大窪詩仏と頼山陽

大森 林造

詩佛がはじめて頼山陽と顔をあわせたのは、文政十年(一八二七)詩佛六十一歳の夏である。

それまで機会に恵まれなかった。秋田藩大坂蔵屋敷留守居役の介川緑堂の周旋によって、ようやく大坂で会うことができたのである。二晩にわたって浪華橋から舟を浮かべ、詩佛たちは納涼を兼ねて存分に詩酒を楽しんだ。

その後、詩佛は紀伊を巡ってから、今度はみずから京の山陽宅を訪れている。次はその折の山陽宅での詩佛の詠である。

雨余橋下水粼々。渡水来訪寄傲人。五斗今吾被渠縛。愧君長作葛天民。
雨余うよ、橋下きょうか、水粼々りんりん。渡水来り訪ぬ、寄傲きごうの人。五斗、いま吾渠れに縛せらる。愧ず、君が長く葛天かつてんの民と作るに。

雨が上がり、鴨川が光っていた。詩佛の来訪に山陽の妻はさっそく酒の用意にかかっている。夫から三十年来聞きつづけてきた大詩人の来訪なのである。山陽は伊丹の酒と立派な酒器を用意していた。詩佛は山陽が詠んだ詩に次韻して示したのがこの詩である。詩佛は、自分がいま僅かな俸禄で秋田藩儒になっているのに、山陽が陶淵明のように自由の境涯を楽しんでいる、と詩の中で羨んでみせているのである。

江戸に戻った詩佛は二年後の春、江戸の大火で詩聖堂を焼失し、その年の冬に妻に先立たれてしまう。山陽は遥かに詩を寄せて詩佛を励ましている。ところがその三年後、今度は山陽が五十三歳の若さで没するのである。詩佛の悲嘆は深く、「茫然として語無く、涙頻りに弾く」とその晩詩中に詠んだ。

『茨城新聞』2008年4月 「江戸の大流行詩人 大窪詩仏展」より

写真:大窪詩佛筆 江戸後期 紙本墨書 131.8×28.3cm