向島百花園の大窪詩佛


庭門


画竹碑

2008年春、江戸時代後期の大久保村出身の漢詩人大窪詩仏の展覧会が郷土博物館で開催されました。この展示では詩仏の書画幅のほかに詩仏の石碑の拓本も十点ほど展示されていました。展示された書幅の多くが草書であるように、詩仏の書といえば草書と思っていましたが、石碑では楷書・隷書・篆書でさまざまに書いています。

その詩仏の筆になる碑は現在東京を中心に30ほど残っていることがわかっています。そのひとつに国の史跡・名勝に指定されている向島百花園(墨田区東向島)の画竹碑があります。百花園は江戸時代、骨董商を営んでいた佐原鞠塢(さわらきくう)によって文化元(1804)年ごろにつくられた庭園で、交遊のあった詩仏をはじめとする文人の協力がありました。百花園は昭和の戦前期にその土地約3000坪が佐原家から東京市に寄付され、現在は東京都のものになっています。その園内で佐原鞠塢の子孫の佐原洋子さんが「茶亭さはら」を開いています。

 
「茶亭さはら」で売っている菓子のしおり

百花園の庭門には詩仏の「春夏秋冬花不断」「東西南北客争来」の対聯(複製)がかかっていて、来園者を迎えます。木々や野草でうっそうとした庭園の中を進むと、中央に竹笹に囲まれるようにして詩仏の画竹碑があります。詩仏の竹の画に弟子で桐生の豪商である佐羽淡斎が賛をよせています。碑陰には友人で儒者の朝川善庵が文章を寄せています。余談ですが、長崎で活躍した会瀬村出身の蘭方医柴田方庵は、江戸の善庵のもとで儒学を学んでいます。詩仏と方庵は善庵を介して出会っていたかもしれません。

百花園内には江戸時代からの石碑が三十近くあり、拓本を採らせてほしいという要望が数多くよせられるそうです。なかでも詩仏の画竹碑は一番人気であるといいます。しかし残念ながら拓本は採ることはできません。関東大震災と東京大空襲の火災にあった詩仏の画竹碑は近年亀裂がめだってきたからです。そのため昨年に専門家の調査がなされ、保護の手だてを検討中とのことです。詩仏が東京で大事にされていることがわかります。

日立市の大久保町の正伝寺墓地にある郷医大窪枕流の墓碑の撰文と書が、大窪詩仏であることを知っている人は少ないでしょう。いや工都日立市においては忘れ去られてしまっているかのようです。

東京には小倉藩第七代藩主小笠原忠徴の筆による詩仏の墓碑が池上本門寺(大田区)に、百花園近くの白髭神社(墨田区)には「墨多三絶之碑」、寛永寺(台東区)に虫塚、国の重要文化財の旧岩崎邸(台東区)の庭園には「香月亭旧蹟碑」があります。このほか詩仏の文や書、題額による碑が九つも東京にあります。東京で日立ゆかりの詩仏が楽しめるというわけです。