一里塚

島崎和夫

日立市域には、海沿いに岩城海道(街道)と里川沿いに棚倉海道が通っています。これらの道にも一里塚は設けられていました(街道表記については「海道と街道」を参照)。

一里塚について「街道筋の距離を知る目処として、1里(約4km)毎に街道の両側に築いた塚。…江戸幕府は1604(慶長9)2月に江戸日本橋を起点にして東海・東山・北陸の3道へ一里塚を築きその上に榎や松を植え、さらに各地の主要街道へも築いた。旅人の便に供した街道施設であったが、明治以降の交通手段の変化により現在ではほとんど残っていない」と『岩波日本史辞典』は説明しています。

江戸時代の幕府が編纂した「元禄絵図 常陸国」[1]には・の記号が海道をはさんでいます。これは一里塚を示すものです。・が道筋をはさんでふたつ。したがって塚は道の両側にあるはず。しかし「・」は「記号」です。何の「記号」か。「築くよう定めたはずの一里塚」を意味するものです。実際にあったかどうかではない、と考えます。

ともかく岩城海道では、田中内村(大和田町)と森山・諏訪・助川・滑川・小木津(川尻)・伊師町の各村にあったことになっています。棚倉海道では東上淵村(下深荻町)に描かれています。それらの様子を水戸からの順に紹介します。

田中内村 両側に塚があった

第1図 慶応3年「久慈郡大和田村田
畑反別絵図」 上が北。茂宮川には
土橋がかかっていて、その手前にあ
った。

Google地図をもとに作成

地元の人たちの探索では、田中内の古い集落の北のはずれ、茂宮川をわたる手前にあったといいます[2]。それを裏付ける絵図(第1図)があります。赤い線が道です、下(水戸方面)からやってきた岩城海道が左(太田)からやってくる道に押されるようにして右に曲がっていくその付け根に、一里塚との文字はありませんが、樹木のようなものがふたつ描かれています。

はたしてこの絵図の作者が一里塚と認識していたのか疑問ですが、一里塚とみてよいと思います。しかも海道の両側にあります。『日立みなみ風土記』[2]に現地調査による想定図が掲載されています。まさにその位置です。

現在、この通りは直進して茂宮川をわたり、大橋の宿に向かいます。

森山村 ひとつだけ東側にあった

第2図 1957年千葉忠也さん撮影 
南から北を撮る。半分削られたような
塚のかたわらをスクーターが水戸方面
に向かっている。松並木が美しい。

森山の一里塚は1957年(昭和32)に撮影された写真(第2図)にくっきりと写っています。1958年以降すすんだ国道拡幅工事によってまったく削りとられ、現在は一里塚跡碑が建てられています(森山町二丁目の信号機がある交差点わき)。

両側にあったのであれば、撮影者はふたつをいれて写真を撮っているはずです。そうしていないことを考えれば、このときには東側にひとつだけあった、ということになります。森山村の田畑反別絵図は見つかっていませんから、断定的なことは言えませんが、東側にだけあったものと思います。

諏訪村 ひとつだけ西側にあった

第3図 天保15年「諏訪村反別絵
図」 上が南。

諏訪村の一里塚は、現代では跡もなく探しようがありません。しかし天保15年「諏訪村反別絵図」にあざやかに記されています(第3図)。一本の松が植えられた塚があるのは字城之内です。城之内の南東のはずれの荒地にあります。塚の下の赤く太い線は往還(岩城海道)です。塚の南側を川が流れています。これは桜川です。諏訪の一里塚は下孫宿をすぎ桜橋をわたり、すぐ左手にありました。

この塚の道はさんだ反対側は諏訪村字向原です。そこも荒地ですが、塚は描かれていません。諏訪村の一里塚はいわゆる片塚なのでしょう。

助川村 ひとつだけ東側にあったらしい

第4図 嘉永7年「助川村絵図」 左
が南、右が北。南北に走る太い線が
岩城海道。中央部で折れ曲がってい
るのは台地の上り下りをあらわす。
右手の坂の途中にあったと言う。

助川村の一里塚は、現在の日立第2高等学校の裏門附近にあったと諸書が言います。しかし反対側つまり日立市立助川小学校の正門側はまったく話題にのぼりません。つまり助川の一里塚も片塚であった、ということでしょうか。

