をつとめていた。

開館まもないときに、農政学者の長島尉信が興藝館をおとずれ、下のような間取り図を残した[3]

  1. [2]菅政友:「かん まさすけ」とよむそうです。彼は歴史学者でもあり、菅の写になる「常陸国風土記」(茨城県立歴史館蔵)は、数ある写本の中で最も信頼のおけるものとして利用されています。菅の写本をテクストにした『茨城県史料 古代編』や沖森卓也らの『常陸国風土記』(山川出版社)で読むことができます。
  2. [3]「戴水漫筆」(茨城県立歴史館蔵)。および瀬谷義彦『水戸藩郷校の史的研究』所収の図をもとに作成

写真

左:昭和10年(1935)ごろの暇修館。右側に式台のある玄関、左に入口が見える。興藝館の図面とは大きく異なっている。焼失後再建したとの記録は間違いなさそうである。写っている人たちは『百年の歩み』の大きな写真で見ると、制服をきた青年会の人々らしい。
 中央:昭和32年の暇修館。荒れ果てた感じがします。郷土博物館にある写真を使わせてもらいました。
 右:興藝館時代の図面をもとに復元された暇修館

参考文献・史料