助川村の田畑反別絵図は今に残っていません。しかし他の絵図、たとえば嘉永7年「助川村絵図」(第4図)には、海道ぞいの宿場の家々を一軒ごとに詳細に描いていても、塚はまったく見えません。この幕末の嘉永年間には一里塚はなかった、と言えるかもしれません。すくなくとも絵図師は一里塚をランドマークとして認識していなかった、と言えるでしょう。

滑川村 ひとつだけ西側にあった

第5図 天保13年「常陸国多賀郡滑川
村御検地絵図」 上が北。松並木に囲
まれた岩城海道は、一里塚のところで
坂道をくだる。

滑川村には天保13年「常陸国多賀郡滑川村御検地絵図」が残っています。字「社加原」には、第5図のように「壱り塚 古桜有」という記載のある円形の土地がありました。この場所に一里塚があったことがわかります。現在の滑川本町3丁目19-5あたりでしょうか。しかし海道をはさんで東側は山林で、塚の記載はありません。片塚かもしれません。

坂をくだると上田沢と下田沢、川の向こうは田尻村です。坂の途中の西側の山林は「壱り塚御立山」と名付けられています。御立山とは水戸藩有林のことです。

小木津・川尻村 築かれなかったか

第6図 「元禄絵図 常陸国」

「元禄絵図 常陸国」(第6図)には、川尻村の宿の手前に印があります。しかし川尻には影も形もありません。滑川の一里塚からの距離で想定すると小木津村内です。小木津と川尻の一里塚探索には多くの人が挑んでいます[3]。しかし見つかりません。距離的にどうやら宿(当時の市街地)から外れた小木津浜と折笠浜の中間地点のやまあいらしいのです。しかし見つかりません。天保13年の「常陸国多賀郡小木津村絵図」にもありません。としたら小木津・川尻に一里塚は築かれなかった、あるいは幕末にはなくなっていたと考えてはどうでしょうか。

[この項に関する補足を本文末尾でおこなった]

伊師町村 東側にひとつあった

伊師町の一里塚とされる場所は現在空き地となっています。伊師町の集落にはいる手前です。『十王町史 地誌編』[4]は「塚には年数の経た柃ひさかきが枝を元気よく伸ばしている」とありますが、現在では塚が削りとられたのでしょう、平坦になっています。一里塚跡となってしまいました。なお村の絵図は見つけられませんでした。

東上淵村 西側にひとつあったらしい

棚倉海道の一里塚です。日立市域ではこのひとつだけです。東上淵村は幕末に周辺の村とひとつになって、下深荻村となります。玉簾寺から中里中学校、中里郵便局をすぎ、旧道がバイパス(新道)に合流する地点の西側にひとつあったといいます。村絵図は見つけられませんでした。地元の人の記憶です[5]。しかし現在ではまったくその痕跡はありません。近年、道をはさんだところに一里塚跡の碑が地元の有志によって建立されました。なお村の絵図は見つけられませんでした。

一里塚は海道の両側にあったのか

あることもあれば、ないこともある。むしろ片塚が8例中7。片塚が断然多い。

もしかしたら、はじめから片塚であったことも否定できません。

一里ごとに塚は築かれたのか

きまりではそのはずです。しかし小木津と川尻とのあいだには築かれた形跡はありません。五海道のような大きな往還なら別ですが、岩城海道のような脇往還であるなら場所によってははじめから築かれなかった、と考えられるのではないでしょうか。

現在にのこる一里塚はあるのか

日立市内にはありません。森山と伊師町にだけ一里塚の跡が残っているだけです。いずれも塚は削られ、たいらになっています。

旅人の関心は

『道中記に見る江戸時代の日立地方』(古文書学習会編 2008年)には、27もの道中記が翻刻されていますが、一里塚の記載はひとつもありません。旅人は一里塚に関心がなかったといえるでしょう。

一里塚は役に立っていたのか

否、と断定するのは気が引けるのですが、片塚であったり、場合によっては築かれなかったり、築かれたとしても途中で削られてしまったりしていることから、そう考えるのです。

人が旅する。物を運ぶ。それに必要なのは一里塚ではなく、宿場です。雨雪を避け、危険をさけるために宿に泊まる。あるいは昼食をとる。休憩する。荷物を運ぶ馬が交替する。それが一定の間隔にあることが大事だと考えます。なぜ一里なのか。馬が荷を背負ってあるくことのできる限度の距離なのかもしれません。また宿場に備え付けの馬とくつわをとる馬子が次の宿まで行って帰ってくるのに適した距離だったのかもしれません。農業のあい間の伝馬役ですから。宿駅の農民の負担を公平にする意味でも、一定の距離に宿場があることは重要です。これまで紹介してきた岩城海道の一里塚がある村と宿場の村とは一致します。つまり宿場が一里塚の役目もはたしていたとも考えられるのです。

ケンペルの見た一里塚

オランダ東インド会社の医師として長崎の出島に駐在したドイツ人医学者ケンペルが元禄4年(1691)5年の2回にオランダ商館長につき添って江戸に参府した。そのときの紀行文『日本誌』(『江戸参府旅行日記』平凡社東洋文庫)に次のような記述がある。< >内は引用者。

これらの街道<西海道・東海道>は幅広くゆったりとしているので、二つの旅行隊は触れあうこともなくすれ違うことができる。日本国内の仕来りに従っていうと、上りの、すなわち都に向かって旅するものは道の左側を、下りの、つまり都から遠くへ向かう者は、右側を歩かねばならないのであって、こうした習慣は、定着して規則となるに至った。これらの街道には、旅行者に進み具合がわかるように里程を示す標柱があって距離が書いてある。江戸の代表的な橋、特に日本橋つまりヤーパンの橋と名付けられている橋を一般の基点としているので、旅行中自分たちがこの橋または首都からどれだけ離れているかを、すぐに知ることができる<以上は榜示杭のこと>。街道の両側には、一本ないし数本の樹木を植えた二つの丘が互いに向かい合って築かれていて、里程標として役立つ<以上は一里塚のこと>。国や大・小名の領地が終わるところには、木か石の柱が立っていて、国境と藩を示す文字が記されているのを見出す<以上は榜示杭のこと>。また街道が分かれている所にも、このような道標があり、この道がどこへ通じ、次の重要な町がそこからどれくらいの距離があるかを知ることができる。

[小木津・川尻の一里塚についての補足] 2012-02-12

『豊浦の歴史』[6]が「豊浦近隣に残る一里塚は…確定されていないが」としながらも、「折笠浜の権現山に見られる」という。岩城海道が小木津浜の東連津川を越えてすぐに左に折れ、山越えして、折笠浜の集落に入る直前の地点に「古老の伝えでは権現山と対に小山があった」ことから、「川尻一里塚の有力候補地」と述べている。小木津村でもなく、川尻村でもない。折笠村の浜集落に一里塚はあったのだというのです。「元禄絵図 常陸国」の・・の印があるところは、たしかに折笠浜だとしてもおかしくありません。現在では塚の痕跡すらなく、折笠村の田畑反別絵図は残っていませんが、「有力候補地」であることを否定できません。なお折笠浜を描いた幕末期の絵図が3点あるが[7]、いずれにも一里塚は描かれていません。これらの絵図師も一里塚をランドマークとして認識していなかったのでしょう。

[註]

  1. [1]「元禄絵図 常陸国」は、国立公文書館デジタルアーカイブスで見ることができます。
    この絵図で村名と村高を表示している位置は、海道筋なら宿場、そうではない村は中心集落です。そして一里塚の表示は、村名との距離関係においてほぼ正確です。日立市域という限定付ですが、それは絵図の作成者が水戸藩であることによるものだと思われます。自領については土地鑑があるので自信あり、なのかもしれません。
  2. [2]日立みなみ歴史風俗研究会『日立みなみ風土記』(2002年)
  3. [3]「岩城相馬街道の一里塚−日立地方−」(山椒の会『はじかみ』第19号 1994年)
  4. [4]十王町史編さん調査会『十王町史 地誌編』(2008年)
  5. [5]鯉淵節子「棚倉街道の上淵一里塚について」(『日立の民間信仰 第1集』 発行年不明)
  6. [6]豊浦の歴史編纂委員会『豊浦の歴史』(1998年)
  7. [7]日立市郷土博物館『村絵図にみる日立』(2004年)